2019年11月 リチウムイオン電池開発あれこれ

 今年度のノーベル化学賞は周知のようにリチウムイオン電池の開発に寄与したニューヨーク州立大学のマイケル・スタンリー・ウイッテンガム卓越教授,テキサス州立大学のジョン・グッドイナフ教授,旭化成の吉野彰名誉フェローの3氏に与えられた.もしこのリチウムイオン電池が無くなったら現在の情報化社会は瞬時に崩壊する.それほど大きなインパクトを持っているこの電池開発の業績がようやく今回評価されたのである.3人のそれぞれの研究内容,業績はテレビ,新聞等で詳しく報道されているので省く.同じ分野で,これまで30数年研究に携わってきた私も大変うれしく思う.以下にこの間,私が見聞きしたこと,体験したことであまり知られていない,私の思い込みも入っているかもしれないいくつかのことを述べたい.この電池が実現するためには3氏の他にも多くの研究・技術者が関与している.ノーベル賞委員会は3氏に絞るのに苦心したのではないかと想像している.下種の勘繰りかもしれないが.
 グッドイナフ教授はこの電池の正極反応物質であるコバルト酸リチウム(LiCoO2)の発明が評価されたのであるが,このほかにも彼は中国などで広く使われているリン酸鉄リチウム(LiFePO4)も発明している.こちらの方がはるかに安価で,かつ安全性が高いのであるが,電子伝導性に劣るため大電流放電には向いていない.この活物質の特許はカナダのハイドロケベック社が所有しており(同社の研究者がグッドイナフ研に派遣され共同研究の結果発明したとか),うっかりミスかどうかはわからないが,たまたま同社は中国に特許申請をしなかった.このため,この鉄化合物は中国では使い放題であるが,わが国メーカーが使用すれば莫大な特許使用料を支払わなければならない.このため,日本のメーカーはほとんどこの物質を使っていないのではないか.

 

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写真は2010年開催された国際リチウム電池会議で特別講演中のグッドイナフ教授である.コンパクトカメラで遠くから撮影したため,焦点がぼけているが,とても鋭い目つきをしておられた.ノーベル賞は生存者のみに与えられる.その97歳の長寿を寿ぎたい.それにしてもGood Enough とは人を食ったような名前である.
 1980年発表されたコバルト酸リチウムの論文のファーストオーサーは当時オックスフォード大学グッドイナフ研究室に留学されていた水島公一博士である.ノーベル賞の同時受賞を期待されたが,残念だった.82年,東芝に入社された.その頃,私も東芝社員で,我々は上長の高村勉博士(去る1月88歳で逝去,詳しくは参考文献1) を参照されたい) のプロジェクトリーダーのもと,ニッケル亜鉛二次電池の開発に没頭していた.4月のある日,研究打ち合わせ会議の冒頭で「今度こちらに入社しました水島です」と自己紹介された.そして,イギリスではリチウム二次電池の研究 (まだ,反応機構も不明でリチウムイオン電池という言葉はなかった) をやってきましたと話されたが,我々はリチウム二次電池など未だ遠い先のことと思っていた.身近に宝物があっても,それを理解する能力,感度がなければ猫に小判,見逃してしまうのである.あの時,開発対象をニッケル亜鉛二次電池からリチウム電池に切り替えていればと思っても後の祭りであった.我々は水島氏のせっかくのリチウム二次電池の知識を生かすことができず,水島氏は本来の磁性材料の研究を再開され,別部門に異動された.そこで,大きな成果をあげられたようである.ある時,水島氏に「なぜ東大に戻らず(イギリス留学前は東大理学部助手),こちらに入社されたんですか」と伺ったことがあるが,当時は学生紛争のまっただなか,研究もできず,つくづく大学が厭になったからと述懐されていた. 
  話はそれるが,ニッケル亜鉛二次電池のPJは10年間ほど続き,製品化の手前まで行ったが,結局電池性能の信頼性の保証ができないということで失敗に終わり,3代目のPJリーダだった私が幕引きした.しかし,不思議なもので我々が最後に発表した36年も前の論文2) は未だ寿命があるようである.いま,太陽光発電とのペア―で電力貯蔵用の大型蓄電池が渇望されているが,これにリチウムイオン二次電池を当てるのではコストが高すぎるため,安価なニッケル亜鉛二次電池の研究開発がまた盛んになってきているのである.先日も我々の論文を見たと言って某大手メーカーの研究者が私を訪ねてこられ,いろいろデイスカッションをした.ひとりの方はこの論文よりあとで生まれた方だった
 電池には正極のほかに,負極も必要である.吉野博士は正極にコバルト酸リチウム,負極に炭素材料を使用した電池システムの基本特許を提案された.負極には一般にグラファイト(石墨)が使用されているが,その基本特許となると複数の提案者が存在するようであり,複雑である.池田宏之助博士(元三洋電機, 81年特許出願) や外国ではラチド・ヤザミ教授 (シンガポール大学) などである.ヤザミ教授は学会で私と会うたびに「負極の発明は俺だからな」と言われる.今頃,悔しがっているかもしれない.下の写真は水島氏と池田氏が初めて対面された時の写真である.

