2003年12月 記憶 その5

 これまで子供時代の遊び頰けた思い出ばかり述べてきた。でもこのことが私の人生をどれだけ豊かにしてくれたことか。子供は遊びが仕事である。そろそろ学校時代のことに話を進める。45年4月脇野町小学校に入学した時の先生を全く覚えていないことはすでに述べた。記憶がはっきりしているのは5月片貝小学校に転入してからである。国民学校と行ったかもしれない。1学年、160名くらい、東組、中組、西組に分かれていた。私は中組に転入、どういうわけか、この組は人数が少なく30名ちょっとだった。体の弱い、あるいはちょっと訳ありの子が集まっているとのうわさがあった。担任は藤塚初枝先生、40歳少し前位の私より2歳年上の男のいる戦争未亡人だった。福岡のご出身だったが、ご主人の郷里の片貝に疎開しておられた。きれいで物静か、包容力のある優しい先生だった。疎開っこといじめられ、泣き虫だった私をよく陰でかばい、励ましてくださった。3年生まで担任だったが、長期間同じ先生の受け持ちは良くないと4年生の組み換えの時、男の野中先生に変わった。あとでそんなことを母から聞いた。先生のことで妙なことを覚えている。先生の足の親指は内側に向いていて人差し指とぴったりついていた。われわれ子供たちの足の親指と人差し指の間は開いていたから、気になったのであろう。このことを不思議に思ったので訊ねたのであろうか。先生は子供の頃から靴を履いていたからだと言われ、子供心に納得した。我々は下駄や草履履きが普通でどうしても親指や人差し指に力がはいり指の間が広くなってしまうのである。昨今の子供たちはどうだろうか。藤塚先生は4年生の頃福岡に帰省され、その後も教師を続けられた。4年生の担任の中先生、多分20歳代後半から30年代前半の眼鏡をかけた男の先生だった。演劇に情熱を燃やしておられたようで、学芸会の折、職員で演ずる劇中でどんな筋だったかは覚えていないが、大きな声で叫び熱演されていたのを覚えている。

 2月25日は学問の神様、菅原道真公の命日、毎年この日小学校の学芸会が行われた。娯楽設備などなかった当時、この学芸会と運動会は父兄たちも参加する一日がかりの大イヴェントだった。学芸会には昼食持参で参加する親もあった。劇や踊り、合唱などが繰り広げられた。各学年からは演劇が披露された。私は1年生のとき、“舌切り雀”のお祖父さん役、二年生では“浦島太郎”、三年生の時は“ヘンデルとグレーテル”での父親役を振り当てられた。不思議なことにいずれの役も気の弱い、優しい性格の男性の役だった。今でも幕が開くときのドキドキ感、幕が下りた時の安堵感を思い出す。出演するのが恥ずかしく、逃げ回っていたが先生の説得でやらざるを得なかった。音響設備などもなく、手回し蓄音機で、静かな雰囲気を表す場面ではよく、“白鳥の湖” のレコードが演奏された。

1年から4年まで、どんなことを勉強したのだろうか。成績はまあまあだったようだが、具体的な内容は記憶にない。 以下次号