2020年3月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海

 最近,上記書籍を読み,久しぶりに夢中になり,興奮した.内容は,約3万8千年前の後期旧石器時代にどのようにして人類(我々の祖先)が日本にやってきたかを実証しようとする海部陽介氏(国立科学博物館)の長年にわたる研究の最新結果を述べたものである.
 我々現人類,“ホモ・サピエンス(新人)”はアフリカで30万〜50万年出現し,その後,世界に拡散したと言われている.この間,世界各地にいたジャワ原人,ルソン原人,ネアンデルタール人など多様な原人や旧人が次々いなくなり,地球上の人類は我々,現人類のみとなった.原人や旧人はアフリカとユーラシア大陸の中〜低緯度地域に分布していたが,ホモサピエンスはそれを大幅に超えて,寒冷地や海洋島にも進出し,やがて全世界に暮らすようになった.その過程はそれぞれ壮大な物語であるが,ここでは省き,わが国のことである.人類は大陸で生まれたが,ある時何故か海を渡り始める.その最古の段階の5万〜3万年前にさかのぼる証拠が,インドネシアから日本列島に集中していることがわかってきた.かって,日本列島に30万年前の前期旧石器時代人が住んでいたと言われたことがあったが,これは石器類の捏造であったことが判明している.日本列島にホモ・サピエンスが現れたのは3万8千年前頃で,土器を伴わない後期旧石器時代とよばれる時代のことである.日本列島各地から報告されたこの後期旧石器時代の遺跡数は1万150もあり,さらに興味深いことにその年代はすべて3万8千年前以降に集中しているという.このころを境に誰かが日本列島にやってきたのである.年代決定は石器類の最新の各種物理的測定法により確かであろう.そのルートは北方,中国大陸,台湾(琉球列島経由)方面からと言われている.当時は氷河期で海面が低下し,大陸と繋がっていたから徒歩でやってきたと言われたこともあったが,最近の地質学的研究によれば,大陸等とはつながっていなかったという.当時の海面は現在より,約80メートル低かったが,津軽海峡は最も浅いところでも140メートルで海 (北海道で見つかるケナガマンモスの化石は本州では見つかっていない),朝鮮・対馬海峡の水深は140メートルほどで当時も海峡だった.琉球列島の海峡の大部分は水深が200メートルと深い.陸橋がなかったことを示すわかりやすい証拠は動物である.九州にも台湾にもいるサル,シカ,クマなどが沖縄の島々にはいない.また,島には本島にいないヤンバルクイナイリオモテヤマネコなど島に固有の動物ばかりであり,長期間これらの島々は孤立していたのである.それではホモ・サピエンスは日本列島にどうやってきたか.“舟”である.しかし,舟の遺物は石器類と異なり残っていないが一つの証拠がある.本州各地で見つかる石英製の石器の原石は本州から50キロメートル離れた神津島産で,旧石器時代人は頻繁に本土と島間を行き来していたと考えられている.一方,琉球列島の石垣島からは旧石器人骨が大量に発掘されている.そこで,著者らは沖縄ルートの入口として台湾から最も近い与那国島(この間140キロメートル,お互い肉眼でかすかに見える)を目指す航路を選び,この旧石器時代人が台湾から船で渡ってきたことを実証しようとする壮大なプロジェクトを企画した.2013年から3年間の準備期間を経て,2016年4月に国立博物館の主催事業として正式に発足した.実験資金は1億円以上,これがすべて民間から,クラウドファウンデイング,企業と個人の寄付,台湾の博物館からの寄付で賄われた.科研費などの国の予算でなく,民間の寄付金というところが感動的である.ここ数年間の安倍首相とそれを取り巻く人々の言動には怒りを通り越し,悲しみさえ覚えるが,成功するか否かもわからないプロジェクトにロマンを感じ,多くの人たちが賛同した上記の行為に,未だ,未だ我が国は希望があると思えてくるのである.
 3万年前,どのような舟で渡ったのか.遺物は残っていない.航海再現のためにこれを推定するのが最大の課題だった.検討の結果,1) 技術的に縄文時代の丸木舟を超えない(遺物がある),2) 海で使われた例がある,3) 地元に適当な材料があって過去に作られた何かしらの痕跡があるという基準を満たす舟として,多くの候補の中から,草束舟,竹筏舟,丸木船のどれかだろうと推定した.そして実際にこれらの舟を,4) 3万年前の道具で作れること,5) 琉球の海で機能することを確かめ,合格した舟が3万年前の航海舟の最終候補として残り,その舟で台湾から与那国島を目指す実験航海に挑戦したのである.
 まず,草束舟である.材料は与那国島に自生する,丈2メートルほどのガマ科のヒメガマである.これを大量に刈り取り(旧石器や貝殻で草を刈り取れることを確認後鉄鎌使用) 乾燥後,ツル科のトウツルモドキ(長さ10メートルものツル)で縛って草束(直径30センチメートル)とし,これを100個以上束ねて草舟を作った.6メートル級のヒメガマ舟で5人乗せるに十分な浮力が得られた.より大きな7人乗りの舟で与那国島から西表島(この間75キロメートル)を目指してのテスト航海を実施した.3万年前にはない方位磁石,腕時計,GPSは持たず,目標の西表島が見えないときは風やうねりや星から進路を探る古代航法で挑む.推進具の櫂は縄文時代のものを参考にした.著者は伴走の動力船に乗船,いよいよという危険な場面以外は口出しをしない約束,漕ぎ手はいずれもシーカヤック等の経験のあるベテラン(女性も1人乗船)だったが,残念ながら,出発地から26キロメートル,出発後8時間で海流に流され,これ以上無理と判断し走行を断念した.
(以下次号)