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 87年カナダのMoli Energy社から負極に金属リチウム,正極に硫化モリブデン(MoS2)を用いる円筒形二次電池自動車電話電源として発売されたが,発火事故が頻発し,直ちに販売停止となった.これは負極の金属リチウムが放電時溶解し,充電時金属リチウムに戻るとき樹枝状(デンドライト)となってセパレータを突き破り正極との間で内部短絡 (ショート) して大電流が流れ発火したのである.これを解決した技術が正極にコバルト酸リチウム,負極に炭素を使うことだった.ただし,負極に金属リチウムを用いると炭素の約10倍もの容量が得られるので,いまだにリチウムデンドライトを防止する研究は続けられている.
  91年,西美緒博士等 (ソニー) が世界で初めて円筒型リチウムイオン二次電池を実用化,これが同じ形状を維持したまま,ただし,多くの研究・技術者の努力によって当初の放電容量の2倍にもなって現在も世界中に流布しているのである.下の2枚の写真は西氏がソニーを退職された2006年春頃,知人達が集まった慰労会時のものである.吉野氏も出席されており,私にとっても貴重な写真になった.

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その後,この電池技術はソニーから研究・技術者とも村田製作所に移管された.学会などで西氏にお会いすると「ソニーのトップは何を考えているのか」と憮然とした顔で私に漏らされるのである.生涯かけて努力した技術が他に移ってしまったその喪失感を察するのに余りある.利益を追求する企業の論理とはまことに厳しいものである.私の教え子も2人ほどソニーにお世話になっていたが,今は村田製作所の社員である.
 ところで,世の中ではソニーリチウムイオン電池が世界初ということになっているが,実は89年東芝電池から,コイン形のリチウムイオン二次電池を発売しているのである.その痕跡が「電池便覧」増補版(丸善 1995) に “・・・・リチウムを結晶の中に取り込むことができる炭素を負極に用い,正極にアモルファス五酸化バナジウム(a-V2O5)を用いた電池が1989年に(株)東芝電池からコイン形電池で商品化され,さらに1991年,ソニーエナジーテック(株)から・・・・” と記載されている.執筆者の金村聖志教授(首都大学東京) に感謝している.この電池の開発研究のころ,私は東芝電池に転籍していた.正極のアモルファス五酸化バナジウムは当時NTTにおられた山木準一博士(九州大学名誉教授,去る10月9日夜のNHK TVのニュースで吉野氏の業績を紹介された) 等が合成されたもので知人の山木氏に使用をお願いしたら快諾された.負極のリニアーグラファイトハイブリッド(炭素の1種) の方は,三菱油化の油井浩氏等が開発されたものである.ある時,当時の東芝電池の早尾社長に呼ばれ,「佐藤,このカーボンが電池に使えるかどうか試してみてくれ」と渡された.油井氏は学生時代,早尾社長の息子さんの家庭教師だった関係で,開発した炭素材料の使い道がないか検討してほしいと早尾社長に託されたものだった.テストしてみると非常に調子が良く,ごく短期間に電池にまとめ上げることができた.ただし,問題は用途で当時はカメラの距離計や露出計の作動電源,ダイナミックラムの記憶保持用電源としての用途くらいしかなく,生産量も上がらず赤字続きで2年ほどで生産をやめてしまった.電池の内容,具体的性能等は文献3, 4) を参照されたい.性能としては優れていたと思うが,用途がなければ仕方がない.その点,91年登場したソニーの円筒形電池は幸運だった.ビデオカメラ用途として需要が伸びた.それまで使用されていたニッケル水素二次電池では容量が少なく,また,メモリー効果という厄介な欠点を持っていたのでみるみる置き換わっていったのである.その他,ノート型パソコン,そして,携帯電話用途等,タイミングよく次々電子機器用電源として用途が拡大していった.電池は縁の下の力持ち,用途があった時初めて生きるのである.
 電池研究は面白い.次々複雑な現象のからくりが明らかになっていく過程はとてもスリルがある.ただし,実用化のためには基礎研究と異なる大きな壁があるのである.今回の受賞も製品化され,人々の生活に大きなインパクトを与えたからこそ,これを成し遂げた研究者に栄誉が与えられたのである.

