2020年7月 マイナンバーカード

 マイナンバー制度が始まって4年が過ぎた.この間,登録された皆さんはどのくらい,マイナンバーカードを使用されたであろうか.また,おそらく未だ未登録の方も多いのではないか.私は,年1回,確定申告をe‐タックスで行う時使用するだけである.身分証明が必要の場合は自動車運転免許証で済ませてきた.

誕生日の3か月前の去る4月,今度の誕生日で有効期限が切れるから更新手続きをするようにとの通知が届いた.一方,私より約1ヵ月誕生日の早い妻のところには3月ころ同様の通知書が届いた.妻は早速更新手続きをしようとしたが,肝心のカードが見つからない.4年間,1回も使用したことがなく,どこかに紛れ込んだのであろう,あちこち探したがとうとう見つからなかった.中区役所に問い合わせたところ,再交付の手続きをしてほしいとのことだった.妻一人では心もとないので区役所に付き添って行った.その前にまず近くのコンビニで身分証明用の写真を撮った.身分証明用として健康保険証と車の運転免許証も用意するようにとのことだったが,後者はすでに返納しているのでパスポートを用意した.書類に必要事項を記入してその日は引き上げた.後日連絡するから,あらかじめ電話またはe-メールで受け取り日を予約してから受け取りに来るようにとのことだった.数週間後,また,区役所に行きようやく,妻はマイナンバーカードを再発行してもらった.虫の居所が悪かったから,窓口で,全くこれまで使用しなかったのに何でこんなに時間と手間・暇をかけるのかと皮肉を言ったが,「数年たてば住所変更等する人もありますから」と窓口の担当者の歯切れは悪かった.

さて,私の場合である.上記と同じように中区役所に行けばすぐ新カードが交付されるのではなく,予約が必要だった.早速,送付書に記載のフリー・ダイヤルでカード交付日と予約時間を伝え,カード,通知書を持参して,新カードを受け取った.腹が立ったのはこれからである.去る7月初め,電子証明書の有効期限通知書なるものが送られてきた.有効期限は2020年の誕生日までであるから,マイナンバーカードと本通知書を持参のうえ,お住いの市町村役場の窓口で更新手続きをするようにとの記載があった.通知書の差出先は総務省地方公共団体情報システム機構(J-LIS)だった.もう更新手続きも終わっているから放っておこうかと思ったが,お問い合わせ・マイナンバー総合フリーダイアルが記載してあったので電話してみた.電話相手は多分下請けで,すでに受け取っていると話しても要領を得ず,お住いの区役所の方に問い合わせてくださいの一点張り.よく見ると上記の通知書の右上に小さく中区戸籍課登録担当,電話:・・・・とあったので,電話してみた.「自分はすでに4月に新カードを受け取っているのに,また有効期限通知書が送られてきた.どうなっているのですか」と言ったところ,「そちらに届いた通知書は総務省が送付したものです.あなたはすでに発行済みですから再度こちらにお出でくださる必要はありません」と担当は言った.「多分,このような無駄な通知書が多く送付されているのでしょうね.どうして,横浜市の方から,総務省に発行済みの人を知らせないのですか」と言ってみたが暖簾に腕押し.要領を得なかった.要するに総務省横浜市没交渉,縦割りで業務が行われており,それぞれの担当者は言われた最低限の自分の役割を忠実に一所懸命実施しているのである.昨今,メール,LINE等の普及で郵便取扱量が激減しているので,その援護射撃かと下種の勘繰りをしたくなる.このような壮大な税金の無駄遣いはいろんなところで行われているのでないか.

最近の最たるものは“アベノマスク”である.緊急事態宣言が解除されてから届いたところも多い.7月18日付け朝日新聞によれば,「アベノマスク」を使っていますか,というアンケートで実に「はい」が5%,「いいえ」が95%だった.おかげさまで,貧乏性の私はこれをすでに何回か洗濯し,愛用している.ただし,これは外出時の世間に対する免罪符としてである.私も感染防止にきょうりょくし,自信でも防御していますよというポーズである.私は布製のマスクを全く信用していない.だって,電子顕微鏡でようやく見える0.1マイクロメートルオーダーの新コロナウイルス菌は布製マスクの穴に対しては笊(ざる)を通る水のように容易であろう.せいぜい,くしゃみの際のつば飛沫が防げるか,あるいはコロナ菌が布繊維の表面に吸着してわずかに取り除かれる程度であろう.あまり無駄口をたたいていると罰があたり,感染するかもしれないのでこの辺でやめる.

ところで,総務省マイナンバーカードの普及と存在価値を高めることに必死である.その一環として「マイナムポイント事業」なるものが始まるとのことである.2020年9月から2021年3月末までの約半年間,キャッシュレス決済事業者の決済サービスを利用(チャージや購入)した際に、利用額に応じて、次回の買い物等に利用できるポイントが決済事業者から消費者にポイント付与される仕組みでポイント付与率はチャージ額または購入額の25%、上限5000円分ということが決まっている.付与を受けるにあたっては,“マイキーID”を作成する必要があり,その際にマイナンバーカードICチップの身分証明機能が活用される予定とのこと,早速,インターネットでその申込手続きを行おうとしたが,うまくいかない.マイキーID作成・登録準備ソフトが必要であるからこれをインストールするようにとの指示が出た.指示通りにやっては見たが,×印が出る.その場合はプラウザで“ツール”を選択し,表示された一覧から“アクテイブフィルター”を押し,チェックを外すようにと指示が出た.もう,キーワードの意味すら分からずお手上げである.幸い,サービス開始までに少し時間があるから何とかクリヤーしたい.それにしても今後,ますます情報難民が増え,利益を受ける人と受けない人の格差が広がっていくことであろう.ぼんやり歳などとってはいられない.

