026年6月 厚木の家

 大気汚染がすごかった川崎に住んでいたころ、まだ小さかった長男は風邪をひくとなかなか咳が止まらなかった。医師にこのままでは喘息になると言われ、勤務地から遠くなるが、思い切って空気がきれいと思われた厚木に土地を求め家を建てた。その家が今年で築50年になる。おかげで息子も娘も健康に育った。家の造作は遠い親戚にあたる郷里で建築業を営んでいた小、中学校の後輩のAさんに設計ともどもお願いした。設計図を見ながら、私もいろいろ注文した。限られた予算の中でAさんはさぞ苦心されたことであろう。大工さんも地元からやって来、建築予定の敷地内に小さな小屋を建てて寝泊まり、半年ほどかけて家が完成した。我々も時々、ここを訪れ、家が出来上がっていく様子を眺め完成を楽しみに待った。建て前の時には、郷里から両親もやって来、餅撒きなどもした。父がお祝いにと庭師をいれ、庭を作ってくれた。縁側近くに息子が池を作ると穴を掘ったが、これでは柱が湿気で腐ってしまうと大工さんいわれ、一ヵ月近くかかって掘った穴を埋め戻しさせた。代わりに建屋から離れたところに池も作った。家は寄棟の2階建て、雪国風の造りで柱は太く、屋根瓦も石川県の産地から求めた。大工さんが家はともかく瓦は城と同じく300年は持ちますねと笑っていた。おかげで2011年の東北大地震を初め、いくつかの地震に遭遇したがびくともしない。我が家の周りに同じころ次々と家が建ったが、ほとんどの家は壊され立て替えられている。ただ、2年ほど前の厚木地方を襲った地震で屋根瓦落ちたが、この時は近所の家々では冷蔵庫が移動し、書棚、食器棚等が倒れたとか。しかし、思い入れのあるこの家に住んだのは10数年、子供たちも大きくなり家を離れたころ、通勤先まであまりにも時間がかかり、朝家を出る時も倦怠感が抜けず困ったので、今の横浜にマンションを求めた。引っ越しは忘れもしない神戸淡路大地震の翌日だった。32年前のことである。厚木の家にはほとんど毎週のように土、日にかけて訪れた。庭の草取り、樹木、花卉の手入れのために。横浜と厚木間は約37km、朝早く車の少ない時で45分位、通常は1時間半はかかった。しかし、老齢化のため、昨年86歳の誕生日に思い切って車の運転免許証を変換した。この30年の間に何百回往復したことか。車運転を止めてからは相鉄線、小田急線、バスを利用して通っている。2時間から2時間半かかるので、つい行くのが億劫になり、この1年は月に1-2回になった。いつまで続くことやら。先週は梅を収穫し、徒長子を切ってきた。採れた梅は3 kgほど、氷砂糖と一緒にガラス容器に入れ梅ジュースを作製中で

ある。

2026年5月 バラ園

 さる連休の最終日、何年ぶりかで妻と港の見える丘公園のバラ園に行った。

数年前の前回は山下公園入口バス停でおりてから、急な石の階段を休み休み上って入った。残念ながら、もう妻にはそれは無理、今回は地下鉄で桜木町まで行き、そこから“赤いくつ”バスに乗り、港の見える丘公園まで行った。このバスには敬老パスは効かなくて、240円を支払う必要がある。その代わり、ハンマーヘッド、赤れんが倉庫、横浜中華街、元町等市内の観光名所を巡って目的地まで連れて行ってくれる。そのため、各停留所で観光客の乗り降りが頻繁でバスは混みあっていた。バラ園はちょうどバラが満開、散りかけたもの、これから咲こうとする蕾等で見事だった。多くの人々でにぎわっていた。ここはプロの園芸師が手入れをしているため、どのバラの樹も肌色がよく力強い。気に入った色のは花をカメラに収めてきた。帰りは同じバスに乗り桜木町へ、駅前の居酒屋により、ビールを飲んでから帰宅した。話は前後するが、バス乗り場へ行く途中の駅前広場で、妻が名古屋鉄道の定期券(電子カード)を拾った。3月から9月までのもので額面も10数万円と記載されていた。落とし主は大損害である。交番が近くになかったので翌朝、伊勢崎警察署に届けた。

バラの栽培は難しい。虫が付きやすく、病気になりやすい。肥料もたくさん必要で適切な時期に与えないと樹が成長しない。また、適切でないと花付も悪く、色もさえない。厚木の家にも5本のバラがあるが、玄関わきにある2本の蔓バラ以外期待したように沢山の蕾が付かない。根本から沢山のシュート(新芽)が出ることが望ましいのであるが、我が家のはこれがほとんどなく、主木一本のみでこれが老齢化し、ひょろ長く伸びるのみで、これでは花付が悪いわけだ。若樹のころ剪定を誤り主木のみ伸ばし過ぎたのが原因である。1年前これの気づき、思い切って幹の剪定を始めたが、樹形整い、沢山花を付けるようになるまで2-3年要するだろう。私自身の寿命との競争である。

近くに住む娘の家の庭のバラは見事である。先日,訊ねたおり見てきたが、

白、ピンク、薄紫色の蔓バラや立ち木のバラがとりどり咲いていた。

2026年4月 相性

 永年使用している血圧計は単4型乾電池4個で作動する。先日、起動させようとしたら途中で数字が消え動かなくなった。電池を新品と取り替えようとしたがあいにく買い置きのアルカリ乾電池は2個しかなかったが、他に韓国製の単4型乾電池が2個あった。孫娘が卒業旅行で韓国に行った際、むこうで買った残りをくれたのである。