参考文献
1) 佐藤祐一,電気化学,87, 90 (2019).
2) Y.Sato, M.Kanda, H.Niki, M.Ueno, K. Murata, T. Shirogami, T. Takamura,  J. Power, Sources, 9, 147-159 (1983).
3) K. Inada, K. Ikeda, Y. Sato, A. Itsubo, M. Miyabayashi, H. Yui, Proc.        Symp. on Primary and Secondary Batteries, Ed. J. P. Gabano, Z.                 Takehara, Vol. 88-6, p. 530 (1988), The Electrochem. Soc., Inc..
4) Y. Sato, Y. Akisawa, K. Kobayakawa, Denki Kagaku, 57, 527-532(1989).

  

    (1989). 

2019年 9月 夏の旅

2019年9月 夏の旅

 暑かった今夏もあと少しの辛抱で涼しくなることであろう.その8月から9月にかけて4回,遠出の旅をした.それらの概略をこれから述べる.
その1. お墓参り
8月3, 4, 5日とお墓参りのため帰省した.行先は新潟県小千谷市片貝町,ここに先祖代々の墓がある.明治初期に建てられたものらしいが年号は刻まれていない.私で9代目と父に聞かされた覚えがある.江戸時代末期までの先祖の名前はたどることができる.町の中心的な神社,浅原神社の境内に石の手水鉢があるが,その10名くらいの寄贈者の名前の中に佐藤三平と刻まれた私の先祖の名前も刻まれている.文化だったか文政だったか設立年代も刻まれているが失念してしまった.さる3月,母の3回忌の法要を長岡市の願誓寺で行ったとき,住職からお宅は今年,百回忌(大正9年没)と二百回忌(文政3年没)の佐藤三平さんがおられますと言われた.我が家の主の名前は曾祖父まで代々,三平だった.我が国では明治5年(戸籍法施行)以前の戸籍は抹消されており公式的にはたどることができない.私に古文書が読めれば旦那寺の過去帳をたどり,さらに古い先祖まで探ることができるのに残念である.
 さて,お墓参りである.残念ながら,妻は体調が悪く,息子も仕事で都合がつかず,孫たちも受験その他で多忙のため私一人だった.墓掃除を予ねて帰省したのであるが,すぐ下の弟が前もってきれいに掃除をしてくれており,ありがたかった.墓地内には8月も早い時期のためか,まだ山百合が数本咲いていた.墓石の脇にはまもなく桔梗が咲きそうでつぼみが膨らんでいた.
 私が小さかった頃は母に連れられ(父は新潟に単身赴任中)弟たちと8月10日頃になると墓掃除に,私が中学生頃になると母は来なくなり,お墓掃除は子供たち4人に任された.3-40年前までのお盆には,兄弟たちが皆それぞれの伴侶や子供達を連れて帰郷したから,父母も元気だったし,お墓参りの時はそれはそれは賑やかだった.もう,はるか昔になってしまった.
 
その2. 伊東への旅
 8月5, 6日,伊東市に赴いた.横浜国立大学の薮内教授に依頼され,日本化学会・化学電池材料研究会・夏の学校で講演を行うためだった.伊東は以前車で通りすぎたことはあったが,宿泊するのは初めてである.講演は6日午前だったから,当日朝,横浜出発では間に合わないので,前日の5日午前,まず東海道線で熱海へ,そこで伊東線に乗り換え2時間半くらいで伊東に着いた.意外に近いのである.小田原を過ぎるあたりから海が見えた.そういえばもう何年も海で泳いだことがない.海を見ると子供のころ,両親に連れられて日本海側の鯨波海岸に海水浴に連れて行ってもらったことを思い出す.信越線の汽車の窓から海が見え始めるともう,早く海に入りたくてわくわくしたものである.あのような高揚感はもう久しく味わっていない.
 5日午前中は学生諸君のポスターセッション,午後はソフトボール大会とのことであった.これに付き合うのは少々しんどいのでホテルでのんびり掛け流しの露天風呂に浸かった. 若者や子供づれは皆海水浴その他で出かけており,広い湯船を独り占めだった.夜は懇親会,久しぶりに若い人たちと会話し元気をもらった.翌朝の講演会,もう一人の講師は大阪市立大学の小槻勉名誉教授だった.小槻先生はリチウムイオン電池の三元系正極反応物質LiNi1/3Co1/3Mn1/3O2の発明者でこの物質は世界中で使われている.下世話な話で恐縮であるが,特許料は莫大であろう.大学の収入になっているという.薮内先生の恩師でもある.優れた先生からは優れた弟子が生まれる典型例の一つであり,薮内先生も現在,リチウム電池研究の世界のトップランナーの一人で国のプロジェクトリーダーである.私の講演題目は「電気化学とともに50数年」で,東北大学時代,東芝時代,そして神奈川大学時代に体験した,いくつかの失敗した,あるいはうまくいった研究例を1時間くらい話した.ありがたいことに90名近い学生,そして助教の若い先生方は熱心に耳を傾けてくださったようだ.