2020年6 月 教育婆ちゃん

  教育ママという言葉はあるが,教育祖母とか教育婆ちゃんという言葉は聞いたことがない.私事で恐縮であるが,そんな私の母のことを述べよう.

 今から50年ほど前,息子が1歳のころ,私たちは宮城県多賀城町(現多賀城市)に住み,共稼ぎをしていた.息子は近所の病院が経営する保育所にお世話になっていた.その年の冬,息子が重い風邪に罹った.白血球が異常に増え,心配した.ようやく治ったものの集団保育に耐えられるほどには体力がなかなか回復しなかった.妻も勤務があり,休むことができず,実家に相談したところ,まだ,60歳代で体力もあった母が孫の面倒を見ると言ってくれほっとした.小千谷の実家に妻が息子を連れて行った.別れるとき泣かれて困ったが,とにかく,息子を置いてきた.それから,約7ヵ月ほど息子は祖父母のもとでお世話になり元気になった.幸い,彼は祖父母になつき,あまり母親のことを思いだし泣きもせず(むろん父親の私のことも)順調に2歳の誕生日も過ぎた.妻が息子を連れ戻しに行ったとき,彼は母にしがみつき,妻の方には来ようとしなかったという.だましだまし,連れ帰ったが,妻は今でも,その時のことを思いだし,母親失格かと悲しかったという.母は孫を当時,未だ存在した魚沼線に始点から終点まで乗せたり,あちこち連れまわしたりした.自動車修理工場では飽きもせず車の修理される様子を眺めた.ある時「僕,大きくなったらおばあちゃんをオートバイに乗せてあげるね」といったそうな.その約束は息子が大学生のころ果たされた.彼はその頃流行った蜂族となり,オートバイで北海道をめぐり,帰宅の際(その頃,私たちは厚木に住んでいた),実家に立ち寄り,母をオートバイに乗せた.息子の背中にしがみついた母のうれしそうな写真が残っている.釣りが苦手だった父は,釣り竿を購入し,孫を近くの川に連れだした.息子が幼稚園に入るころには,時々,母から本が送られてきた.それが,絵本等ではなく,その頃,ポプラ社から発行されていた子供向けの世界偉人伝だった.実家の近くの本田書店から購入したものだった.この本屋さんはとうの昔に廃業したが,今も無人の建物が残っており,ガラス戸の内側には“小学館”などと染め抜かれた布製の旗が見える.送られてきた本は,豊臣秀吉二宮尊徳野口英世リンカーン,ワシントン,エジソン良寛さま,湯川秀樹など様々だった.

    息子が小学1, 2年生のころのある時,「僕,もう偉くなれないね」と気落ちしたようにぼそっとひとり言を言った.どうしてかと尋ねたら,「だって,豊臣秀吉二宮尊徳野口英世リンカーンも偉くなった人はみんな家が貧乏だったのに僕の家はそれほど貧乏ではないよね」といった.喜んでいいのかどうか,妙なことをいうもんだなと思ったが,慌てて「湯川秀樹のお父さんは京都大学の偉い先生で家も貧乏ではなかったよ.貧乏とは関係なく,偉くなれるかどうかは本人の努力次第だ」などとあまり説得力のないことを言ってその場をしのいだのを覚えている.

    息子は成長し,ウミガメやペンギンの研究を始めた.正月や夏休みに実家に行くと母はよく「ウミガメの研究が人さまの役に立つのかね.ペンギンは益鳥か害鳥か」などと息子を問い詰めていた.越後平野に生まれ育った母にとっては虫をよく捕ってくれるツバメは益鳥であり,秋になって稲が実るころ,田圃に何百羽もの群れを成して押し寄せ,稲穂をついばむ雀のことが頭に刷り込まれており,害鳥以外の何物でもなかったのである.また,息子が南極観測隊員になり,越冬することになった時には「税金を沢山使って南極に越冬することが何の役に立つのかね」などと言っていた.息子は何やらいうものの母が存命中には彼女を説得することができず,いつも苦笑いをしていた.「何の役に立つかわからないことにも研究予算を出すのが文化国家だ.韓国などは南極観測を行っていない」と息巻いていたが,母には通じなかった.

