2021年2月 雪の恐ろしさ

 

 

 昨冬はほとんど雪の降らなかった北陸、新潟地方の今冬の大雪はすごかった。幹線道路で車が雪で動けなくなり数十キロメートルにわたって渋滞した。雪に慣れていないドライバーたちはさぞ恐ろしかったことであろう。怖いのはガス欠、暖房は切れ、車内は冷えてくる。トイレはどうしよう、お腹は空く、雪は降り続く、閉じ込められてしまうのではないか、車内灯もつかず、夜になれば真っ暗、ぼんやり雪明りだけ、唯一の救いは前後に同じような車、仲間がいるということだけだろうか。2月19日午前九時時点の郷里の母校、小千谷市片貝中学校の積雪は、昨夜から今朝にかけ29 cmの降雪があり、152cm、気温は-0.5℃である。立春を過ぎ、こちらは今日も快晴、梅の真っ盛りなのに、あちらは未だ真冬なのである。

 これまで体験した雪にかかわる恐ろしかったことを二、三記そう。学生時代の2月のある日、寮の友人のK君(もう数年前に亡くなってしまった。ご冥福を祈る)と冬の山越えをしようと蔵王にスキーで出かけたことがある。宮城県側の刈田岳(かっただけ、標高1758 m)にまず登り、お釜(火口湖)を右下に見ながら熊野岳(標高1841 m)に向かい、地蔵岳(標高1736 m)の樹氷の間を下り山形県側の蔵王温泉に浸かり帰仙しようという計画だった。もう60年以上も前のことである。山スキーといえば今では便利な器具がたくさんあるが、当時の最高品は上り坂で逆走しないようにスキーの裏側に動物の毛皮のシールを張り付けることだった。しかし、貧乏学生にはそれも高根の花、荒縄をスキーの板に隙間なく巻き付け縛って代用にした。スキーを履いて、汗をかきかき登り間もなく刈田岳山頂につくかと思われたころから雪が降りだした。そのうち風も吹き出し、眼も明けていられないような猛吹雪になった。ルートから外れないようにと5メートルから10メートル間隔で竹竿が目印として転々と立っていた。これを頼りにたどっていくのであるが、不意にその竹竿も見えなくなった。竹竿を見つけるために30分から1時間くらい歩き回っていたのでないか。必至であるからその時間感覚もわからない。同じ付近を歩き回っていたのでないか。いわゆるワンダリングである。そのうちふと気づくとスキーが滑っている。下っているのである。このまま行けばどこかの谷に迷い込んで遭難である。絶対こんな場合は下ってはいけない。高い方に登れというなにかで読んだ教えを思い出し必死に坂を登った。大声で叫ぶとK君も苦戦しているらしくかすかな声が聞こえた。ようやく平らなところにたどり着き周囲を見回すと少し小降りになった吹雪の間にかすかに竹竿が見えた。しめた、助かったとこんなに嬉しかったことはなかった。残念だったが、今回は山越えをあきらめることとし、2人で慎重にもと来た道を引き返し下山した。

別の年、今度は研究室の後輩のS君たちと同じコースをたどった。この時は快晴に恵まれた。ようやく念願を果たしたと嬉しくなり、熊野岳山頂付近を気持ちよく滑っているとうかつにも転んでスキーの片方の板を折ってしまった。皆、快調に地蔵岳樹氷の間を滑りおりて行くのに、自分だけ折れたスキーを担いでとぼとぼ山を下りた。

