2020年6 月 教育婆ちゃん

  教育ママという言葉はあるが,教育祖母とか教育婆ちゃんという言葉は聞いたことがない.私事で恐縮であるが,そんな私の母のことを述べよう.

 今から50年ほど前,息子が1歳のころ,私たちは宮城県多賀城町(現多賀城市)に住み,共稼ぎをしていた.息子は近所の病院が経営する保育所にお世話になっていた.その年の冬,息子が重い風邪に罹った.白血球が異常に増え,心配した.ようやく治ったものの集団保育に耐えられるほどには体力がなかなか回復しなかった.妻も勤務があり,休むことができず,実家に相談したところ,まだ,60歳代で体力もあった母が孫の面倒を見ると言ってくれほっとした.小千谷の実家に妻が息子を連れて行った.別れるとき泣かれて困ったが,とにかく,息子を置いてきた.それから,約7ヵ月ほど息子は祖父母のもとでお世話になり元気になった.幸い,彼は祖父母になつき,あまり母親のことを思いだし泣きもせず(むろん父親の私のことも)順調に2歳の誕生日も過ぎた.妻が息子を連れ戻しに行ったとき,彼は母にしがみつき,妻の方には来ようとしなかったという.だましだまし,連れ帰ったが,妻は今でも,その時のことを思いだし,母親失格かと悲しかったという.母は孫を当時,未だ存在した魚沼線に始点から終点まで乗せたり,あちこち連れまわしたりした.自動車修理工場では飽きもせず車の修理される様子を眺めた.ある時「僕,大きくなったらおばあちゃんをオートバイに乗せてあげるね」といったそうな.その約束は息子が大学生のころ果たされた.彼はその頃流行った蜂族となり,オートバイで北海道をめぐり,帰宅の際(その頃,私たちは厚木に住んでいた),実家に立ち寄り,母をオートバイに乗せた.息子の背中にしがみついた母のうれしそうな写真が残っている.釣りが苦手だった父は,釣り竿を購入し,孫を近くの川に連れだした.息子が幼稚園に入るころには,時々,母から本が送られてきた.それが,絵本等ではなく,その頃,ポプラ社から発行されていた子供向けの世界偉人伝だった.実家の近くの本田書店から購入したものだった.この本屋さんはとうの昔に廃業したが,今も無人の建物が残っており,ガラス戸の内側には“小学館”などと染め抜かれた布製の旗が見える.送られてきた本は,豊臣秀吉二宮尊徳野口英世リンカーン,ワシントン,エジソン良寛さま,湯川秀樹など様々だった.

    息子が小学1, 2年生のころのある時,「僕,もう偉くなれないね」と気落ちしたようにぼそっとひとり言を言った.どうしてかと尋ねたら,「だって,豊臣秀吉二宮尊徳野口英世リンカーンも偉くなった人はみんな家が貧乏だったのに僕の家はそれほど貧乏ではないよね」といった.喜んでいいのかどうか,妙なことをいうもんだなと思ったが,慌てて「湯川秀樹のお父さんは京都大学の偉い先生で家も貧乏ではなかったよ.貧乏とは関係なく,偉くなれるかどうかは本人の努力次第だ」などとあまり説得力のないことを言ってその場をしのいだのを覚えている.

    息子は成長し,ウミガメやペンギンの研究を始めた.正月や夏休みに実家に行くと母はよく「ウミガメの研究が人さまの役に立つのかね.ペンギンは益鳥か害鳥か」などと息子を問い詰めていた.越後平野に生まれ育った母にとっては虫をよく捕ってくれるツバメは益鳥であり,秋になって稲が実るころ,田圃に何百羽もの群れを成して押し寄せ,稲穂をついばむ雀のことが頭に刷り込まれており,害鳥以外の何物でもなかったのである.また,息子が南極観測隊員になり,越冬することになった時には「税金を沢山使って南極に越冬することが何の役に立つのかね」などと言っていた.息子は何やらいうものの母が存命中には彼女を説得することができず,いつも苦笑いをしていた.「何の役に立つかわからないことにも研究予算を出すのが文化国家だ.韓国などは南極観測を行っていない」と息巻いていたが,母には通じなかった.

 研究を始めてから約30年,ようやく,母を説得し,納得させることができるような結果が得られ始めたと息子はほっとしているようである.地球温暖化,気候変動の原因究明に寄与するかもしれないデータが採れ始めているのである.気象衛星は絶えず海の温度を観測しているが,それは海面近くの温度である.ところがウミガメにセットされた温度計が様々な深度の海中の水温を記録したり,小型ビデオカメラが水中に漂うプラスチックごみの様子を撮影してくれる技術が確立しつつあるようである.また,海鳥の飛翔経路について海鳥が海面から離陸する際,向かい風方向に比べて追い風方向に飛ぶ際の飛行速度の差から海上風を見積もるやり方で風速が判り台風の予知などに寄与するかもしれないという.ただし,それが可能となるためには未だ,膨大なデータの蓄積が必要であろう.