 研究を始めてから約30年,ようやく,母を説得し,納得させることができるような結果が得られ始めたと息子はほっとしているようである.地球温暖化,気候変動の原因究明に寄与するかもしれないデータが採れ始めているのである.気象衛星は絶えず海の温度を観測しているが,それは海面近くの温度である.ところがウミガメにセットされた温度計が様々な深度の海中の水温を記録したり,小型ビデオカメラが水中に漂うプラスチックごみの様子を撮影してくれる技術が確立しつつあるようである.また,海鳥の飛翔経路について海鳥が海面から離陸する際,向かい風方向に比べて追い風方向に飛ぶ際の飛行速度の差から海上風を見積もるやり方で風速が判り台風の予知などに寄与するかもしれないという.ただし,それが可能となるためには未だ,膨大なデータの蓄積が必要であろう.

 

2020年5月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海, その3

  出発に先立ち,コンパス等のない古代の航海術を学ぶ必要があった.それは今でもミクロネシアの一部の島々に伝わっている,陸・太陽・月・星・風・波・雲・鳥など,自然を読み取って針路を定める航海術(古代ナビゲーション術)で後期旧石器時代の航海者も同様のことをしていたと考えられるからである.与那国島を目指すうえで最も重要なことは東西南北を見失わないことであるが,具体的なことは省く.出発地は台湾から与那国島に直近の蘇澳(すおう,東へ約110キロメートル)ではなく,沖を流れる北向きの海流(黒潮)に流されることを考慮に入れ,はるか南の烏石鼻(うしび,北東へ206キロメートル)とした.出発日の決定も重要事項である.凪で,風が弱く,視界が良いという3条件が揃っていて,かつ両地点をカバーする200キロメートル四方ほどの広域わたって,2〜3日間この条件が続いていてくれないと舟を出せない.過去の気象データとこれまでの経験から,例年7月に訪れる,夏型の気圧配置が整った直後の台風さえなければ,海が落ち着き日照時間の長い2019年6月25日〜7月13日間を本番の挑戦期間とした.丸木舟スギメは5人乗りで,舟漕ぎのエキスパートやシーカヤックの職業的漕ぎ手のなかから男4人,女1人が決まった.
 実行に際しては4つの超えるべき壁があった.まず,黒潮を超えるための出発点の決定,これについては上に述べた.2番目は島を見つけることで,与那国島は50キロメートルまで近づかないと海上からは見えないので,それまでの目標の見えない150キロメートルをどうするか.ここに自然を読み取る古代ナビゲーション術を実践する.3番目は暑さ,疲れ,眠気と闘いつつ,2日間ほど漕ぎ続ける体力と精神力を如何に保つか,休まなければ身体が持たないが,しっかり休めば舟は流されてしまう.4番目は出発日の決定である.漕ぎ手チームは砂浜に張ったテントで寝泊まりし,現地の気候に身体を慣らすとともに,毎日海を眺め,出港のタイミングを計っていた.この年は梅雨が長引き,その後も夏至南風(かーちばい)が長引き,台湾の東海岸では風速10メートルを超える強い南風が吹き続けていた.この風の風向きが南西に変われば,台湾の巨大な陸塊がそれを遮って,北東側に無風地帯が現れる.これが与那国島西表島を覆ってくれればチャンスである.予報なども参考にし,キャプテンは7月7日を出航と決断した.漕ぎ手たちは,食料の準備や装備の最終点検.著者ら伴走船乗船スタッフは荷物をまとめて港へ,他の事務局スタッフは,丸木舟を送り出した後に撤収を完了して,空路で与那国島へ先回りした.その日,烏石鼻の浜辺は出航予定の正午頃,波が高かった.しかし,ここ数日間,昼の波のうねりは夕方には落ちるパターン,沖の白波も無くなっていた14時38分ついに出航した.伴走船はあくまでも万一の時の安全確保のためで,基本的には居ない存在なのであり,3万年まえの祖先たちと同じように針路は丸木舟自身が決める,針路を誤っても何も言わないルールだった.こうして,与那国島を目指す大航海が始まった.