 

2020年2月 早春

2020年2月 早春

  どこからか聞こえ来る歌早春賦  祐一
 2月は私のもっとも好きな月である.もう異変ではなく暖冬が常になったとはいえ,未だ,朝晩の寒さは厳しい.しかし,おかげで夏とは異なり,足腰はしゃんとし爽快である.生まれ育った越後の2月はどんよりと曇った日々が続き,時々吹雪いた.それでも正月頃に比べて日足が伸び,たまに晴れた日には長く伸び切った氷柱の先端から水玉が落ちて,トタン屋根の雪のない部分で音を立てていた.今では想像もつかないが,60〜70年前は,雪が未だ1メートル以上,時には2メートルもあった.早く春が来いと希ったものである.雪がようやく解けた3月,と言っても固く踏み固められた雪道を近所の人総出で人力で地面を掘りだしたのであるが,夕方下駄を履いて,風呂屋に行けるようになったのがどんなにうれしかったことか.カタカタと音を立てて小走りに歩いたものである.18歳の時,仙台へ,ここで12年近く過ごしたが,やはり冬は雪こそ少なかったものの寒かった.このように30歳近くまでの冬の記憶がしっかりと脳に染みついたためか,春の予兆を感じさせる2月が好きになったのであろう.
 記憶と言えば,最近面白いTVを見た.ノンアルコールビールやノンアルコールワインを飲んでも気分が高揚するという内容だった.グラフの縦軸に気分の高揚度合い(正確な表現は忘れた),横軸に時間を取り曲線を描くと本物のビールを飲んだ場合とほぼ同じ挙動を示すという内容だった.原因は正確にはわからないが,アルコールを飲んだ際の記憶が脳にとどまっていて,それがノンアルコールビールを飲んだとき呼び起こされるのであろうということであった.私にも経験がある.2年ほど前,初期の胃癌の手術後数か月間,アルコールを禁じられた.この間に同期会だったか,忘年会だったか,アルコールを飲む機会があって,やむ負えず(というわけでもないが)ノンアルコールビールを飲んだ.製造技術の進歩のおかげで,わいわいやっているうちに本物のビールの味との区別が付かなくなり良い気分になったことがある.そこで,疑問がわいた.ノンアルコールビールを飲んで良い気分になってから車を運転したらどうなるのだろう.やはり運転技術,判断力が鈍るのだろうか.もし,そうなら事故を起こす可能性がある.このような分野の研究はどうなっているのだろうか.
 今,厚木の庭に咲いているのは白い水仙,椿,福寿草である.椿は薄いピンク色で花弁の一部に若干濃い紅色の筋が入っている.“越の麗人”という名前で,もう40年以上も前に園芸店から購入したものである.背丈3 メートル近い大木になってしまった.挿し木で増やした分身が椿の好きだった郷里のK君の庭にもある.また,2本の梅の木がそれぞれほんの数輪咲いている.あまりにも枝が伸びすぎて大木になったので,昨年暮れ思い切って剪定したためである.枯れなければよいがと少し心配している.幹に取り付けている巣箱が露になった.シジュウカラが今年も来てくれると良いが.水仙フリージア,アイリスなどの芽が力強く伸び始めている.どんどん春が近づいている.2月はこのような春の予兆なのである.

