204年2月 記憶 その7

 浅田先生は好奇心の強い方だった。小学校は地山を切り崩した崖の際に東向きに建てられていた。地山を切り崩して校舎を建てる際に円筒型埴輪が出土したとか1)。校舎の後ろの崖にはようやく腰をかがめて入り込めるようなトンネルがくり抜かれていて、地下水が流れだしていた。子供たちが入り込まないよう柵などしてあったような記憶がある。ある日の昼休み、先生は我々数人を引き連れ、懐中電灯をつけながらこのトンネルに入って行かれたことがある。むろん口止めされた。30mくらい入ったところで行きどまりだったか。足元には冷たい水が流れ、時々首筋などにも水滴が滴り落ちた。いま、このトンネルはどうなっているだろうか。正月には数人で先生のお宅にお邪魔した。おせち料理をごちそうになった後で、百人一首をやった。先生は札を読みながら、自分でも絵札を取られたが、その手付きは速かった。私の持ち札は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」他数枚しかなかった。これだけは取られないようにと目を凝らしていたが、時々やられた。

 家の近くにYさん一家が住んでおられた。次男で私より3年先輩のKさんは当時長岡高校生で、時々当時新潮社から出ていた「銀河」という月刊誌を貸してくださった。この雑誌を読むと少し大人になったような気がした。残念ながら、若くして亡くなられた。妹のTさんは同期だったが、彼女と遊んだ記憶がまったくない。当時はターザンごっこや魚釣り等、餓鬼どもとの遊びに夢中で女の子には未だ興味がなかったか。彼女はもっぱら、私の弟たちの相手をしてくれていたようだが、申し訳ないことに記憶がない。数十年もあとになってから聞かされた話である。

 6年生の春3月、5年間ほど住んだ思い出の多い寺町の家から、大屋敷(地名)の借家に引っ越すことになった。県道の一ノ町の外れ、清水橋から来迎寺の方に向かって4軒目、道路の西側の家だった。引っ越しは3月末の凍渡り(しみわたり)のできる冷え切った朝だった。未だ一面の雪の原を利用し、そりに荷物を積んで運んだ。一直線で7-800メートルくらいだっただろうか。近くのおばさんが二人助っ人に来てくださった。寺町の家から東の方に向かってなだらかな下り坂になっている雪野原をそりで荷物を運ぶのは、でこぼこ道を荷車やリヤカーで回り道して荷を運ぶよりはるかに労力が少なくて済んだ。

引っ越した家には未亡人のお婆さんが一人で住んでおられた。この家にしばらくの間同居した。一か月くらい後、息子さんを頼って上京された。帰省中だった息子さんは二十歳前後だったか、わずかな間だったが、いくつかの遊びを教わった。ある朝、そのお兄さんに連れられて、シャベルとバケツを持って未だ雪野原の田圃に向かった。雪に覆われていると言っても田の端の方にはところどころ、湧水があって雪が解けていた。そんなところを覗くと5ミリから1センチメートルの穴が数個ぽつぽつ開いていた。そこをめがけてシャベルを突き刺し、泥を救い上げ、雪面にほおりだすと茶色の泥の中に泥鰌が数匹居た。冬眠中なのかどうかはわからないがその動きは鈍く、容易に泥鰌は捕まえられた。こんなことを数回繰り返し数十匹の泥鰌を捕まえることが出きた。また、別の日には空気銃を持って小鳥撃ちにつれて行ってもらった。宙を飛んでいる雲雀や電線に泊まっている雀を狙ったが、たやすく撃ち落とせるものではなかった。直径数ミリメートルの鉛弾(ダムダム弾といったかと思う)を銃身の根元から折り曲げ、穴に詰め、撃たせてもらった。今は鉛弾など禁止されているのではないか。印象深い経験だった。

近所には80代の老夫婦が住んでおられた。通りに向いた部屋で、お祖父さんは小鳥を飼ったり、凧作りなどをしておられた。その様子が通りから窓ガラス越しによく見えた。何凧というのだろうか、横に長い鳥の形をした大きな凧だった。その凧作りの様子を長く眺めていたものである。

私はものつくりの様子を眺めるのが好きなようである。近くには靴屋さんがあった。また、寺町の家の近くには箪笥屋、彫刻士の店などもあって、次々新しいものが出来上がっていくのを眺めるのは楽しかった。 以下次号

  • 山口石根、東京片貝報、第108号(2023.12.25)