また別の時、研究室の仲間数人で同じコースをたどったことがある。この時は少し天候が怪しかった。終日、曇った雪催いで、刈田岳から熊野岳に向かう途中、右下に見えるはずの御釜もガスで見えなかった。雪も降り始めた。熊野岳に到着したころは吹雪、反対側の地蔵岳の方からやってきた数人の男女のグループと出会った。お互いに挨拶を交わすと東北放送に勤務する人たちだった。我々とは逆コースでこれから刈田岳を経て宮城県側へ下山するとのことだった。お互い気を付けてと声を交わして別れた。帰宅した夜、ラジオでニュースを聞いていると「夕方には下山するはずの東北放送のスキーツアーの一行がまだ到着していない」と報じた。もう記憶も定かでないが、遭難者が出た。あの人たちだと直感した。冬山は生死が紙一重なのである。これまで数回、いろんな場面で命拾いをしたが、以上もその一つである。以下次号

 

2021年2月 雪の恐ろしさ

 

2021年2月 雪の恐ろしさ

 

 昨冬はほとんど雪の降らなかった北陸、新潟地方の今冬の大雪はすごかった。幹線道路で車が雪で動けなくなり数十キロメートルにわたって渋滞した。雪に慣れていないドライバーたちはさぞ恐ろしかったことであろう。怖いのはガス欠、暖房は切れ、車内は冷えてくる。トイレはどうしよう、お腹は空く、雪は降り続く、閉じ込められてしまうのではないか、車内灯もつかず、夜になれば真っ暗、ぼんやり雪明りだけ、唯一の救いは前後に同じような車、仲間がいるということだけだろうか。2月19日午前九時時点の郷里の母校、小千谷市片貝中学校の積雪は、昨夜から今朝にかけ29 cmの降雪があり、152cm、気温は-0.5℃である。立春を過ぎ、こちらは今日も快晴、梅の真っ盛りなのに、あちらは未だ真冬なのである。

 これまで体験した雪にかかわる恐ろしかったことを二、三記そう。学生時代の2月のある日、寮の友人のK君(もう数年前に亡くなってしまった。ご冥福を祈る)と冬の山越えをしようと蔵王にスキーで出かけたことがある。宮城県側の刈田岳(かっただけ、標高1758 m)にまず登り、お釜(火口湖)を右下に見ながら熊野岳(標高1841 m)に向かい、地蔵岳(標高1736 m)の樹氷の間を下り山形県側の蔵王温泉に浸かり帰仙しようという計画だった。もう60年以上も前のことである。山スキーといえば今では便利な器具がたくさんあるが、当時の最高品は上り坂で逆走しないようにスキーの裏側に動物の毛皮のシールを張り付けることだった。しかし、貧乏学生にはそれも高根の花、荒縄をスキーの板に隙間なく巻き付け縛って代用にした。スキーを履いて、汗をかきかき登り間もなく刈田岳山頂につくかと思われたころから雪が降りだした。そのうち風も吹き出し、眼も明けていられないような猛吹雪になった。ルートから外れないようにと5メートルから10メートル間隔で竹竿が目印として転々と立っていた。これを頼りにたどっていくのであるが、不意にその竹竿も見えなくなった。竹竿を見つけるために30分から1時間くらい歩き回っていたのでないか。必至であるからその時間感覚もわからない。同じ付近を歩き回っていたのでないか。いわゆるワンダリングである。そのうちふと気づくとスキーが滑っている。下っているのである。このまま行けばどこかの谷に迷い込んで遭難である。絶対こんな場合は下ってはいけない。高い方に登れというなにかで読んだ教えを思い出し必死に坂を登った。大声で叫ぶとK君も苦戦しているらしくかすかな声が聞こえた。ようやく平らなところにたどり着き周囲を見回すと少し小降りになった吹雪の間にかすかに竹竿が見えた。しめた、助かったとこんなに嬉しかったことはなかった。残念だったが、今回は山越えをあきらめることとし、2人で慎重にもと来た道を引き返し下山した。

別の年、今度は研究室の後輩のS君たちと同じコースをたどった。この時は快晴に恵まれた。ようやく念願を果たしたと嬉しくなり、熊野岳山頂付近を気持ちよく滑っているとうかつにも転んでスキーの片方の板を折ってしまった。皆、快調に地蔵岳樹氷の間を滑りおりて行くのに、自分だけ折れたスキーを担いでとぼとぼ山を下りた。