 

 

 

2020年1月 豊田佐吉の夢:電動飛行機

2020年1月 豊田佐吉の夢:電動飛行機

トヨタ自動車の祖,豊田佐吉は1925年,世界一周可能な飛行機用電池として「100馬力(英国馬力HPなら74.6 kW)で36時間連続運転可能で,かつ重量60貫(225 kg), 容積10立法尺(278 ℓ)を超えないもので,工業的に実施できるもの」という条件で革新的な電池の発明に100万円懸賞金を出すと発表した.今の20~30億円に相当するとされる1). 95年も前のことである.100馬力,36時間は2685.6 kWhで,エネルギー密度は12 kWh/kg相当となる.現在,NEDOで進行中の「革新型蓄電池先端科学基礎研究事業」(RISING 2)では,2030年に車載用蓄電池として500 Wh/kgの革新型蓄電池に見通しをつけることを目指している.実に豊田佐吉の設定した目標はこの24倍である.結局,これほどの画期的な電池はすぐにはできそうにもないということで,バッテリー発明奨励として50万円を発明協会に寄付し,発明協会の中にその評価をする研究室を設立したそうである2).佐吉の目標は未到達であるが,現在,ドローンの発展が目覚ましく,地形撮影その他の学術調査になくてはならないものになっている.間もなく,物流過程にも取り入れられようし,1~2人乗りのヘリコプターも登場するであろう.以上のような文章を2年ほど前,ある雑誌に執筆していた3),少し旧聞になるが,“電動航空機日本に期待”と題する新聞記事が大きく掲載された.米ボーイング社と経済産業省が去る1月,環境負荷が少なく静かな電動航空機の開発に向けた技術協力に合意したという内容であった4).最近は“空飛ぶ車”と言われているようで,国内外で活発な開発競争が行われている5).
少し話がそれる.私が以前から気になっているのは航空機からの排ガスである.ジェット旅客機に搭載する燃料の重量は大型機の場合,総重量の約40 %とか.たとえば、ジャンボ機(ボーイング747-400)の最大離陸重量は約400t( 本体重量:約180t,これに燃料と乗客・貨物・乗員重量が加わる) で,このうち約170tが燃料という(最大23万ℓ 搭載でき,これは200 ℓ 容量のドラム缶1,000本以上に相当)6 ).年間,何十万機ものジェット機が世界中を飛び回っていようが,それらから排出される排気ガス量は莫大であろう.大気圏の排ガスによる汚染を少しでも減らすために,佐吉の夢はかなわないものの,航空機のハイブリッド化は原理的に可能で,かつ利点はあるのだろうか.一度専門家に伺ってみたいものである.船舶のハイブリッド化もしかりである.環境汚染問題に敏感な人たちの間では例えば,ヨーロッパからアメリカに旅行する際に航空機は使わず船で移動することが行われているようである.
 
引用文献
1) 朝日新聞,2017年12月6日朝刊.
2) http://www.cordia.jp/2012/06/14/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89%E7%BF%81%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%9E%8B%E9%9B%BB%E6%B1%A0%E6%87%B8%E8%B3%9E/
3) 佐藤 祐一,「近未来電池の展望(上)」金属,275 (4),88 (2018).
4) 朝日新聞,2018年8月19日,朝刊.
5) 日本経済新聞,2020年1月1日,朝刊.
6) http://skyshipz.com/wings/d020.html

 

2019年12月 ベルリンの壁の破片

2019年12月 ベルリンの壁の破片

 ベルリンの壁の崩壊から30年,その節目にあたる去る11月9日,ベルリンをはじめとするドイツ各地で記念式典が行われたと報じられた.
 ところで私の手元に,このベルリンの壁の破片がある.12センチメートル×6センチメートルくらいの薄いコンクリートの破片で一部に橙色のペンキが付着している.これに私の手で1990年3月,T君よりと記入してある.当時,大学教師だった私の研究室のT君から「先生,お土産です」と言ってヨーロッパの一人旅から戻った時もらったのである.

