2023年7月 記憶の初め

 記憶の初めは何歳くらいからなのだろうか。生まれたときのことを覚えているという人のことをどこかで読んだことがあるが、これは眉唾物として、私の場合は4歳くらいである。冬の夕方、私が何か親の言うことを聞かずごねていたのであろう。いきなり父が私を抱きかかえ、縁側の雨戸を開け、雪の降り積もっていた庭に放り投げたのである。未だ根雪が降り積もる前で、多分12月頃のような気がする。柔らかな粉雪の中でもがいたのをかすかに覚えている。白い雪の粉末が顔や首にまといついた。父は厳しい人だったが、物分かりはよく、子供たちには公正な人だった。この時は口で言ってもダメ、よほど私の態度を腹にすえかねたのであろう。いつか、どんな悪さをしたのか、確かめようと思っていたが、そんな機会もないまま、父は逝ってしまった。

 私は1939年7月23日の明け方生まれた。場所は長岡市学校町一丁目、長岡中学(今の長岡高等学校)の近くだった。戦前の長岡市の地図を見たことがあるが、家並みが戸主の名前で載っており、父の「佐藤修二」の記載もあった。暑い日だったと誕生日が来るたびに母は口癖のように言っていた。

 その他の記憶としては5歳の頃、長岡中央幼稚園(たしかそんな名前だった)に通っていた。場所がどこにあったのか、調べればわかるのだろうが、調べていない。受け持ちは本間先生というふっくらした感じのやさしく包容力のある女の先生、確か長岡駅前の”にしく旅館”の娘さんだと聞いた覚えがある。もう一人は土屋先生、眼の大きな面長の女の先生だった。私は泣き虫だったようだ。幼稚園でどんなことをしたのか、何を習ったのかは全く覚えていない。友達の名前はあきらくん、いつも帰りが一緒だった。家の近くをいまはもう廃線となった栃尾鉄道が走っていた。愛称で「とってつ」といった。先輩の悪ガキたちが五寸釘を線路の上に並べ、電車に何回か轢かせて薄くし、あとはコンクリートの壁で研いでナイフのようなものを作っては自慢していた。自分もこれに倣って、そんな悪さをしたことがある。栃尾鉄道は高校生の頃はまだ現役で、体育の授業でスキー学習の際はこれに乗って悠久山まで通ったものである。

 がらりとそれまでの生活環境が変わったのは1945年8月1日の夜からである。この夜、長岡市は米軍のB-29戦闘機による大空襲を受けた。私は父に、まだ3歳だった妹は母に負ぶわれ、栖吉川の河原に避難した。以前から長岡の空襲の噂はあったようで、いざというときには、父が必要最低限のものを詰めたリュックサックを背負い、私の手を引いて避難すると母と取り決めていたようだが、いざという夜、私は昼間あそび疲れたのか、いくら揺すっても眠りこけていて目を覚まさないので、やむを得ず父が背負ったとか。そのため、リュックサックは燃えてしまった。栖吉川の河原に臥せっていると月が煌々と照っていたのを覚えている。月齢を調べようと思っているが未だに果たせていない。それにもかかわらず、雨粒のようなものが頬などに当たった感覚があった。後で聞いた噂では、焼夷弾による爆撃効果を上げるため、灯油だったか、ガソリンだったかを撒いたとか。戦争とは言え、残酷なことをするものである。

敵機避け土手に伏しけり草いきれ

数年前の『おぢや文芸・俳壇』で特選に選ばれた拙句である。

翌朝、戻ってみると家はまる焼け、母が明朝のためにと米を研ぎお釜に入れておいたのがごはんとなって炊けていた。これに焼き味噌をつけて食べた。その日だったか、次の日か、母と私、妹の3人は母の実家のある脇野町字上岩井に向かった。母の両親はもうなくなっていたが家はあり、そこに母の兄家族一家が疎開していた。そこに我々も転がり込んだのである。焼け跡に掘っ立て小屋を建て、後始末をしていた父も一ヵ月くらい後に合流した。1946年4月脇野町小学校(国民学校と行ったかもしれない)に入学したが、一ヵ月ほどした5月、今度は父の故郷の小千谷市片貝町に引っ越した。当時は三島郡片貝村だった。

以下次号