また別の時、研究室の仲間数人で同じコースをたどったことがある。この時は少し天候が怪しかった。終日、曇った雪催いで、刈田岳から熊野岳に向かう途中、右下に見えるはずの御釜もガスで見えなかった。雪も降り始めた。熊野岳に到着したころは吹雪、反対側の地蔵岳の方からやってきた数人の男女のグループと出会った。お互いに挨拶を交わすと東北放送に勤務する人たちだった。我々とは逆コースでこれから刈田岳を経て宮城県側へ下山するとのことだった。お互い気を付けてと声を交わして別れた。帰宅した夜、ラジオでニュースを聞いていると「夕方には下山するはずの東北放送のスキーツアーの一行がまだ到着していない」と報じた。もう記憶も定かでないが、遭難者が出た。あの人たちだと直感した。冬山は生死が紙一重なのである。これまで数回、いろんな場面で命拾いをしたが、以上もその一つである。以下次号

 

2021年1月 定年後どこで過ごしますか 

 表題は購読している新聞の昨年12月のある日の投書欄の見出しである.Aさん(女性79) は「移住・都市回帰,今は2拠点生活」,Bさん(男性71) は「郊外から市街地へ,元気なうちに」,Cさん(男性78)「週末45キロ離れた田舎で農作業」,Dさん(女性55) は「好きな場所で夫婦別々もいい」,Eさん(男性74) は「積極的に関わりよそ者を脱した,市街地から山間地へ」とさまざまだった.それぞれの具体的内容は省くが,タイトルからおおよそ想像できよう.コメンテーターのM氏は述べている.

 「定年後一番つらいのは“することがないこと”,“何をしたいか”に応じて選んではいかがでしょう」云々と続いていた.

上記の皆さんのはいずれも成功している例で健康であることが前提であった.さて,私の場合はもう,定年後11年もたっており,いまさらじたばたしても仕方がないが,Aさんのスタイルに近いかもしれない.今から50数年前,公害真っただ中の川崎に住んでいた.朝出かけるとき,真っ白のワイシャツも帰宅時には襟など煤で黒く汚れていた.日中も空は暗く澱んでおり,子供たちは風邪をひきやすく,長男はいつまでも咳が続いた.医者から,このままでは喘息になりますよと言われ,思い切って厚木市に転居した.おかげで子供たちは風邪もひかなくなり元気に成長した.ただし,職場までの通勤時間が長くなり,当初は1時間半くらいだったのが,自宅から最寄り駅までの交通渋滞がひどくなり,2時間以上かかるようになった.当時は高度成長期,残業も多く通勤に4時間も取られ,朝起きても倦怠感が抜けず,土,日も何もする気になれず,もっぱら疲れを癒すのに費やされた.そこで,20数年前,思い切って横浜の現在の地にマンションを購入した.おかげで,Door to Door で35分から40分くらいになり,身体も快調になった.当時はバブル末期でマンション購入費は高く,時間を金で買ったような気がした.よく,1時間うん万円だと思ったが,健康は金には代えられないと自分を納得させたものである.しかし,20数年住み,庭木なども大きく成長し,愛着の湧いた厚木の家を手放す気にはなれず,空き家の状態が続いている.時々戻り,庭木の手入れ,草取り,町内会もそのままにし,近所の人たちとの交流を続けた.毎年,卒研生たちとバーベキューも行った.静かで夜もよく眠れ,釣りのできる中津川も近い.今もほぼ毎週,土,日は厚木に戻っている.約38km,車で1時間から1時間半くらいである.厚木と横浜間がもう少し近ければなどとしょうもないことを思う.いずれ車の運転も危うくなり,厚木はあきらめなければならないか,時間の問題である.車の自動運転は間に合いそうもない.