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  私は未だ,東西の緊張が高く,この壁が存在していたころ,西ドイツのファルタという大きな電池メーカーを訪問したことがある.向こうの技術者にフランクフルト市内を案内された時,一般道路をNATO軍の兵士を乗せた大型戦車が隊列を組み通過していったのに遭遇した.日本は当時,平和を謳歌していたのに,ここは未だ戦場なんだと恐怖感を味わったことを思いだす.東西ドイツがこの壁で仕切られていた時,どれほどけ多くの東ドイツの人々が今はないこの壁を超えようと血や涙を流したことだろう.破片は軽いが重い歴史を感じる.
 当時は多くの学生諸君がアルバイト代でためた貯金や親に借金をして海外旅行に精を出した.今はどうか.未だ現役のかっての同僚に尋ねると「今の学生諸君は外に出たがらない」と嘆いていた.
 こんなこともあった.ある年,9月になっても出てこない学生がいた.当時,授業が始まるのは9月中旬からだったが,私の研究室では8月末までを夏休みとしていた.どうしたのかな,実家に連絡でもしようかと思っていたところ,海外電話だったか,ファックスだったかは忘れたが,「今,フィリッピンにいます.帰国はあと数日後になります」との知らせが入った.ようやく帰国した彼の話で事情が分かった.バスで市内観光した際,隣り合わせたおばさんたちと意気投合し,バスを降りた際,コンパをしようということになったのだそうな.近くの食堂で乾杯,わいわい騒いでいるうちに眠ってしまったとか.翌朝,目覚めたら,財布,パスポートが無くなっていた.店ともグルの計画的なもので,眠り薬を飲まされたらしいと言っていた.早速,大使館に行き,事情を話したが,パスポートの再発行まで一週間かかったので帰国が遅れたのである.命に別条がなくてよかった.
未だ自由になる時間をたっぷり持っている学生諸君に強く希望したい.どうか世界に向かって飛び出してほしい.海外留学でも,短期間の旅行でも良い.ただし,あらかじめ用意されたツアーではなく,自分でルートを計画するのである.それはお金では替えられない,貴重な経験で一生の宝となろう.戦争は相互の不振から始まる.異国の理解は若い諸君でなければできないと思うのである.

 

2019年11月 化学者の資質について 

 かなり以前のことになるが,和田昭允著「物理学は越境する」(岩波書店)を読み,感銘を受けたことがある.著者は東京大学理学部化学科出身で触媒化学を研究されたのち,わが国の生物物理学創始者の一人として,同大学物理学科に転科され,そこに生物物理学講座を設立された.その著書には,世界一流の化学者になるためには,三つのM(3M),すなわち,Material (物質),Method (手法), Mechanism (反応機構) のうち,どれかで超一流でなければならないと説かれている.ちなみに我が国のノーベル賞受賞者について見てみよう.白川英樹教授は導電性高分子(ポリアセチレン)という非常に応用性のある新しい物質(Material) を合成された.今回ノーベル化学賞を受賞された吉野彰氏もリチウムイオン二次電池の研究初期にこのポリアセチレンを電極反応物質候補として検討されたようだ.福井謙一教授の受賞理由は化学反応過程の理論的研究・フロンテイア軌道理論の構築でこれは.Mechanismに分類されよう.野依良治教授も化学反応機構(Mechanism)を詳しく追及され,有機化合物の光学異性体を極めて高収率で得ることのできる新しい不斉合成法を見出された.田中耕一博士は,今多くの化学者が恩恵を受けている質量分析装置(Method)を開発された.そして,今後の化学者は一つのMでは不十分で二つ以上のMが必要であると強調されている.

 さて,これからが本題である.今回の吉野博士は三つのMのどれに当てはまるのか,ちょっと考えてみたがどれにも当てはまらないのである.リチウムイオン電池に必須の正極反応物質,コバルト酸リチウム(LiCoO2)は今回の受賞者であるGood Enough教授や水島公一博士がすでに合成されていた.

 この電池ではリチウムイオン(Li+)が正極と負極の間を充電,放電のとき,往復する,いわゆるインターカレーション現象がキーポイントであるが,もう一人の受賞者,Michael Stanley Whittingham 教授が初めて,この電池の原理を発明し,正極に二酸化チタン(TiS2)という層状化合物を使用し,その層間にLi+が出入りするインターカレーション現象が長寿命の充放電サイクルを可能にすることを見出している.吉野博士は正極に上記のコバルト酸リチウムを,負極に当初,ポリアセチレンを検討したがうまくいかず,旭化成の別の研究所で研究されていたVGCF(気相成長法炭素繊維)を採用することにより原型が完成したという.すなわち,吉野博士は既存の物質,知識(学問),情報を深く理解し,巧みに使いこなすことによって,世界をがらりと変えるようなタフな新しいシステムを創製された.リチウムイオン二次電池は正極,電解液,負極の巧みな組み合わせによって長期間,充放電が可能になった一つの新しいエネルギー変換システムである.
 このことは我々に大きな勇気を与えてくれる(もっとも,私には時すでに遅しであるが).すなわち,3 Mのどれかひとつで,これまで世の中に知られていなかった新しいことを発明,発見することはとても素晴らしいことであるが,目的さえ正しく,しっかりとしていれば,既存の3 Mを駆使しても新しいものが生み出せる可能性があるということである.最も大切なことは,新しい概念,イメージの構築であり,これを実現するための飽くことなき執念であろう.はたからは一所懸命に研究しているように見えても,漫然と実験を繰り返していては無駄なデータが蓄積されていくだけで,決して新しいことは生み出されないのである.