出航2時間後には,周囲の海はかなり落ち着きを取り戻し,北東からの風も風速3メートルで,水面上を波高0.5メートルほどのうねりが主に舟の右前方(南東方向)から繰り返しやってきて,そのたびにスギメは波間に隠れたり出たりした.5人の漕ぎ手の中,4人が漕ぎ,最後尾(女性)が舵を取る.舟が効率よく進むように4人は息を合わせ,1, 3番が右側を漕いでいるときは2, 4番が左側を漕ぎ,適度な間隔で左右を入れ替える,これの連続である.漕ぎ手はボートとは異なり,進行方向に向かって座っている.目指す与那国島は北東(左前方)にあるが,この先で出会う黒潮によって北に流されることを考慮し,東南東に向かって漕いだ.台湾の東岸には標高3000メートル級中央山脈(北北東から南南西に伸びている)が控えているので,これを背負う形で陸から離れていけば,それが東南東である.実際には丸木舟は直進性に乏しくどうしても蛇行してしまう.その具合を調整しながら進む,かじ取りの役目が非常に重要だった.出航後1時間20分経過した14時頃(烏石鼻から6.1キロメートル)のこと,丸木舟の航跡が変化し,水温が温かくなり,北に押し流され始めた.黒潮に入ったのだ.16時半になると,微風だった北東の風が強くなり,風速5メートルで吹きつけるようになった.風と潮がぶつかり合ってできる三角波が次第に大きくなり,白波が立ち始めた.北〜北東から1メートルほどの波が繰返し入ってくるようになり,恐れていたことだが,丸木船の周囲は荒れ模様になってきた.練習段階では,もう避難するタイミングであるが,本番では2回転覆した場合に中止することを約束していた.これまでの安全訓練で,丸木舟を転覆させ,起こして再び乗り込んだり,レスキューしたりを幾度となく練習してきた.夕方の荒れた海上で,スギメは転覆することなく進んだが,2番手と3番手の漕ぎ手が,ほぼ交互に漕ぐ手を止めては舟内の海水を排水した.航行距離が10.7キロメートルに達した16時40分以降の対地速度は時速7.5キロメートル前後,出発時の2倍近くになっていた.黒潮本流に入ったのだ.風に揺さぶられながら,スギメは不意に襲ってくる大波と懸命に戦った.特に北から迫ってくる波を左舷にまともに食らったら,一発で浸水してしまう.これを避けるため,かじ取りと4番手が,まず,危険な波を早く見つけ,それが来る前に,船首を北に回し,波に乗り上げかわした.その動作がおわるとすぐに,また船首を東に戻すのである.一方で前方の3人は,進路の操作を後部の2人に任せて全力で漕ぐことに集中した.緊張の時間が続き,舟は上下に揺れ,左右に振れたがそれでも計画通りにほぼ東に進んだ.この時点での方向を知る方法は間もなく山脈の向こうに沈もうとする太陽だった.17時30分頃,右後方に見えていた台湾の三仙岩が見えなくなり,19時45分日没を迎えたとき,風はやや弱まったものの止む気配を見せない.海上は時化たまま舟は夜の世界へ入っていった.西の空は未だぼんやり明るく,上空に上弦の月が出ていた.月が沈むまでの3時間ほどはそれが方角の頼りだった.20時半,天頂の雲の間にアルクトウルス,南西の空には一瞬木星が見えた.21時半頃北極星が,その後次々星が見えだし,空は賑やかに,風も弱まってきた.未だ,白波が残っており予断を許さないが,波は目に見えて穏やかになってきた.出航から8時間,時化始めてから6時間が経過,漕ぎ手たちはようやく休憩を入れるようになった.ただし,未だ黒潮の上にいるので漕ぎ進める手を止めるわけにはいかない.各自の判断で休憩はできるだけ短時間にし,一息入れたらまた漕ぎの戦列に復帰することを繰り返した.日付が変わった深夜1時過ぎ雲が空を覆って,星による方角が判らなくなった.それでもスギメは方向を誤らずに与那国島に向かって進んだ.アクシデントが起きたのは午前3時40分,スギメが真北に向かって進み始めた.方向を間違っても教えない約束だったので伴走船は黙って後を追った.スギメは不可解な北への航海を30分間続け,それから突然,本来の東への航路に変更した.