その3. 電気化学会秋季大会出席
 甲府市山梨大学で開催された上記学会に9月5, 6日出かけた.久しぶりに八王子から特急“あずさ”に乗ったが,すべて指定席になっていた.自由席がないのはつらい.特急券購入費もさることながら,発車時刻に縛られるのが悔しい.ふらりと都合の良い列車に乗れる自由度が無くなっている.商売第一のJRの陰謀かと疑ってしまう.関越,東北,東海道新幹線等にいつまでも自由席があることを切に希望したい.学会では2会場で並行して行われた“電池”の会場を行ったり来たりしながら聴講,相変わらずの盛況だった.ただし,測定技術,データーの解析技術等が高度になり,内容の理解できない発表が多くなったのは仕方がないか.いまは可燃性の非水電解液に変え,発火の危険性がないと言われる全固体リチウム電池研究分野に多くの研究者が集中している.これでよいのか,技術的に非常に困難な全固体にこだわらなくても難粘性液体と固体電解質とのハイブリッド型の電池はどうか.こちらの方が実用化が早いのではと思われるが,実際に研究できないのが残念である.もう,現役を離れ10年近くなるので研究者層も入れ替わり,数十人いる座長さんたちもほとんど面識がなかった.夜の懇親会は盛況で楽しかった.ここではかっての懐かしい知人達,と言ってもほとんどが年下であるが,歓談することができた.大学構内に山梨大卒のノーベル賞受賞者大村智先生の記念館がある.大村先生に関わる多くの資料が展示されており,興味深く見学した.1時間の昼休み時間では見切れなかった.また,別の日,武田神社に参拝,近くにある武田氏館跡歴史館も見学した.信玄以下歴代の主に関わる資料,中でも館跡から発掘されたという軍馬の骨格は興味深かった.体長が160 cmくらいしかない.日本古来の馬は小さかったのである.映画やテレビでの合戦場面は非常に迫力があるが,撮影には競馬用のサラブレッド種が使われていようから源平合戦や戦国時代の騎馬戦はもっと違ったものでなかったか.身長の高い武士なら馬にまたがったとき足が地面に届きそうな感じがしたのではないかと思われる.
 
その4. 花火見物
 数年ぶりに花火を見に帰省した.我が郷里,片貝町は江戸時代から花火が打ち上げられ,3尺玉発祥の地(明治24年,1891年打ち上げ)である.1985年には四尺玉が完成した.毎年,曜日に関係なく,9月9日,10日に一発づつ打ち上げられる.これを見るため,人口4千人強の旅館,民宿もないこの町に多分10万人以上の人々が集まる.また,郷里を離れて他所で暮らしている兄弟姉妹,子供,孫たちもこの祭りの機会に帰省する.宿泊は長岡,湯沢,小千谷,その他近隣の旅館やホテルで,あるいは車やキャンピングカーで来る人も多い.今年は久しぶりに兄弟(妹)4人が集まった.今年初め亡くなった夫の供養にと妹が大枚を投じ桟敷(さじき)を取ってくれた.甥達3人とも久しぶりに会えた.桟敷で見る花火は迫力があった.尺玉クラス以上の大型花火が顔にのしかかるように開くのである.破裂するときの音もズシーンと腹に響くようであった.昨年は民間放送局が90分近くテレビで実況放送をした.俳優の竜 雷太氏,宮崎美子氏がゲスト出演,対談の場面等も実況放送された1).
翌11日は近くの川口温泉で入浴,昼には魚野川に昔から設置されている川口の簗(やな)に行き,ここで捕れた鮎の塩焼きを堪能した.このようにして,異常に暑かった今年の夏も無事終わることができた.