2019年10月 リチウムイオン電池開発あれこれ

 今年度のノーベル化学賞は周知のようにリチウムイオン電池の開発に寄与したニューヨーク州立大学のマイケル・スタンリー・ウイッテンガム卓越教授,テキサス州立大学のジョン・グッドイナフ教授,旭化成の吉野彰名誉フェローの3氏に与えられた.もしこのリチウムイオン電池が無くなったら現在の情報化社会は瞬時に崩壊する.それほど大きなインパクトを持っているこの電池開発の業績がようやく今回評価されたのである.3人のそれぞれの研究内容,業績はテレビ,新聞等で詳しく報道されているので省く.同じ分野で,これまで30数年研究に携わってきた私も大変うれしく思う.以下にこの間,私が見聞きしたこと,体験したことであまり知られていない,私の思い込みも入っているかもしれないいくつかのことを述べたい.この電池が実現するためには3氏の他にも多くの研究・技術者が関与している.ノーベル賞委員会は3氏に絞るのに苦心したのではないかと想像している.下種の勘繰りかもしれないが.
 グッドイナフ教授はこの電池の正極反応物質であるコバルト酸リチウム(LiCoO2)の発明が評価されたのであるが,このほかにも彼は中国などで広く使われているリン酸鉄リチウム(LiFePO4)も発明している.こちらの方がはるかに安価で,かつ安全性が高いのであるが,電子伝導性に劣るため大電流放電には向いていない.この活物質の特許はカナダのハイドロケベック社が所有しており(同社の研究者がグッドイナフ研に派遣され共同研究の結果発明したとか),うっかりミスかどうかはわからないが,たまたま同社は中国に特許申請をしなかった.このため,この鉄化合物は中国では使い放題であるが,わが国メーカーが使用すれば莫大な特許使用料を支払わなければならない.このため,日本のメーカーはほとんどこの物質を使っていないのではないか.

 

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写真は2010年開催された国際リチウム電池会議で特別講演中のグッドイナフ教授である.コンパクトカメラで遠くから撮影したため,焦点がぼけているが,とても鋭い目つきをしておられた.ノーベル賞は生存者のみに与えられる.その97歳の長寿を寿ぎたい.それにしてもGood Enough とは人を食ったような名前である.
 1980年発表されたコバルト酸リチウムの論文のファーストオーサーは当時オックスフォード大学グッドイナフ研究室に留学されていた水島公一博士である.ノーベル賞の同時受賞を期待されたが,残念だった.82年,東芝に入社された.その頃,私も東芝社員で,我々は上長の高村勉博士(去る1月88歳で逝去,詳しくは参考文献1) を参照されたい) のプロジェクトリーダーのもと,ニッケル亜鉛二次電池の開発に没頭していた.4月のある日,研究打ち合わせ会議の冒頭で「今度こちらに入社しました水島です」と自己紹介された.そして,イギリスではリチウム二次電池の研究 (まだ,反応機構も不明でリチウムイオン電池という言葉はなかった) をやってきましたと話されたが,我々はリチウム二次電池など未だ遠い先のことと思っていた.身近に宝物があっても,それを理解する能力,感度がなければ猫に小判,見逃してしまうのである.あの時,開発対象をニッケル亜鉛二次電池からリチウム電池に切り替えていればと思っても後の祭りであった.我々は水島氏のせっかくのリチウム二次電池の知識を生かすことができず,水島氏は本来の磁性材料の研究を再開され,別部門に異動された.そこで,大きな成果をあげられたようである.ある時,水島氏に「なぜ東大に戻らず(イギリス留学前は東大理学部助手),こちらに入社されたんですか」と伺ったことがあるが,当時は学生紛争のまっただなか,研究もできず,つくづく大学が厭になったからと述懐されていた. 
  話はそれるが,ニッケル亜鉛二次電池のPJは10年間ほど続き,製品化の手前まで行ったが,結局電池性能の信頼性の保証ができないということで失敗に終わり,3代目のPJリーダだった私が幕引きした.しかし,不思議なもので我々が最後に発表した36年も前の論文2) は未だ寿命があるようである.いま,太陽光発電とのペア―で電力貯蔵用の大型蓄電池が渇望されているが,これにリチウムイオン二次電池を当てるのではコストが高すぎるため,安価なニッケル亜鉛二次電池の研究開発がまた盛んになってきているのである.先日も我々の論文を見たと言って某大手メーカーの研究者が私を訪ねてこられ,いろいろデイスカッションをした.ひとりの方はこの論文よりあとで生まれた方だった
 電池には正極のほかに,負極も必要である.吉野博士は正極にコバルト酸リチウム,負極に炭素材料を使用した電池システムの基本特許を提案された.負極には一般にグラファイト(石墨)が使用されているが,その基本特許となると複数の提案者が存在するようであり,複雑である.池田宏之助博士(元三洋電機, 81年特許出願) や外国ではラチド・ヤザミ教授 (シンガポール大学) などである.ヤザミ教授は学会で私と会うたびに「負極の発明は俺だからな」と言われる.今頃,悔しがっているかもしれない.下の写真は水島氏と池田氏が初めて対面された時の写真である.

