2024年3月 記憶その8

 大屋敷の家に移って早速、友達ができた。近くの朝日屋さんという大きな大工さんの家の確か5男でT君といって一歳年下だった。寺町のころも何人かの友達と遊んだが、T君と初めて心の通う友達ができたような気がした。朝日屋さんは寺町の家を建てた大工さんでもあった。工事現場でT君のお父さんの棟梁が家の建て初めの頃、あるいはもう家は建っていたから、後ろに増築する製糸工場建設の時だったかもしれないが、口に鉋屑を噛みながら柱を鉋で削っておられた様子を思い出す。薄い鉋屑がシュルシュルと鉋から吐き出される様子が面白く見飽きることがなかった。

 T君とは釣りをはじめいろんな遊びをしたが、今も鮮明に覚えているのは鈴虫捕りである。7月終りか8月初めの頃だった。家の前の県道を自転車で山屋の方に向かった。家から1kmくらい走っただろうか、山屋の外れ、小千谷の方向に向かって右側に杉の林があった。その中に幅1mくらい、深さ1mくらいの溝が数mにわたって掘られていた。何のために掘られたのだったのだろうか。この溝穴に入って、穴の壁面の窪んだ所や小さな穴に息を吹きかけると孵化したばかりの鈴虫が飛び出してくる。未だ、雄か雌かはわからない。これを両手でそっと抑え込むようにとらえて、紙袋に入れた。70年以上も前のこと、便利な薄いビーニル袋など未だ無かった。10匹くらい捕まえて家に持ち帰った。梅を漬けるのに使う直径20cmくらいの常滑焼の甕を母に借り、これに土を入れて鈴虫を放った。餌は削った鰹節、半分に切った茄子だった。時々新鮮なものに取り換えた。甕には隠れ家のつもりの枯れた木の根っこなども入れ、飛び出さないように亀の口をガーゼで覆った。1-2週間もすると幼虫も大きくなり、脱皮し雌か雄か分かるようになった。雄は確か、ペチャといった。背中に平らな、体以上に大きな白い半透明の羽を付けている。7月末か、8月初めには鳴き出した。鳴くときはこの羽をヨットのように垂直に立てて震わせる。この羽の擦りあう音が鳴き声となって聞こえるのである。数匹が同時に鳴くと夜中などうるさい位だった。9月も末になると、さすがに鳴き声も衰え、雄は一匹、一匹と雌に食われていなくなった。丸々肥えた雌たちは土中に産卵管を突き刺して卵を産むと息絶えた。甕はそのまま、部屋の隅の比較的暖かいところに放置し、時々乾燥を防ぐため霧吹きで土を湿らせた。翌春、4月頃恐る恐るガーゼの覆いを取ると卵から孵化した数mmの小さな幼虫が数十匹、むらむらうごめいている。無事、越冬してくれたと嬉しかった。早速、ゆで卵の黄身や細かく粉末のようにした煮干しを与えた。彼らはこれに群がり、食欲旺盛だった。土が乾燥しないよう時々霧吹きで水を吹きかけ、鳴くまで数か月間育てるのである。こんなことを毎年繰り返し、3年生になり受験勉強が忙しくなるころまで続けた。以下次号。