一方,横浜は食料品の安い横浜橋商店街,病院,市役所,銀行,本屋,図書館,映画館,飲み屋街等いずれも徒歩圏内,退屈する暇もない.厚木ほど終電車を気にすることもない.地下鉄10分で横浜駅にも行け,妻は今の場所が気に入っている.乳がんの後遺症に悩む妻には病院の近いことが何よりである.長年,厚木で親しくしていた人たちの何軒かは持ち家を処分し,都市部に移転された.

 話は変わるが,老人ホームや養護施設等は風光明媚な土地や喧騒な都市部を離れた郊外に在ることが多い.しかし,そこでは人の触れ合いは少なく決まった人との関わり合いのみになる.このような施設こそ,刺激が多く,人との接触が濃厚となる市街地に建設されるべきではなかろうか.活気の溢れる街に出れば子供や若者,不特定の年配者とも接触が可能で会話も多くなり,種々の刺激を受けよう.しかし,そうなっていないのは老人は静かな郊外で余生をという施政者の思い込みか,あるいは建設用地確保のための土地代が都市部の方が圧倒的に高額であるためかもしれない.

結局,現在の環境をいとおしみ,日々を大切に過ごすことがコロナ禍の今,最も求められていることなのだろうか.

2020年12月  お寺巡り

 今年の初め,横浜市営地下鉄ブルーラインセンター南駅で下車,都筑 (つづき) 区のあちこちを散歩した折,あるお寺(名前を失念)をお参りした際,そこに“都筑区・寺院グリーンマップ”と題したパンフレットがおいてあった.区仏マップ作成委員会と都筑区仏教界会が作成したもので,地図に区内のお寺の位置が記され,各お寺の写真とその寺の簡単な由緒等が印刷されていた.これで一年間楽しめる,いいものを入手したと喜んだ.区内に32ものお寺が存在するとはと驚いた.あとで分かったが,地図には記載されていないお寺も1-2寺あった.各お寺がどのくらい檀家を持っているかわからないが,隣接する墓地のお墓の数から推定して,1寺100軒として,3200軒,当時は大家族だったであろうから6人家族として2万人近くの人々がいくつかの集落に分かれて生活していたのであろう.豊かな田園地帯だったのである.戦後都市開発が進み,今はもう高層住宅や商業施設の立ち並ぶ大都会であるが,街並みを外れると未だ当時をしのばせる田畠や里山がある.区民の平均年齢は40歳にも満たないという若い街なのである.これではお寺も維持管理が大変なことであろう.

 マップによれば,お寺の宗派は高野山真言宗,浄土宗,浄土真宗本願寺派日蓮宗臨済宗円覚寺阿派,曹洞宗真言宗豊山派真言宗大谷派とさまざまである.最も古い寺は観音寺で開創年は貞観時代(平安時代前期,859〜876)である.その他の開創年は,鎌倉時代室町時代,江戸時代におよび,最も新しいのは平成8年(1896)の慈恩寺である(写真).アルファベットで「JIONJI」とも表記されており,よくレストランと間違われるという.

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          慈恩寺 開創年:平成8年(1996)

 毎週,1〜2日,晴れた日を選んでこれらの寺を巡り歩くことにした.市営地下鉄のブルーライン,グリーンを利用し,最寄りの駅で下車,一回の散歩で3-4寺を訪れた.帰りはバスで新横浜駅まで戻ることもあった.万歩計の歩数は1万から1.5万,ときには2万歩になることもあった.お賽銭は小銭の持ち合わせの都合で10円だったり,100円だったり,無しのこともあった.途中で神社にめぐり合わせたときはこちらにも参拝した.神社の数の方が寺の数よりはるかに少ないのは何故だろうか.手入れが行き届かず荒れ果てた社もいくつかあった.お寺と神社では信者の数が大きく隔たっているためであろう.あるいは神社の方が古くからの縛りが少ないためであろうか.収入の差なのである.  