1)今年は竜雷太中越典子のメンバーで10日の夜,放映されたと次弟が教えてくれ た.

 

2019年8月 傘寿

 去る7月,80歳になった.傘寿(さんじゅ)ともいい,おめでたいことなのだそうな.とうに過ぎた70歳は古希,杜甫の詩,人生七十古来希なりに由来し,長寿を祝う語という.昔は70歳で希なら,80歳はもっと希なことでおめでたかったのであろう.しかし,男性の平均寿命が80歳を過ぎた現在,80歳を過ぎた人たちはそこら中にゴロゴロいる.と言ったら叱られようか.ほんらい,能天気のせいか,私はあまり自分が年を取ったという気がしないのである.これが若い人たち老害と言われる由縁なのだろう.しかし,さすがに身体的能力は衰え,若いころは軽々できた1-2 mの川などの飛び越え,それから高いところに登ること,あるいはちょっとした段差を飛び降りること等は怖くてできない.また,立ったまま靴下を履くことも困難になってきた.同期生の中にも不注意で転んだために骨折,そのまま急に衰えた人もいる.母は94歳のとき,畳の縁に足が引っ掛かり転倒,大腿骨骨折で車いす生活になってしまった.私も駅の階段などでよく躓くが,上がっていると思っている足がそれほど上がっていないのである.
 先日うれしいことがあった.子供たち夫婦がお祝いにと冬用のジャケットを作ってくれた.東京オリンピックのとき,選手団の入場時着る選手たちの制服を作ったとかいう老舗の洋服屋で採寸をしてもらっているとき,店の親父さんが「お客さん,お年の割には姿勢がよく,胸が厚く肩,腕なども太いですね」と言われた.10年近くやってきたスクワット,懸垂,腕立て伏せ,ラジオ体操の効果がようやくあらわれたのであろう.服もさることながら,体形をほめられた(?) のがうれしかったのである.採寸から2週間くらい後の,8月初めに出来上がったジャケットが店から届いた.布地は紺色のコージュロイで気に入った.冬の来るのが待ち遠しい.
 今,黒井千次著「老いのゆくえ」を読んでいる.私より7歳年長の著名な作家である.読売新聞に掲載された随筆をまとめたもので,著者の83歳ころのことが述べられている.そこには,著者の体験した,あるいは体験中の様々な症状が綴ってある.まだ,この症状は現れていないなと安心したり,「うん,そうそう」と相槌を打ったりしながら読んでいる.
 昨今,著しいのは外出するとき,必ず,一,二回戻ることである.財布を忘れた,行先を記した案内状を忘れた,横浜市の発行する敬老特別乗車証を忘れた等などである.「おや,もう.お早いお帰りで」と妻はにやりとしながら言う.もう一つはよくものを落とすことである.指の握力が弱っているのだろう.例えば,私の役目のひとつ,食後の食器洗い,気を付けているのであるが,茶碗や皿等,これまで何個か割ってしまった.先日,お墓参りに帰省した時,実家の戸棚に眠っていたご飯茶わんを数個いただいてきた.模様の違いから妻にわかってしまった.「あら,また割ったわね」,「洗わないものには落としようがないだろう」とうそぶいている.また,店で買い物をし,硬貨を財布から取り出すときよく,床に落としてしまう.所お動作遅くなった.妻と外出するときなど,玄関の鍵をかけるまで時間のかかること,かかること,情けないことである.上手に老いをならしつつどこまで行けるのか,手探りの昨今である.

 

 

 