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 87年カナダのMoli Energy社から負極に金属リチウム,正極に硫化モリブデン(MoS2)を用いる円筒形二次電池自動車電話電源として発売されたが,発火事故が頻発し,直ちに販売停止となった.これは負極の金属リチウムが放電時溶解し,充電時金属リチウムに戻るとき樹枝状(デンドライト)となってセパレータを突き破り正極との間で内部短絡 (ショート) して大電流が流れ発火したのである.これを解決した技術が正極にコバルト酸リチウム,負極に炭素を使うことだった.ただし,負極に金属リチウムを用いると炭素の約10倍もの容量が得られるので,いまだにリチウムデンドライトを防止する研究は続けられている.
  91年,西美緒博士等 (ソニー) が世界で初めて円筒型リチウムイオン二次電池を実用化,これが同じ形状を維持したまま,ただし,多くの研究・技術者の努力によって当初の放電容量の2倍にもなって現在も世界中に流布しているのである.下の2枚の写真は西氏がソニーを退職された2006年春頃,知人達が集まった慰労会時のものである.吉野氏も出席されており,私にとっても貴重な写真になった.

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その後,この電池技術はソニーから研究・技術者とも村田製作所に移管された.学会などで西氏にお会いすると「ソニーのトップは何を考えているのか」と憮然とした顔で私に漏らされるのである.生涯かけて努力した技術が他に移ってしまったその喪失感を察するのに余りある.利益を追求する企業の論理とはまことに厳しいものである.私の教え子も2人ほどソニーにお世話になっていたが,今は村田製作所の社員である.
 ところで,世の中ではソニーリチウムイオン電池が世界初ということになっているが,実は89年東芝電池から,コイン形のリチウムイオン二次電池を発売しているのである.その痕跡が「電池便覧」増補版(丸善 1995) に “・・・・リチウムを結晶の中に取り込むことができる炭素を負極に用い,正極にアモルファス五酸化バナジウム(a-V2O5)を用いた電池が1989年に(株)東芝電池からコイン形電池で商品化され,さらに1991年,ソニーエナジーテック(株)から・・・・” と記載されている.執筆者の金村聖志教授(首都大学東京) に感謝している.この電池の開発研究のころ,私は東芝電池に転籍していた.正極のアモルファス五酸化バナジウムは当時NTTにおられた山木準一博士(九州大学名誉教授,去る10月9日夜のNHK TVのニュースで吉野氏の業績を紹介された) 等が合成されたもので知人の山木氏に使用をお願いしたら快諾された.負極のリニアーグラファイトハイブリッド(炭素の1種) の方は,三菱油化の油井浩氏等が開発されたものである.ある時,当時の東芝電池の早尾社長に呼ばれ,「佐藤,このカーボンが電池に使えるかどうか試してみてくれ」と渡された.油井氏は学生時代,早尾社長の息子さんの家庭教師だった関係で,開発した炭素材料の使い道がないか検討してほしいと早尾社長に託されたものだった.テストしてみると非常に調子が良く,ごく短期間に電池にまとめ上げることができた.ただし,問題は用途で当時はカメラの距離計や露出計の作動電源,ダイナミックラムの記憶保持用電源としての用途くらいしかなく,生産量も上がらず赤字続きで2年ほどで生産をやめてしまった.電池の内容,具体的性能等は文献3, 4) を参照されたい.性能としては優れていたと思うが,用途がなければ仕方がない.その点,91年登場したソニーの円筒形電池は幸運だった.ビデオカメラ用途として需要が伸びた.それまで使用されていたニッケル水素二次電池では容量が少なく,また,メモリー効果という厄介な欠点を持っていたのでみるみる置き換わっていったのである.その他,ノート型パソコン,そして,携帯電話用途等,タイミングよく次々電子機器用電源として用途が拡大していった.電池は縁の下の力持ち,用途があった時初めて生きるのである.
 電池研究は面白い.次々複雑な現象のからくりが明らかになっていく過程はとてもスリルがある.ただし,実用化のためには基礎研究と異なる大きな壁があるのである.今回の受賞も製品化され,人々の生活に大きなインパクトを与えたからこそ,これを成し遂げた研究者に栄誉が与えられたのである.

