子供の四季  十二月

子供の四季  十二月
  初雪
11月末から12月になると雷が鳴るようになる。そんな日には母がよく「雷様が雪を持ってくるな」と言った。翌朝、世の中が変ったように明るくなっていた。外に出れば、辺り一面の銀世界、なんだか嬉しくなってあちこち飛び回った。それから、約5カ月間、鉛色の重苦しい空が越後を覆うことなど当時は夢にも思わなかった。終戦直後、未だ物資は不足、ゴム長靴も十分行きわたってはいなかった。戦前から残っていた兄弟のお下がりのゴム長靴をはいている子もいたが、藁(わら)靴の子が多かった。ゴム長靴がクラスに数足配給になった。私は長岡の空襲の罹災者ということで優先的にもらったような気がするが、あとはくじ引きで配られたのではなかったか。質の悪いゴムで、長靴は1カ月もはかないうちに屈伸の激しい親指の付け根やくるぶしの辺りに疲労の筋が入り、そのうち破れて水が入ってくるようになった。すると古くなった自転車の車輪のゴムチューブを切り取って、穴の部分にゴム糊で貼り付け修理した。この作業は自転車屋さんの副業だった。初雪が消え、また降ってということを繰り返しているうちに暮れには根雪となった。正月までに屋根の雪下ろしをする冬もあった。
 
  晦日
 1231日は一年中で一番忙しい日だとよく母が言っていた。子供たちは部屋の後片付けや台所の拭き掃除など何らかの役割分担を命じられた。母は朝から夕食のための料理作りに余念がなかった。世間では正月のごちそうと言うようであるが、我が家では、あるいは新潟地方では元旦よりも大晦日の方がごちそうが出たのではないか。普段は貧しい食卓でも大晦日だけはと当時単身赴任していた父も帰宅するので、母は張り切って、妹も動員していろいろ準備していた。当時の買い物は未だ現金買いでなく魚屋、八百屋など“付け”の所が多かった。各店ごとに通い帳という縦長の帳面があって、買い物に行く時それを店屋に持っていき、日付、品物名と金額を記入してもらう。細かい仕組みは忘れたが、月末になると各店から集金に来られた。母は何々さんが来られたら、これを渡すようにと各店ごとに金額を分けて用意していたような記憶がある。
 中学3年生の時の大晦日のことである。高校受験ということで私だけはこの日手伝いを免除されていた。昼前、勉強にも飽きたしと玄関の入り口の障子戸を開け、框(かまち)に腰を下ろし、ぼんやり通りを眺めていたら、馬が荷車を曳いて通り過ぎた。私は大声で母を呼んだらしい。何事が起こったかと母は台所から駆け付けた。私が「今、馬が通って行ったよ」と言ったら、母はこの忙しい時に何が起こったかと来てみればととても怒った。父も帰った夕食のとき、この話を持ち出した母は「あの時は、ごがねて、ごがねて、(業が煮て、腹が立って)」と言った。その後、何年も大晦日や正月が来るたびに母は口癖のようにこの話を持ち出した。そして、兄弟は無論、妻にまで伝わった。さらに妻を通して、子供たち、そして孫にまで伝わり、いまでもテレビに馬が出てくると孫娘がにやにやしながら、「じいちゃん、馬がいるよ」と教えに来てくれる。