2019年7月 私の学位論文 その2

20197月 私の学位論文(その2
 

アセトニトリルは沸点82℃で水を吸収しやすく,かつ気化しやすい液体で毒性があるため取り扱いに十分注意すること.試薬特級でもかなりの水を含んでいるので蒸留を何回も繰り返すことなど親切にいろいろご指導をいただいた.水を嫌う作業をするためにはグローブグボックス(水分をほとんど含まない気密性の高い容器)が必要であるが,ようやく,半導体工業でグローブボックスが使われ始めていたころで実験用グローブボックスなどどこにも売っていなかった.そこで,仙台市内にあった大友木工所に依頼し,幅90 cm, 高さ60cm, 奥行50cmくらいの木製の箱を作ってもらった.前面の上半分は蝶番を付け,折り畳み式で蓋を上部に開け閉めできるようにした.また,前面にガラス窓を付け中がのぞけるようにし,内面には厚さ3cmくらいの発砲スチロールを張り,少しでも湿気をよばないようにした.前面にはゴム製の手袋を取り付け蓋をしたままで内部での操作ができるようにした.さらに電気化学計測用の±のターミナルも取り付け,測定セルを中に設置したまま,外部の計測機器と連結できるようにした.今から思えば,いわゆるグローブボックスとは程遠く,気休め程度の乾燥箱といった程度のものであった.問題はアセトニトリルの蒸留だった.無機化学講座に所属していたから有機溶媒の精製,蒸留など全く経験がない.有機化学専攻の友人に蒸留器の選択,蒸留のやり方など一から教わった.乾燥剤として五酸化リン(P2O5)を蒸留器に添加し蒸留するのであるが,教わった通りにやってもなかなか水分が抜けなかった.カールフィッシャー法で水分の定量をするといつも100 ppm近くあったのではなかろうか.当時のアセトニトリルには試薬特級と言えども不純物として水の他にアンモニア,酢酸,アクリロニトリルが含まれていた.これらがなかなか除去できなかった.これは精製したつもりのアセトニトリルに支持電解質(電流を流れやすくするために加える塩で直接電気化学反応には関与しない)としてテトラエチルアンモニウム過塩素酸塩*1.これは形式的には鉄(II)→鉄(I)→鉄(0)→鉄(-1)の還元に対応するもので,本来,鉄単独で原子価が1価や-1価は存在しないが,ビピリジン錯体のため,電子がこれら配位子の方に局在化し,錯イオン全体として本来あり得ない低原子価状態が存在し得るものと解釈した.これらはのちに後輩の尾形君(山形大学名誉教授)東工大の佐治博士(現名誉教授)ESRその他の測定法で証明してくださった.中心金属を他の遷移元素Cr,Mn,Co,Ni等に変え,それぞれ異常低原子価錯イオンがアセトニトリル中で存在することを初めて電気化学的に示すことができ,コースドクターの人達より2年半遅れようやく学位をいただくことができた.下図はクロム(III)錯体のポーラログラムで,4段波までは下記の反応式に対応する.5段目の還元波は水の存在量とともに増大するので錯体とは関係ない溶媒関連の反応である.なお,この図では現在の表記法とは異なり,還元電流を正に,電位も右側に行くほど負電位に取っている.

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今思えば3年近くもノーペーパーの私を田中先生はよくまあ辛抱強く黙っていてくださったものと感謝している.その後,東芝に移り,上司で大学の先輩でもあった高村勉博士(去る1月逝去)のもとで本務とは別に上記の研究を続けた.高村氏の開発された鏡面反射率法を併用し,上記低原子価錯体の可視,紫外部の吸収スペクトルを測定することが可能となり,これらが評価され,日本化学会の進歩賞を受賞することができた.その後,40数年間,リチウム電池等の研究開発に携わることになったが,きっかけはアセトニトリルの精製からだった.いま,これらリチウム電池に必要な有機溶媒,あるいは電解質の溶解した電解液を購入すれば,水の含有量はゼロに近く,精製する必要もなくそのまま使用可能で夢のようである.

*1:C2H5)4NClO4)を添加し,ポーラログラム(電流電位曲線)を測定すると何も電流が流れないはずの電位領域に得体のしれない電流が流れた.除去しきれない不純物の酸化や還元に基づくものである.本来の業務である学生実験の指導や受け持ちの卒研生の研究指導の合間に今度こそはと期待しながら何十回も蒸留を繰り返した.大手の化学メーカーに就職した友人になかなか水が抜けないとこぼすとその会社ではJIS規格をはるかに超える高純度の物ができるので規制値以内で水を少し加えていると聞き,頭にきたものである.たまに田中先生から「調子はどうですか」と聞かれたが,なかなか歯切れのよい答えができなかった.同じ研究室の同期3名が博士課程に進学したが,彼らは着実に成果を上げ,論文を投稿,学位論文作成に励んでいた.もう今ではそれぞれ,奈良女子大学・名誉教授,岩手大学・名誉教授で,あと一人は残念ながら宮城教育大学助教授のとき夭折した.そのころの化学教室の廊下は確かコンクリートだった.田中先生の靴には鋲が打ってあったのか,少し速足のせわしない足音がコツコツ聞こえると,別に悪いことをしているわけではないが,顔を合わせないようにと部屋を出るのを避けたものである.2年目も過ぎるころ,ようやく不純物が除去されたのか,ノイズの少ない電流電位曲線が採れるようになった.そこで,ある日思い切って,還元物質としてトリス(ビピリジン)鉄(II)過塩素酸塩([Fe(bipy)3(ClO4)3])を加え,ポーラログラムを測定すると電流比1:1:1のきれいな3段の還元波が現れたではないか.早速,田中先生に報告すると非常に喜ばれ,すぐLetterとして投稿しましょうと言ってくださった(N.Tanaka, Y.Sato,Inorg. Nucl. Chem. Lett. 2, 359-362(1966