 簡単な地図のため,お寺が見つからずあちこちうろうろすることもあったが,慣れてくるとあのあたりにお寺がありそうだと見当がつくようになった.遠くから眺めると森が見えたり,高台だったり,そんなところに目指す寺があった.コロナ禍真っ盛りで暑い7月,8月はさすがパスしたが,それでも何回か通ううち,9月末には32寺を回りつくしてしまった.心行寺の説明に「深山渓谷の趣があるお寺.紅葉の秋は素晴らしい彩りを見せてくれる」とあったのを思い出し,去る11月下旬,妻を連れ出し再訪した.紅葉は終わりかけていたが,それでも見事だった.すぐ近くに高層マンションがあったり,大学があったり,そんな中にこのお寺はあった.

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   心行寺 (開創年:慶長元年(1596)) の紅葉,黒い人影は階段を登るのをさぼった妻

 来年はどうしようか.かって,戸塚は宿場町として賑わい,神社,仏閣も多いようだ.そちらにしようか,思案中である.

2020年11月 Go to トラベル

 コロナ禍が未だ第三波の始まる前の少し安定していた去る10月下旬,久しぶりに近畿日本ツーリスト企画のツアーに妻と参加し,二泊三日の奥能登方面の旅をしてきた.行きは富山まで,帰りは高岡からの北陸新幹線でその間はバスツアーだった.北陸新幹線には初めて乗ったが,全席指定で快適だった.コロナ禍で外出を控えていた人たちが満を持してGo to トラベル企画に参加したという感じで,2台のバスは満員であった.奥能登はほぼ60年前の学生時代,学会の夏の学校に参加した折,あちこち廻った思い出があるが,それ以来である.以下に印象に残ったことを述べる

 初日,のと鉄道七尾線能登中島―穴水間を観光列車に乗った.新型コロナ菌感染予防のためか,飲食類の販売はなく,地酒も飲めず少し残念だったが,紅葉にはまだ早い沿線の風景を楽しんだ.天候は時々雨だった.中島町(七尾市)には俳優の仲代達矢氏が主宰する無名塾が1985年から毎年合宿していたことが縁で開館した劇場・能登演劇堂(のとえんげきどう)があり,毎年,演劇が行われているという.ホテルは2泊とも志賀町にあるローヤルホテル能登だった.

 二日目,鴨ヶ浦,輪島朝市,白米(しらよね)千枚田,揚げ浜塩田,聖域の岬(珠洲岬),真脇遺跡などを巡って,ホテルに戻った.鴨ヶ浦では遊覧船に乗る予定だったが,波が高く欠航だった.行きかえりに白米千枚田を通った.千枚田は耕運機も入れず,耕作者が老齢化して耕作できなくなったが,オーナー制度を取り入れることによって見事に復活し,今では世界農業遺産に登録されている.この制度は2007年に千枚田の景観を守るためスタート,稲作体験を通じて先人の苦労,生産の喜び,米一粒の大切さを理解するとともに会員(200名に限定)と地元農家の人々の交流を大切にする制度である.

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白米枚田

 水田一面当たりの面積は18 平方メートルと狭小で約4ヘクタールの範囲に1004枚の田があり,「田植えしたのが999枚,あとの1枚蓑の下」と古謡にうたわれているとか.帰りに通ったときはLEDで美しくライトアップされていた.

夕方,能登半島の東側の真脇海岸に近い縄文遺跡に立ち寄った.何の信仰のためか大きな栗の樹が並んで掘りだされたという跡に高さ5mくらいの太い柱が5本立っていた.また,直径7mくらいの環状木柱列もあった.放射性炭素年代測定から約2,800年ほど前の縄文時代晩期に作られたものという.もっとあちこち見て回りたかったが,薄暗くなってき,他の人たちはバスに引き上げたのでやむなく後を追いかけた.