あとで分かったことは,かじ取りが台北の街の明かりを見てしまい,それを夜明けの薄明かりと勘違い,そちらに舵向けてしまったのだ.4時10分,この間休息を取っていた2番手が起き上がって戦列に復帰したところ,進行方向の目の前にカシオペア座が見え,誤りに気づき針路を変更したのである.午前4時頃,ようやく雲が晴れ,全天に星空が広がった.日付の変わった5時40分になると東の空がわずかに明るくなり,じわじわとその明るさが広がり本当の夜明けがやってきた.大きな陸が見えた.しかし,それは与那国島があるべき北東(丸木舟の左前)ではなく,北西(左後ろ)で台湾の花蓮だと漕ぎ手たちは悟った.黒潮にかなり流されているのでもっと東に進まなければならない.午前7時頃にはついに黒潮を超えた.しかし,漕ぎ手たちはこのことを知らない.このまま,流れの弱まった海上を丸木舟が突き進めば与那国島を外して南方の海を迷走することになる.そんな中,漕ぎ手たちは交代で,一人ずつ10分程度休憩を繰り返していた.排泄は小は用意した容器に入れて海に放り,大は海に飛び込んで済ませた.食料は本来ならば古代人と同じようなものにしたかったが,今回は食べやすいものをということでおにぎりを主体に各自好みの甘味料等を用意した.水は2リットルのペットボトルを用意し,不足分は伴走船からの補給を受けた.丸木舟のスペースがないための止む負えない処置だった.結局,各人の飲み量は最大12リットル,最低6リットルだった.
 12時40分頃,突然舟は東から北東の与那国島に向かった.ところが30分後に北西(台湾の方向に)に向きを変えて.また,40分後には北東に,そのあと少し,南へ進んだ.舟が迷走を始めたのである.あとで分かったのであるが,この時5人は目的の島を探していたのである.順調に進めば出航24間後くらいで与那国島が見える圏内に入る予定だったから,迷走はそのためだったのである.しかし,“迷走”1時間半経過後,島影は見えないと判断し,当初の計画通り北東を目指した.この時太陽は西に傾きかけていた.もう24時間以上漕ぎ,体力も気力も限界に近かった.15時を過ぎたころ,全員で海に飛び込み,リフレッシュした.20時25分,最初の夜よりも厚い雲が立ち込め,一瞬だけ月が見えた.リーダーの決断で全員,休憩に入った.ひとりだけは起きて周囲を見張りあとは横になって眠った.2時間後には満天の星空になった.この間舟は幸運にもじわじわと与那国島に向かって流されていた.22時頃,スギメは与那国島まで50キロメートル,日中であれば島が見える圏内に入った.見張りが灯台の点滅する白い光を見た.しかし,多くの漕ぎ手は疲れており,そのまま眠ってしまった.8時間ほど休むことができた5時前,舟が動きだした.この時,与那国島までは28キロメートル,灯台の明かりはより鮮明になっていた.5時15分頃から太陽の気配がしはじめ,その10分後,上空に何本も長い尾を引く不思議な雲が見えた.その左右では普通の積雲が海上の低いところまで覆っていた.そこに島があるに違いない.6時45分,不思議な雲は消滅していたが,前方のモヤの奥を注視しているとうっすらと島影が見えてきた.20キロメートルを切った地点だった.「島は見えてからが遠い」.島の周囲には浅く入り組んだ海底地形の影響で複雑に変動する潮の流れが発生する.それらを注意深く乗り越えながら,ついに到着予定地,島の西端の久部良(くぶら)のナーマ浜に到着した.2019年7月9日11時48分だった.当初想定した30〜40時間を大幅に上回る出発後45時間10分の大航海がついに終わった.外国からの帰国であるから,直ちに上陸というわけにはいかず,待機してくれていた厚生労働省財務省法務省の職員にパスポートやらサインの入った書類を渡し,検疫と税関と入国審査を受け,上陸を許可された.こうして,準備期間も入れて6年間にも及ぶ大プロジェクトが無事終わった.
 この大プロジェクト成功の要因はなんだろか.まず,その目的が壮大でロマン,魅力があり,多くの人たちの賛同を得たことであろう.そしてPJリーダーの優れた企画能力,協力者を呼び込む説得力と度量,参加した漕ぎ手他多くの参加者の私心のない強い絆が原因であると思われる.
 3か月に渡って本文をお読みいただいた読者の皆さんもお疲れさまでした.