2019年6月 私の学位論文

20196月 私の学位論文
 
 今から56年ほど前,修士課程(博士前期課程) 2年の頃,父に博士課程に進学したい希望を告げ,ようやく了解を得た.その旨,指導教官の田中信行先生(東北大学理学部化学科教授) に恐る恐る申し出ると先生から「助手にならないか」と言われた.指導教授の命令は絶対である.我が家の経済状態も厳しかったのでありがたくこれに従った.「学位も取りたいのですが」と申し出ると「それでは研究テーマは“非水溶液のポーラログラフィー”にしたまえ」と言われた.
 ここで,ポーラログラフィーについて少し説明する.ポーラログラフィーとは電気化学計測法のひとつで,ボルタンメトリーとしてチェコJaroslav Heyrovsky (ヤロスラフ ヘイロフスキー, 1890-1967)と当時,彼のもとに留学していた志方益三(京都大学教授,1895-1965) によって考案された.作用電極として滴下水銀電極を用いることが特徴で,直線的に電極電位を連続的に変化させて応答電流を測定するもので(電位走査法ともいう),彼らは電流と電位の関係を自動的に計測する装置を完成させた.ガラスキャピラリの先端から数秒間隔で落下する水銀滴が落下するまでの間にその水銀表面で起こる電気化学反応によって流れる電流を測定するのである.水銀滴は次々更新されるから,常に清浄な電極表面での電流を再現性良く採取できる特長がある.1959年,Heyrovskyはこの功績でノーベル賞を受賞している.1950年代から1990年代にかけ,この学問はチェッコスロバキヤと,わが国,および米国が世界の最先端を走っていた.田中先生も助教授の玉虫怜太先生と“田中・玉虫の式”と言われる電極反応の解析式を提案され,Natureに論文なども掲載され,研究室は意気が上がっていた.
当時は水溶液中での電気化学反応を研究することが主体で水以外の溶媒を使う研究はほとんど知られていなかった.その時は面目ないことに「どのような意図で,なぜ,非水溶液なのですか」と問いただしもしなかったし,先生も何も説明されなかった.勘の良い先生だったから,水溶液中では知られていない新しい現象でも見つかるかもしれないと予想しておられたのかもしれない.水溶液中では電位を負側にしていくと水の電気分解で水素が,正電位側では酸素が発生するため,それ以上負,および正電位側での電極反応が起こっても観測できない.分解しにくい有機溶媒(プロトン性溶媒)を用いれば,より広い電位範囲での電気化学反応を観測することができる.水と激しく反応するため水溶液を用いては不可能なリチウム電池が成り立つ所以である.恥ずかしながら,このようなことを当初,明確に意識していたわけではなく実験しながら徐々に会得していった.当時は非水溶液の電気化学などという言葉すらなかったし,文献も見当たらなかった.どのように研究を始めてよいか,全く見当もつかない.困ったなと思いながら,あちこち当たってみたら,化学教室の近くにあった“東北大学金属材料研究所”通称“金研”に,Minesota大学のI. M. Kolthoff教授 (分析化学分野の世界的権威) のところに留学されていた池田重良先生(大阪大学名誉教授) が帰国されたばかりで,向こうでアセトニトリ(CH3CN) 溶液中のポーラログラフィーの研究をされてきたらしいとのうわさを聞きこんだ.早速,先生のところに伺い,アセトニトリルの取り扱い方などを教わってきた.池田先生は親切に細かいところまで教えてくださった.(以下次号)