三日目は雨の宮古墳,御手洗池(聖武天皇の皇太子の眼病治療に使われたでいう伝説),青林寺,のとじま水族館,コスモファイル羽咋(はくい),雨晴れ海岸等を巡り,新高岡から北陸新幹線で東京経由で帰宅した.

まず,雨の宮古墳群を見学,ここには4世紀から5世紀にかけて創られた36基の古墳が連なっているとか.発掘されて露になった1号墳に登ってみた.発掘された遺物の展示館は時間がなく見られなかった.足元が不如意の妻のみ案内付きで見学した.

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            雨の宮古墳群1号墳 

いつもこのような遺跡を訪れるとき思うのだが,当時の人々はどんな日々を送っていたのだろうか.大部分の時間は食料確保に費やされたであろうが,それでもお祭りがあったり,人が生まれたり,死んだりと日々の喜怒哀楽に富んだ生活があったことであろう.タイムスリップしてみたい.特に私が気になるのは,当時の人々がどんな言葉で話していたのだろうかということである.今の私たちが話す日本語とはかなり異なっていたであろうことは想像できるが,それにしても当時,テープレコーダーがあったらなと思うのである.

圧巻だったのはコスモファイル羽咋(はくい)(宇宙科学博物館)で,本物の宇宙船の展示がある.どういうわけか,羽咋市には昔から,UFOを見た人が多く(3人に1人とか),数えきれないほどのUFOの写真展示や記録資料のファイルがあった.UFOによる町おこしとなった博物館建設を推進したのは,市の職員だった高野誠鮮氏の型破りの発想と行動力である.日本で初めてのUFO国際シンポジウムを開催し,アメリカや旧ソ連の本物の宇宙船をここに持ち込んだ.その資金集めや宇宙船入手過程の苦労などは (http://www.hakui.ne.jp/ufo/01_02story.html) を参照されたい.説明員に「よく,ソ連が実物を手放しましたね」と尋ねたら,実際に宇宙を飛んだ宇宙船が5機あって,ガガーリンの載った1号機はモスクワの国立博物館に保存されているが,その他はソ連崩壊時,財政難で手放したのだとか.それにしても一人の人間の情熱と型破りの行動力が町おこしとなり,周囲の雰囲気をがらりと前向きに変えることができたことに深い感銘を受けた.

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宇宙船ボストーク1号

     

2020年11月 Go to トラベル

 コロナ禍が未だ第三波の始まる前の少し安定していた去る10月下旬,久しぶりに近畿日本ツーリスト企画のツアーに妻と参加し,二泊三日の奥能登方面の旅をしてきた.行きは富山まで,帰りは高岡からの北陸新幹線でその間はバスツアーだった.北陸新幹線には初めて乗ったが,全席指定で快適だった.コロナ禍で外出を控えていた人たちが満を持してGo to トラベル企画に参加したという感じで,2台のバスは満員であった.奥能登はほぼ60年前の学生時代,学会の夏の学校に参加した折,あちこち廻った思い出があるが,それ以来である.以下に印象に残ったことを述べる

 初日,のと鉄道七尾線能登中島―穴水間を観光列車に乗った.新型コロナ菌感染予防のためか,飲食類の販売はなく,地酒も飲めず少し残念だったが,紅葉にはまだ早い沿線の風景を楽しんだ.天候は時々雨だった.中島町(七尾市)には俳優の仲代達矢氏が主宰する無名塾が1985年から毎年合宿していたことが縁で開館した劇場・能登演劇堂(のとえんげきどう)があり,毎年,演劇が行われているという.ホテルは2泊とも志賀町にあるローヤルホテル能登だった.