 

 

2020年4月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海, その2

 草束舟に失敗した後,次のターゲットを竹筏(いかだ)舟とした.竹は東南アジア,中国南部,台湾などに豊富に見られ,じっさい,台湾のアミ族の間では古くから竹筏が運搬や漁に使われていた.確証はないが,この竹筏舟で古代人も海を渡ったのではないかと考えたのである.アミ族の長老からその作り方をいろいろ教わった.竹筏の材料は麻竹(まちく)と呼ばれる太く長い竹でメンマの材料として我々も知らぬ間に食べている竹である.台湾の台東県旧石器時代の遺跡から何か大きなものを切断するのに使ったらしい薄い円盤状の石器が多数発掘されていた.これを模擬した石器を作り,竹が切れないか実験したところ,20分で切れることが判った.彼らが使っていたのは絨毯型の筏であるが,これでは舳(へさき)で波を切らずに受けてしまうのでスピードも出ず,海洋の長距離航海には無理と判断し,別のデザインの舟をつくることにした.3万年前の竹筏舟など想像できないので,“最良の竹素材で最良のデザインの筏を作ったら,黒潮を乗り越えられるか”を試すことにした.作り方の詳細は省くが,出来上がった舟は全長10.5メートル(イラ1号,5人乗り),使った麻竹は11本,先端は火であぶって曲げられている.竹同志は籐(とう)の皮で縛り上げた.台湾から与那国島へ行くためには間に横たわる黒潮(台湾沖で秒速1〜2メートル,幅は最大で100キロメートルにおよぶ)を横断しなければならない.竹筏舟でこの黒潮を乗り切れるかを確かめるため,テスト航海として台湾の大武から70キロメートル離れた緑島を目指すことにした.黒潮に突入してからの潮の流れは速く,秒速2.2メートルに達し,舟は北北東に流され,出港後約13時間30分で緑島沖十数キロで日没を迎えたためテスト航海を終えた.検討の結果,スピードがないと黒潮の中でコントロールができない,そのためにはもっと軽量化が課題ということになり,最終的には竹9本の竹筏舟(イラ2号)とし,舟形にも工夫を加えた.しかし,スピードが思うように出ず,航海中竹も割れ,浸水した.竹筏舟で黒潮を乗り越えるのは困難という結論になった.こうして,3万年の航海を再現するプロジェクトの中,二つのモデルが脱落し,残るは一つ,丸木舟となった.
新たな実験が始まった.まず,3万年前の道具(石器など)で巨木を切り倒し,丸木舟が作れることを確かめ,出来上がったこの舟の特性を確かめることが目標となった.丸木舟の遺物は縄文時代の遺跡から全国で160も見つかっており,その最古のものは約7500年前(縄文時代早期末)のもので,千葉県市川市で発掘された.縄文時代の丸木舟は,湖や河川のほとりに限らず,海辺でも発見されており,様々な水環境で利用されていた.縄文人八丈島に到達し,九州から沖縄へ土器を運んだことも判っているが,丸木舟はそれらに使われた可能性が高い.中国,朝鮮半島,ヨーロッパなどで発見されている1万〜7000年前頃の世界最古級の舟はどれも丸木舟なのである.これらから類推して,3万年前の航海にも丸木舟が使われた可能性が高いと判断したのである.
 それでは丸木舟の素材となった巨木を石器で切り倒せるのか.38000年前にさかのぼる後期旧石器時代は主に打製石器が主流であるが,例外的に刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)と呼ばれる石の斧が見つかっている.縄文時代磨製石器のように全面を磨いてあるわけではないが,刃先の部分だけが磨いてある.硬質で比重の大きな石材を調達するため,旧石器人は数十キロメートル先まで採取に出かけた.例えば野尻湖周辺で活躍していた旧石器人は約60キロメートル離れた白馬村の姫川まで透閃石岩という石を拾いに出かけた.これを割って形を整えたのち,砂岩を砥石として刃先部分を磨き,木製の柄に装着したと推定される.台湾から日本に航海するのであるから,素材の巨木は台湾で入手するのが望ましいが,直径1メートル以上の巨木は日本の統治時代に伐採してしまっており,原生林も保護のため入手できないことが判った.そこで日本産の素材として,多くの候補材料の中から能登地方の直径1メートルの杉を選び,石斧で伐採可能かの実験を行った.石斧の石材は実際,旧石器人が使ったとされる糸魚川産の蛇紋岩を用い,石斧を作製,柄はサカキ製でイヌビワの添え木を使って麻縄で縛って固定した.この斧を杉の木に打ち込むと刃部磨製石斧が杉の木肌に食い込んでいく.切るというより,小さな薄片を連続的に削り落とし,結果として大きく開いた切れ目を作っていく感じだ.6日目についに巨木は倒れた.これを1年間自然乾燥後,くり抜く工程に入った.舟の長さは縄文丸木舟を超えないという条件で7.5メートルとなった.誰も経験のない,石器による丸木舟の制作,研究者・作り手・使い手(漕ぎ手)が意見をぶっつけ合いながら,形を整えていった.丸木舟表面を滑らかにするために縄文舟で例のあることから火であぶった.時々海に浮かべては安定性,復元力等を確かめながら,細部を調整していった.漕ぎ手が舟になれるための合宿も行われ,舟名はスギメと名付けられた.館山沖での試走では黒潮分流(幅13キロメートル)を横断できることが判った.その流速は1.0〜1.7メートルと台湾〜与那国島間の黒潮本流と同等であった.ただし,その幅は7倍以上と大きな壁があるもののプロジェクトの可能性が見いだせた.さらにいくつかの改良がくわえられ,漕ぎ手も舟に馴れる練習を重ねた.こうして舟の準備が完了,実験航海に備えるだけとなった.
 目指す与那国島から台湾はよく見える.しかし,台湾から与那国島は平地からは見えない.地球が丸いためである.標高1200メートルほどのポイントからは140キロメートル離れた与那国島は見えるはずだが,容易には見えなかった.3日間ほど粘った晴れた夕方,ようやく標高231メートルの与那国島が見えた.
遭難し,漂流中ならともかく,見えない島に向かって当てもなく航海はできない.しかし,高地から与那国島を見ていた旧石器人は自信をもって台湾から出航したのであろう.
以下次号