2019年5月 烏との攻防

20195月 烏との攻防
 
     ごみ漁る烏を叱る冬の朝   祐
 この数年,烏に悩まされている.我が家の地区の生ごみの収集は毎週,火曜日と土曜日である.この日の朝,あるいは不心得ものは前日の夜のうちにビニール袋等に入れた生ごみを定められた場所に出しておく.それを午前8時ころ,市のごみ収集車が持っていくのである.朝,ラジオ体操に行く前にこの収集場所を見ると,必ず烏が数羽,くちばしでごみ袋を破って中から,生ごみを引っ張り出し食い散らかしている.周囲はごみだらけ,これを掃除してからラジオ体操に行くことを数年間続けている.ラジオ体操から戻ると,また,散らかっていることも多い.私は未だ経験がないが,烏は人の顔を覚え,強く叱るとその人を襲ってくるとか,昨年のことなのに覚えていて今年もまたやられたとラジオ体操仲間の一人が言っていた.烏は賢いとはよく聞く話である.クルミを車に轢かせて.殻を割ってから中身を食べる習慣(知恵)仙台市の川内地区の道路から始まったと数十年前の「科学朝日」で読んだことがある.私も学生時代よく通った東北大学教養部のあるところである.
以下はかって,津波でやられる前の岩手県大槌町に職場のあった息子から聞いた話である.車通勤していた彼が海際の道路に通りかかると道路の真ん中に居座る烏をしばしば目にしたとか.近づく車に慌てる様子もなく,烏はくわえていた貝を道に置き,ピョンピョンと道端に移動してから,期待のこもった視線を送ってくる.烏の狙いを知っている彼はひょいと貝殻を避けてやり過ごしてからバックミラーで確認すると,烏は恨めしそうにこちらをにらみつけていたとか.この辺,少し嘘っぽいが,烏が車に貝殻を轢かせてから中の身を食べるのは確かなようである.例の東日本大震災のために彼の勤務先の建物は津波にやられ,長い間無人になっていた.春になると烏は建物内のパイプ周りの断熱材をくちばしでむしり取り,巣作りのために持っていった.周りは散らかるし,困った彼は知人の宇都宮大学の「カラスの専門家」に相談したところ,“警告文”を出してみてはとのアドバイスを受けた.冗談だろうと思ったもののほかに良い知恵もなく,試しに「カラスの進入禁止」と書いたビラを何枚か,ガラスの割れた窓やその辺につるしたところ,果たしてカラスが建物内に入ってこなくなったという.烏は文字が読めるのではなく,警告文を目にした通りがかりの人たちが,不思議に思って,その辺の頭上を飛びかう烏を見上げたり,指さしたりすることに警戒して寄り付かなくなるらしいとのことである.この効果はここ数年続いているとか.新聞にも取り上げられた*1
 さて,こちらの生ごみ対策の方である.まさか,警告文を出すものはばかられたので,マンションの管理人さんにお願いして,出されたごみ袋類を覆いかぶせるためのネットを購入してもらった.言い出した建前上,私が朝,ごみ袋の上にネットをかぶせ,収集車がごみを持ち去ったあとはそれを撤去している.さすがに細かいネットの穴からごみを取り出すのは烏には無理のようで,今のところ効果が出ている.ただし,困るのは,ネットを持ち上げ中にごみ袋を押し込めばよいのに無精をし,ネットの上にそのままごみ袋を置いていく不心得もののいることである.これには往生である.烏がこれをつついてまた散らかしている.
 この辺に烏が非常に増えたのはこの生ごみと鳩等への撒き餌のためであろう.烏が撒き餌のおこぼれを頂戴しているのである.毎朝ラジオ体操でお世話になっている阪東橋公園と我が家の近くから関内まで続いている大通公園には“鳩や野鳥に餌を与えないで下さい”と書いた看板があちこちに立っている.しかし,これを無視して餌を与える人が絶えない.通りがかりにこれを見つけると妻はよく看板を指さしながら注意しているが,効き目はない.「だって,鳩がかわいそうでしょう」と言い合いになっている.このような人はきっと寂しいのであろう.掌に鳩を止まらせて得意げな人もいる.
ハンガーの透けて見えるや烏の巣   祐
この頃の烏の鳴き声は「あー,あー」と聞こえる.妻がよく「へたくそだね」と言う.親も生活に追われ,子烏に正しく鳴くことを教える余裕がないのかもしれない.それともウグイスのように「キョ,キョ,キョ」と初鳴きは下手でもだんだん上手になっていくのだろうか.ある時,烏が9階の我が家のベランダの植木鉢に罪滅ぼしのつもりかソウセージを置いていった.
 
*1) 朝日新聞2017516日付け夕刊