 二日目,鴨ヶ浦,輪島朝市,白米(しらよね)千枚田,揚げ浜塩田,聖域の岬(珠洲岬),真脇遺跡などを巡って,ホテルに戻った.鴨ヶ浦では遊覧船に乗る予定だったが,波が高く欠航だった.行きかえりに白米千枚田を通った.千枚田は耕運機も入れず,耕作者が老齢化して耕作できなくなったが,オーナー制度を取り入れることによって見事に復活し,今では世界農業遺産に登録されている.この制度は2007年に千枚田の景観を守るためスタート,稲作体験を通じて先人の苦労,生産の喜び,米一粒の大切さを理解するとともに会員(200名に限定)と地元農家の人々の交流を大切にする制度である.

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白米枚田

 水田一面当たりの面積は18 平方メートルと狭小で約4ヘクタールの範囲に1004枚の田があり,「田植えしたのが999枚,あとの1枚蓑の下」と古謡にうたわれているとか.帰りに通ったときはLEDで美しくライトアップされていた.

夕方,能登半島の東側の真脇海岸に近い縄文遺跡に立ち寄った.何の信仰のためか大きな栗の樹が並んで掘りだされたという跡に高さ5mくらいの太い柱が5本立っていた.また,直径7mくらいの環状木柱列もあった.放射性炭素年代測定から約2,800年ほど前の縄文時代晩期に作られたものという.もっとあちこち見て回りたかったが,薄暗くなってき,他の人たちはバスに引き上げたのでやむなく後を追いかけた.

三日目は雨の宮古墳,御手洗池(聖武天皇の皇太子の眼病治療に使われたでいう伝説),青林寺,のとじま水族館,コスモファイル羽咋(はくい),雨晴れ海岸等を巡り,新高岡から北陸新幹線で東京経由で帰宅した.

まず,雨の宮古墳群を見学,ここには4世紀から5世紀にかけて創られた36基の古墳が連なっているとか.発掘されて露になった1号墳に登ってみた.発掘された遺物の展示館は時間がなく見られなかった.足元が不如意の妻のみ案内付きで見学した.

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            雨の宮古墳群1号墳 

いつもこのような遺跡を訪れるとき思うのだが,当時の人々はどんな日々を送っていたのだろうか.大部分の時間は食料確保に費やされたであろうが,それでもお祭りがあったり,人が生まれたり,死んだりと日々の喜怒哀楽に富んだ生活があったことであろう.タイムスリップしてみたい.特に私が気になるのは,当時の人々がどんな言葉で話していたのだろうかということである.今の私たちが話す日本語とはかなり異なっていたであろうことは想像できるが,それにしても当時,テープレコーダーがあったらなと思うのである.

圧巻だったのはコスモファイル羽咋(はくい)(宇宙科学博物館)で,本物の宇宙船の展示がある.どういうわけか,羽咋市には昔から,UFOを見た人が多く(3人に1人とか),数えきれないほどのUFOの写真展示や記録資料のファイルがあった.UFOによる町おこしとなった博物館建設を推進したのは,市の職員だった高野誠鮮氏の型破りの発想と行動力である.日本で初めてのUFO国際シンポジウムを開催し,アメリカや旧ソ連の本物の宇宙船をここに持ち込んだ.その資金集めや宇宙船入手過程の苦労などは (http://www.hakui.ne.jp/ufo/01_02story.html) を参照されたい.説明員に「よく,ソ連が実物を手放しましたね」と尋ねたら,実際に宇宙を飛んだ宇宙船が5機あって,ガガーリンの載った1号機はモスクワの国立博物館に保存されているが,その他はソ連崩壊時,財政難で手放したのだとか.それにしても一人の人間の情熱と型破りの行動力が町おこしとなり,周囲の雰囲気をがらりと前向きに変えることができたことに深い感銘を受けた.