2020年3月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海

 最近,上記書籍を読み,久しぶりに夢中になり,興奮した.内容は,約3万8千年前の後期旧石器時代にどのようにして人類(我々の祖先)が日本にやってきたかを実証しようとする海部陽介氏(国立科学博物館)の長年にわたる研究の最新結果を述べたものである.
 我々現人類,“ホモ・サピエンス(新人)”はアフリカで30万〜50万年出現し,その後,世界に拡散したと言われている.この間,世界各地にいたジャワ原人,ルソン原人,ネアンデルタール人など多様な原人や旧人が次々いなくなり,地球上の人類は我々,現人類のみとなった.原人や旧人はアフリカとユーラシア大陸の中〜低緯度地域に分布していたが,ホモサピエンスはそれを大幅に超えて,寒冷地や海洋島にも進出し,やがて全世界に暮らすようになった.その過程はそれぞれ壮大な物語であるが,ここでは省き,わが国のことである.人類は大陸で生まれたが,ある時何故か海を渡り始める.その最古の段階の5万〜3万年前にさかのぼる証拠が,インドネシアから日本列島に集中していることがわかってきた.かって,日本列島に30万年前の前期旧石器時代人が住んでいたと言われたことがあったが,これは石器類の捏造であったことが判明している.日本列島にホモ・サピエンスが現れたのは3万8千年前頃で,土器を伴わない後期旧石器時代とよばれる時代のことである.日本列島各地から報告されたこの後期旧石器時代の遺跡数は1万150もあり,さらに興味深いことにその年代はすべて3万8千年前以降に集中しているという.このころを境に誰かが日本列島にやってきたのである.年代決定は石器類の最新の各種物理的測定法により確かであろう.そのルートは北方,中国大陸,台湾(琉球列島経由)方面からと言われている.当時は氷河期で海面が低下し,大陸と繋がっていたから徒歩でやってきたと言われたこともあったが,最近の地質学的研究によれば,大陸等とはつながっていなかったという.当時の海面は現在より,約80メートル低かったが,津軽海峡は最も浅いところでも140メートルで海 (北海道で見つかるケナガマンモスの化石は本州では見つかっていない),朝鮮・対馬海峡の水深は140メートルほどで当時も海峡だった.琉球列島の海峡の大部分は水深が200メートルと深い.陸橋がなかったことを示すわかりやすい証拠は動物である.九州にも台湾にもいるサル,シカ,クマなどが沖縄の島々にはいない.また,島には本島にいないヤンバルクイナイリオモテヤマネコなど島に固有の動物ばかりであり,長期間これらの島々は孤立していたのである.それではホモ・サピエンスは日本列島にどうやってきたか.“舟”である.しかし,舟の遺物は石器類と異なり残っていないが一つの証拠がある.本州各地で見つかる石英製の石器の原石は本州から50キロメートル離れた神津島産で,旧石器時代人は頻繁に本土と島間を行き来していたと考えられている.一方,琉球列島の石垣島からは旧石器人骨が大量に発掘されている.そこで,著者らは沖縄ルートの入口として台湾から最も近い与那国島(この間140キロメートル,お互い肉眼でかすかに見える)を目指す航路を選び,この旧石器時代人が台湾から船で渡ってきたことを実証しようとする壮大なプロジェクトを企画した.2013年から3年間の準備期間を経て,2016年4月に国立博物館の主催事業として正式に発足した.実験資金は1億円以上,これがすべて民間から,クラウドファウンデイング,企業と個人の寄付,台湾の博物館からの寄付で賄われた.科研費などの国の予算でなく,民間の寄付金というところが感動的である.ここ数年間の安倍首相とそれを取り巻く人々の言動には怒りを通り越し,悲しみさえ覚えるが,成功するか否かもわからないプロジェクトにロマンを感じ,多くの人たちが賛同した上記の行為に,未だ,未だ我が国は希望があると思えてくるのである.
 3万年前,どのような舟で渡ったのか.遺物は残っていない.航海再現のためにこれを推定するのが最大の課題だった.検討の結果,1) 技術的に縄文時代の丸木舟を超えない(遺物がある),2) 海で使われた例がある,3) 地元に適当な材料があって過去に作られた何かしらの痕跡があるという基準を満たす舟として,多くの候補の中から,草束舟,竹筏舟,丸木船のどれかだろうと推定した.そして実際にこれらの舟を,4) 3万年前の道具で作れること,5) 琉球の海で機能することを確かめ,合格した舟が3万年前の航海舟の最終候補として残り,その舟で台湾から与那国島を目指す実験航海に挑戦したのである.
 まず,草束舟である.材料は与那国島に自生する,丈2メートルほどのガマ科のヒメガマである.これを大量に刈り取り(旧石器や貝殻で草を刈り取れることを確認後鉄鎌使用) 乾燥後,ツル科のトウツルモドキ(長さ10メートルものツル)で縛って草束(直径30センチメートル)とし,これを100個以上束ねて草舟を作った.6メートル級のヒメガマ舟で5人乗せるに十分な浮力が得られた.より大きな7人乗りの舟で与那国島から西表島(この間75キロメートル)を目指してのテスト航海を実施した.3万年前にはない方位磁石,腕時計,GPSは持たず,目標の西表島が見えないときは風やうねりや星から進路を探る古代航法で挑む.推進具の櫂は縄文時代のものを参考にした.著者は伴走の動力船に乗船,いよいよという危険な場面以外は口出しをしない約束,漕ぎ手はいずれもシーカヤック等の経験のあるベテラン(女性も1人乗船)だったが,残念ながら,出発地から26キロメートル,出発後8時間で海流に流され,これ以上無理と判断し走行を断念した.
(以下次号)

 