参考文献
1) 佐藤祐一,電気化学,87, 90 (2019).
2) Y.Sato, M.Kanda, H.Niki, M.Ueno, K. Murata, T. Shirogami, T. Takamura,  J. Power, Sources, 9, 147-159 (1983).
3) K. Inada, K. Ikeda, Y. Sato, A. Itsubo, M. Miyabayashi, H. Yui, Proc.        Symp. on Primary and Secondary Batteries, Ed. J. P. Gabano, Z.                 Takehara, Vol. 88-6, p. 530 (1988), The Electrochem. Soc., Inc..
4) Y. Sato, Y. Akisawa, K. Kobayakawa, Denki Kagaku, 57, 527-532(1989).

 追記
 最近,ある方のご厚意で気になっていた下記特許を入手することができた.
1) 特許公報 平5-17669,「非水溶媒二次電池」発明者:平塚和也,佐藤祐一,青木良康,油井浩,宮林光孝,伊坪明,出願:1986.4.11, 公告:1993.3.9.

2) 特許公報 平4-24831,「二次電池」発明者:吉野彰,実近健一,中島孝之,出願:1986.5.8,公告:1992.4.28.
文章はわかりにくいが(今はどうか知らないが,当時はわざと判りにくく表現する風習があった),内容はほぼ似通っている.機が熟してくると没交渉にほぼ同じ時期に同じようなアイデアに行きつくようである.結局,我々は執念が足りなかったのである.

  

2019年 9月 夏の旅

2019年9月 夏の旅

 暑かった今夏もあと少しの辛抱で涼しくなることであろう.その8月から9月にかけて4回,遠出の旅をした.それらの概略をこれから述べる.
その1. お墓参り
8月3, 4, 5日とお墓参りのため帰省した.行先は新潟県小千谷市片貝町,ここに先祖代々の墓がある.明治初期に建てられたものらしいが年号は刻まれていない.私で9代目と父に聞かされた覚えがある.江戸時代末期までの先祖の名前はたどることができる.町の中心的な神社,浅原神社の境内に石の手水鉢があるが,その10名くらいの寄贈者の名前の中に佐藤三平と刻まれた私の先祖の名前も刻まれている.文化だったか文政だったか設立年代も刻まれているが失念してしまった.さる3月,母の3回忌の法要を長岡市の願誓寺で行ったとき,住職からお宅は今年,百回忌(大正9年没)と二百回忌(文政3年没)の佐藤三平さんがおられますと言われた.我が家の主の名前は曾祖父まで代々,三平だった.我が国では明治5年(戸籍法施行)以前の戸籍は抹消されており公式的にはたどることができない.私に古文書が読めれば旦那寺の過去帳をたどり,さらに古い先祖まで探ることができるのに残念である.
 さて,お墓参りである.残念ながら,妻は体調が悪く,息子も仕事で都合がつかず,孫たちも受験その他で多忙のため私一人だった.墓掃除を予ねて帰省したのであるが,すぐ下の弟が前もってきれいに掃除をしてくれており,ありがたかった.墓地内には8月も早い時期のためか,まだ山百合が数本咲いていた.墓石の脇にはまもなく桔梗が咲きそうでつぼみが膨らんでいた.
 私が小さかった頃は母に連れられ(父は新潟に単身赴任中)弟たちと8月10日頃になると墓掃除に,私が中学生頃になると母は来なくなり,お墓掃除は子供たち4人に任された.3-40年前までのお盆には,兄弟たちが皆それぞれの伴侶や子供達を連れて帰郷したから,父母も元気だったし,お墓参りの時はそれはそれは賑やかだった.もう,はるか昔になってしまった.
 
その2. 伊東への旅
 8月5, 6日,伊東市に赴いた.横浜国立大学の薮内教授に依頼され,日本化学会・化学電池材料研究会・夏の学校で講演を行うためだった.伊東は以前車で通りすぎたことはあったが,宿泊するのは初めてである.講演は6日午前だったから,当日朝,横浜出発では間に合わないので,前日の5日午前,まず東海道線で熱海へ,そこで伊東線に乗り換え2時間半くらいで伊東に着いた.意外に近いのである.小田原を過ぎるあたりから海が見えた.そういえばもう何年も海で泳いだことがない.海を見ると子供のころ,両親に連れられて日本海側の鯨波海岸に海水浴に連れて行ってもらったことを思い出す.信越線の汽車の窓から海が見え始めるともう,早く海に入りたくてわくわくしたものである.あのような高揚感はもう久しく味わっていない.
 5日午前中は学生諸君のポスターセッション,午後はソフトボール大会とのことであった.これに付き合うのは少々しんどいのでホテルでのんびり掛け流しの露天風呂に浸かった. 若者や子供づれは皆海水浴その他で出かけており,広い湯船を独り占めだった.夜は懇親会,久しぶりに若い人たちと会話し元気をもらった.翌朝の講演会,もう一人の講師は大阪市立大学の小槻勉名誉教授だった.小槻先生はリチウムイオン電池の三元系正極反応物質LiNi1/3Co1/3Mn1/3O2の発明者でこの物質は世界中で使われている.下世話な話で恐縮であるが,特許料は莫大であろう.大学の収入になっているという.薮内先生の恩師でもある.優れた先生からは優れた弟子が生まれる典型例の一つであり,薮内先生も現在,リチウム電池研究の世界のトップランナーの一人で国のプロジェクトリーダーである.私の講演題目は「電気化学とともに50数年」で,東北大学時代,東芝時代,そして神奈川大学時代に体験した,いくつかの失敗した,あるいはうまくいった研究例を1時間くらい話した.ありがたいことに90名近い学生,そして助教の若い先生方は熱心に耳を傾けてくださったようだ.