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宇宙船ボストーク1号

     

2020年10月 栗の季節

 

 私は栗が大好きで,亡くなったら仏壇に栗飯を備えてほしいと妻や子供たちに伝えてあるが守られるかどうか.9月は栗の実る季節である.子供の頃,家の近くに古いお屋敷があって,広い敷地は石垣で囲まれ,お茶の樹が生垣として植わっていた.数本の栗の大木があって,繁茂した枝が敷地から道路の方まではみ出していた.9月になると大きく実った丹波栗が道路にもよく落ちてきた.これを待ち構えていた子供たちが拾うのである.ことに台風のやってきた雨風の後は沢山の栗が,茶色に光る粒で,あるいはいがごと落ちていた.朝早く,まだ誰も拾わないうちにこれらを拾えた時はうれしかった.雨風の強い夜など明日は沢山栗が落ちているだろうと布団の中で想像し,わくわくしたものである. 朝,まだ暗いうちに懐中電灯を持って拾いに行った.誰かに拾われないうちにと段々,家を出るのが早くなって,ついには4時前後になったのではなかったか.

 先日,久しぶりに渋皮煮を作った.渋皮煮とは栗の固い皮(鬼皮)を取り除いたのち,毛羽だった薄い渋皮が残ったままの状態で砂糖で甘く煮た栗のことである.ちょっと油断するとすぐこの渋皮が破れ,中の実がはみ出し崩れてしまうのであるが,今回はうまくいった.ネットでしらべるといろんな作り方があるようである.作ってみようというもの好きな人も少ないだろうが,念のため今回のレシピを記す.横浜橋商店街から買ってきた栗を15粒選んだ.一晩水につけておいたのち渋皮を傷つけないように注意深く外側の固い鬼皮を剥く.今は鬼皮を剥くのに便利な“栗太郎”というニックネームの,ニッパーを大きくしたような治具が販売されている.この渋皮が付いたままの栗を鍋にいれ,水をひたひたになるくらい入れる.重曹大匙1杯(1gくらい)も加えて10分煮る.水が黒くなるのでこれを捨て,また水を加え煮る.この操作を3回繰り返したのち,栗に被るくらい水を入れ,これに用意した (栗の重量の半分) 砂糖を加え,ガスコンロの炎を小さくしてゆっくり煮詰めていく.このとき,砂糖を一気に加えるのでなく,半分ほど加えたのち残りの砂糖を少しづつ加えていく.徐々に煮詰まっていくので焦げ付かないように少し汁が残った状態で火を止める.好みでブランデイを加えてもよいとレシピにあったが,代わりに手元にあったウイスキーを加えて完成.今回は1個,切腹しただけでうまくいった.鬼皮を剥くとき,渋皮に疵をつけたり,砂糖と煮詰めるとき火が強すぎると失敗するようである.少し多めに購入した残りの栗は茹でたのち,鬼皮,渋皮も取り除いたものを冷凍庫に保存した.時々,妻に頼んで栗飯を作ってもらうのである.

 話は変わるが,未だ稲作を知らなかった縄文時代の人々は栗を大切な食料源として珍重したようである.青森県三内丸山遺跡からは地面に穴を掘り,柱を建てて造った建物跡が見つかった.柱穴は直径約2メートル,深さ約2メートル,間隔が4.2メートルで長方形に6個の穴が見つかり,中に直径約1メートルの栗の木柱が入っていたという.遺伝子解析によれば,この栗の大木は栽培されていたという1) 多分,実も大きかったであろう.野山に生えている野生の栗の実は小さい.もう,70年も前の子供の頃,里山に入り込んでよく,この野生の栗の実を採って生のまま食べた.生で食べるのには未だ,いがの青い,熟す前の実の方が甘くておいしかった.食料難の時代が未だ続ていたのか,市販のおやつなども少なく,野山で調達した口に入るものは何でも食べた.春にはいたどり(すかんぼ,あるいはすっかんぼと言っていた.塩をつけて食べた),つつじの花,また,葉についていた“モチ”と言っていたが,白いこぶ状のもの(少し甘味があった),桑の実,野いちご,秋には栗,山葡萄,胡桃,あけびなどだった.柿は渋柿が多かった.