2024年1月 記憶 その6

 

 5年、6年の担任は浅田シズ先生、当時25歳前後だったのではなかろうか。結婚され、途中から安井姓に変わられた。第二次大戦中は20歳前で女子挺身隊の一員として学徒動員され、当時の逓信省でモールス信号を打つのが仕事だったと伺ったことがある。この辺、記憶があいまいであるが、ある年の町の文化祭で、理化学機械の展示品の中にモールス信号の発信機があり、「未だ打てるかしら」とつぶやきながら、トン、ツー、トンと懐かしそうにモールス信号を打っておられたのを目撃したのは確かである。毎日、絵日記を書くことが宿題だった。朝、提出すると赤ペンで何らかのコメントを書き、帰宅時時に返された。ある日の日記に少年雑誌の付録についてきた晴雨計のことを書いた。ボール紙細工で晴雨計らしきものを組み立てるとセロファン紙のぞき窓を通して天気の様子を示す表示面があった。そこが雨の日は桃色に、晴れの日は青色に変わった。コメントに「多分、塩化コバルトという薬が塗ってあると思います。この薬は湿気を帯びると赤味を帯び、乾燥すると青くなります」と書いてあった。その時はそんなものかと思っていたが、大学での無機化学の講義で金属錯体のことを教わった。塩化コバルト(II)は含む結晶水の数によって色が変化し、無水塩(淡青色)、一水塩(青紫色)、二水塩(バラ紫色)、六水塩(赤色)と多彩な色を示すのである。浅田先生はこのことを知識と知っておられたのか、私の日記のコメントを書くために調べられたのかは定かでないが、小学生に対してすごいことをなされたと後になって思うのである。乾燥剤のシリカゲルにもこの塩化コバルトが添加されており、赤味を帯びると青色になるまで乾燥器に入れ、再利用している。

  ある時の算数のテスト結果は50点以下だった。浅田先生に職員室に呼び出され、「あなたはこんな力ではないはずだ。手を抜きましたね」と厳しく叱られ身に浸みた。また、毎日給食後、シャーロックホームズや三銃士などの小説を読んでくださったのを懐かしく思いだす。先に述べた藤塚先生が博多に帰えられてから、両親を亡くした教え子を支えた事が美談として『主婦の友』か何かの婦人雑誌に載った記事を紹介してくださったこともあった。ある時、浅田先生の都合が悪かったのか、理科の時間を隣のクラスの本田一郎先生が代わりに受け持たれた。突然、水に釘を入れるとどうなるかといった錆に係るテストがあった。皆、出来が悪かったが運よく、私だけが100点だった。本田先生は「少しは祐一の真似をしろ」などと説教された。隣のひょうきんな男の子 (名前は憶えていない) が私をじっと眺めて「俺も明日から頭を虎刈りにしてもらおう」と言った。その頃、私の散髪は床屋に行かず母にしてもらっていたが、髪の毛の刈残しがあったのである。猛烈に恥ずかしく、帰宅後母に文句を言った。以下次号