その3. 電気化学会秋季大会出席
 甲府市山梨大学で開催された上記学会に9月5, 6日出かけた.久しぶりに八王子から特急“あずさ”に乗ったが,すべて指定席になっていた.自由席がないのはつらい.特急券購入費もさることながら,発車時刻に縛られるのが悔しい.ふらりと都合の良い列車に乗れる自由度が無くなっている.商売第一のJRの陰謀かと疑ってしまう.関越,東北,東海道新幹線等にいつまでも自由席があることを切に希望したい.学会では2会場で並行して行われた“電池”の会場を行ったり来たりしながら聴講,相変わらずの盛況だった.ただし,測定技術,データーの解析技術等が高度になり,内容の理解できない発表が多くなったのは仕方がないか.いまは可燃性の非水電解液に変え,発火の危険性がないと言われる全固体リチウム電池研究分野に多くの研究者が集中している.これでよいのか,技術的に非常に困難な全固体にこだわらなくても難粘性液体と固体電解質とのハイブリッド型の電池はどうか.こちらの方が実用化が早いのではと思われるが,実際に研究できないのが残念である.もう,現役を離れ10年近くなるので研究者層も入れ替わり,数十人いる座長さんたちもほとんど面識がなかった.夜の懇親会は盛況で楽しかった.ここではかっての懐かしい知人達,と言ってもほとんどが年下であるが,歓談することができた.大学構内に山梨大卒のノーベル賞受賞者大村智先生の記念館がある.大村先生に関わる多くの資料が展示されており,興味深く見学した.1時間の昼休み時間では見切れなかった.また,別の日,武田神社に参拝,近くにある武田氏館跡歴史館も見学した.信玄以下歴代の主に関わる資料,中でも館跡から発掘されたという軍馬の骨格は興味深かった.体長が160 cmくらいしかない.日本古来の馬は小さかったのである.映画やテレビでの合戦場面は非常に迫力があるが,撮影には競馬用のサラブレッド種が使われていようから源平合戦や戦国時代の騎馬戦はもっと違ったものでなかったか.身長の高い武士なら馬にまたがったとき足が地面に届きそうな感じがしたのではないかと思われる.
 
その4. 花火見物
 数年ぶりに花火を見に帰省した.我が郷里,片貝町は江戸時代から花火が打ち上げられ,3尺玉発祥の地(明治24年,1891年打ち上げ)である.1985年には四尺玉が完成した.毎年,曜日に関係なく,9月9日,10日に一発づつ打ち上げられる.これを見るため,人口4千人強の旅館,民宿もないこの町に多分10万人以上の人々が集まる.また,郷里を離れて他所で暮らしている兄弟姉妹,子供,孫たちもこの祭りの機会に帰省する.宿泊は長岡,湯沢,小千谷,その他近隣の旅館やホテルで,あるいは車やキャンピングカーで来る人も多い.今年は久しぶりに兄弟(妹)4人が集まった.今年初め亡くなった夫の供養にと妹が大枚を投じ桟敷(さじき)を取ってくれた.甥達3人とも久しぶりに会えた.桟敷で見る花火は迫力があった.尺玉クラス以上の大型花火が顔にのしかかるように開くのである.破裂するときの音もズシーンと腹に響くようであった.昨年は民間放送局が90分近くテレビで実況放送をした.俳優の竜 雷太氏,宮崎美子氏がゲスト出演,対談の場面等も実況放送された1).
翌11日は近くの川口温泉で入浴,昼には魚野川に昔から設置されている川口の簗(やな)に行き,ここで捕れた鮎の塩焼きを堪能した.このようにして,異常に暑かった今年の夏も無事終わることができた.

1)今年は竜雷太中越典子のメンバーで10日の夜,放映されたと次弟が教えてくれ た.