2020年2月 早春

2020年2月 早春

  どこからか聞こえ来る歌早春賦  祐一
 2月は私のもっとも好きな月である.もう異変ではなく暖冬が常になったとはいえ,未だ,朝晩の寒さは厳しい.しかし,おかげで夏とは異なり,足腰はしゃんとし爽快である.生まれ育った越後の2月はどんよりと曇った日々が続き,時々吹雪いた.それでも正月頃に比べて日足が伸び,たまに晴れた日には長く伸び切った氷柱の先端から水玉が落ちて,トタン屋根の雪のない部分で音を立てていた.今では想像もつかないが,60〜70年前は,雪が未だ1メートル以上,時には2メートルもあった.早く春が来いと希ったものである.雪がようやく解けた3月,と言っても固く踏み固められた雪道を近所の人総出で人力で地面を掘りだしたのであるが,夕方下駄を履いて,風呂屋に行けるようになったのがどんなにうれしかったことか.カタカタと音を立てて小走りに歩いたものである.18歳の時,仙台へ,ここで12年近く過ごしたが,やはり冬は雪こそ少なかったものの寒かった.このように30歳近くまでの冬の記憶がしっかりと脳に染みついたためか,春の予兆を感じさせる2月が好きになったのであろう.
 記憶と言えば,最近面白いTVを見た.ノンアルコールビールやノンアルコールワインを飲んでも気分が高揚するという内容だった.グラフの縦軸に気分の高揚度合い(正確な表現は忘れた),横軸に時間を取り曲線を描くと本物のビールを飲んだ場合とほぼ同じ挙動を示すという内容だった.原因は正確にはわからないが,アルコールを飲んだ際の記憶が脳にとどまっていて,それがノンアルコールビールを飲んだとき呼び起こされるのであろうということであった.私にも経験がある.2年ほど前,初期の胃癌の手術後数か月間,アルコールを禁じられた.この間に同期会だったか,忘年会だったか,アルコールを飲む機会があって,やむ負えず(というわけでもないが)ノンアルコールビールを飲んだ.製造技術の進歩のおかげで,わいわいやっているうちに本物のビールの味との区別が付かなくなり良い気分になったことがある.そこで,疑問がわいた.ノンアルコールビールを飲んで良い気分になってから車を運転したらどうなるのだろう.やはり運転技術,判断力が鈍るのだろうか.もし,そうなら事故を起こす可能性がある.このような分野の研究はどうなっているのだろうか.
 今,厚木の庭に咲いているのは白い水仙,椿,福寿草である.椿は薄いピンク色で花弁の一部に若干濃い紅色の筋が入っている.“越の麗人”という名前で,もう40年以上も前に園芸店から購入したものである.背丈3 メートル近い大木になってしまった.挿し木で増やした分身が椿の好きだった郷里のK君の庭にもある.また,2本の梅の木がそれぞれほんの数輪咲いている.あまりにも枝が伸びすぎて大木になったので,昨年暮れ思い切って剪定したためである.枯れなければよいがと少し心配している.幹に取り付けている巣箱が露になった.シジュウカラが今年も来てくれると良いが.水仙フリージア,アイリスなどの芽が力強く伸び始めている.どんどん春が近づいている.2月はこのような春の予兆なのである.

 

 

 

2020年1月 豊田佐吉の夢:電動飛行機

2020年1月 豊田佐吉の夢:電動飛行機

トヨタ自動車の祖,豊田佐吉は1925年,世界一周可能な飛行機用電池として「100馬力(英国馬力HPなら74.6 kW)で36時間連続運転可能で,かつ重量60貫(225 kg), 容積10立法尺(278 ℓ)を超えないもので,工業的に実施できるもの」という条件で革新的な電池の発明に100万円懸賞金を出すと発表した.今の20~30億円に相当するとされる1). 95年も前のことである.100馬力,36時間は2685.6 kWhで,エネルギー密度は12 kWh/kg相当となる.現在,NEDOで進行中の「革新型蓄電池先端科学基礎研究事業」(RISING 2)では,2030年に車載用蓄電池として500 Wh/kgの革新型蓄電池に見通しをつけることを目指している.実に豊田佐吉の設定した目標はこの24倍である.結局,これほどの画期的な電池はすぐにはできそうにもないということで,バッテリー発明奨励として50万円を発明協会に寄付し,発明協会の中にその評価をする研究室を設立したそうである2).佐吉の目標は未到達であるが,現在,ドローンの発展が目覚ましく,地形撮影その他の学術調査になくてはならないものになっている.間もなく,物流過程にも取り入れられようし,1~2人乗りのヘリコプターも登場するであろう.以上のような文章を2年ほど前,ある雑誌に執筆していた3),少し旧聞になるが,“電動航空機日本に期待”と題する新聞記事が大きく掲載された.米ボーイング社と経済産業省が去る1月,環境負荷が少なく静かな電動航空機の開発に向けた技術協力に合意したという内容であった4).最近は“空飛ぶ車”と言われているようで,国内外で活発な開発競争が行われている5).
少し話がそれる.私が以前から気になっているのは航空機からの排ガスである.ジェット旅客機に搭載する燃料の重量は大型機の場合,総重量の約40 %とか.たとえば、ジャンボ機(ボーイング747-400)の最大離陸重量は約400t( 本体重量:約180t,これに燃料と乗客・貨物・乗員重量が加わる) で,このうち約170tが燃料という(最大23万ℓ 搭載でき,これは200 ℓ 容量のドラム缶1,000本以上に相当)6 ).年間,何十万機ものジェット機が世界中を飛び回っていようが,それらから排出される排気ガス量は莫大であろう.大気圏の排ガスによる汚染を少しでも減らすために,佐吉の夢はかなわないものの,航空機のハイブリッド化は原理的に可能で,かつ利点はあるのだろうか.一度専門家に伺ってみたいものである.船舶のハイブリッド化もしかりである.環境汚染問題に敏感な人たちの間では例えば,ヨーロッパからアメリカに旅行する際に航空機は使わず船で移動することが行われているようである.
 
引用文献
1) 朝日新聞,2017年12月6日朝刊.
2) http://www.cordia.jp/2012/06/14/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89%E7%BF%81%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%9E%8B%E9%9B%BB%E6%B1%A0%E6%87%B8%E8%B3%9E/
3) 佐藤 祐一,「近未来電池の展望(上)」金属,275 (4),88 (2018).
4) 朝日新聞,2018年8月19日,朝刊.
5) 日本経済新聞,2020年1月1日,朝刊.
6) http://skyshipz.com/wings/d020.html