   電池を複数使うときは同じメーカーの新品を同時に入れ替えるのが望ましく、同じメーカーでも例えば4個の中、1個だけ未だ使える使用途中の物を組み込むと一応機器は作動するが危険である。その1個だけ早く容量がなくなるため、他の3個の電池のために強制的に過放電させられ、電池内の電解液の電気分解が始まり、ガス発生により漏液の原因となるからである。

   電池には種類ごとに国際規格規格でサイズ、電圧等が決められており、これに準拠したものなら互換性があって一応使用できることになっている。

前置きが長くなったが、背に腹は代えられない、話を戻し、日本製2個、韓国製2個、4個の電池をケースに詰めスイッチを入れた。血圧計は動き始めたが、途中で止まってしまい、血圧の値を示さない。韓国製電池がアルカリ乾電池か、マンガン電池か確かめようとしたがハングル文字のために読めない。携帯電話で写真を撮り、直ちにAIで翻訳して確かめればよかったのであるが、その時はそこまで気が回らなかった。仕方がないので、改めて電池4個を購入して血圧計にセットしスイッチを入れたら、いつものように動き出した。血圧計は壊れていなかったので一安心した。

   アルカリ乾電池とマンガン乾電池はともに1.5V、これは反応物質が亜鉛と二酸化マンガンで共通であるからである。ただし、電解液が異なり、前者は濃厚苛性カリ溶液、後者は塩化亜鉛溶液である。アルカリ乾電池の方が大電流放電機器向きで放電容量も大きいが値段が高い。マンガン乾電池はそれほど大電流が必要でない柱時計や懐中電灯等の用途に適している。冒頭の日韓合同電池で血圧計が動かなかったのは、韓国製のほうがマンガン乾電池だったためであろう。後者の方が電気抵抗が高い。電圧は同じなのに全体として抵抗が高くなりIR降下が大きくなり作動電圧が低下したのであろう。相性が悪かった。もう少し詳しく理由を調べたいところであるが家には精密な電流・電圧計がないのであきらめた。

2026年3月 老いの兆し

 会社勤務時代の35歳頃の話である。ある時、上司と出張した。目的地に向かって2人で歩いていると上司が「おや、上り坂になったな」と言われた。上司は私より9歳年上だったから、44歳頃である。私にはピンとこなかったが、あとで自分もその年頃になったときよく解った。若い時には感じないが、体力が衰えてくると、少しの登り勾配の傾斜した道も敏感に負荷となって感じるのである。車と同じで、アクセルを踏まなければすぐスピード落ちる。坂道を登るには平地より余計なエネルギーが必要で、それが足裏に敏感に感じられるのである。 

 別の話、学生の頃、卒業研究指導の先生が我々の研究レポートを添削されるとき、ページをめくる際よく左手の指先をなめられた。指先が紙面を滑ってうまくめくれないのである。感じが悪いなと思っていた。当時先生は40数歳だった。油の分泌が衰えるのか指先が乾くためで、紙面を指が滑らないようにするためには少し湿気が必要である。今なら、携帯電話の受信の際、液晶画面にタッチしても速やかに応答できないのもこの類か。指が乾いており、電気の導通が困難なためなのである。私は携帯電話が嫌いである。いつも応答に手間取り、切れてしまう。これ等はいずれもその初期の頃に現れる現象で老いの兆しだったんだなと今になって思い知る。人はだれも年を取るが、何か今までにない体験をするのは本人にとっては初体験で少し新鮮である。人によって現れる年齢は若干異なろう。その他思いつくままにそんな現象を列挙してみよう。

難聴が始まる。TVの音が大きくなり、高音が聞こえなくなり、小鳥のさえずりが聞こえなくなる。絶えず蚊の羽音や蝉のような鳴き声がする。いわゆる耳鳴りである。不思議なことにそれになれると気にならなくなる。音が止むのか、難聴になり聞こえなくなるのかはわからない。視力も衰える。40代から老眼鏡を掛ける人も多い。子供の頃、未だ40代後半から50代前半だった母からよく針に糸を通すことを頼まれた。髪の毛が薄くなり、白髪が混じり始める。血圧が高くなる。歩くのが遅くなる。ジャンプ力が衰える等数え上げればきりがない。これらとうまく付き合いながら、40代後半から、あと40-50年生きていくのである。さらに年を重ねるにつれ、各種の癌、腰痛、膝痛等数え上げればきりがないほどの病気に遭遇する。これらを何とか切り抜けて、今86歳の自分は幸運であった。最近、医師から初期の間質性肺炎と告げられた。決定的な治療薬のない難病である。いずれ酸素ボンベを背負うことになるのか。

2026年2月 あかぎれ

   2月11日現在、右手人差し指、および中指の爪との間、左右足の踵(かかと)の4ヶ所にあかぎれがあり、赤い小さな割れ目が見える。それぞれ、物に触れると痛いのでバンドエイドを貼って痛みを和らげている。ワープロも右手は人差し指でキイを叩くと痛いので中指を使っている。気温の高い日が数日続くと直るが、低くなればまた現れる。今年は晴天の乾燥した日が何十日も続き、また、数日前に降った雪のせいで例年になく長期間あかぎれに悩まされている。2-3年前から、妻に変わって台所仕事をするようになってからのあかぎれはつらい。いよいよひどい時はゴム手袋をして茶碗など洗うが、よく茶碗を滑らせ落とす。思うように手先が動かないのでじれったくなり、つい、素手で水洗いなどしてしまう。夜寝る前にはハンドクリームを塗るのであるが、気温が低いといかんともしがたい。直らないのである。毎年、11月末から12月初めにかけ、踵がちくりと痛いなと感じる時そこには小さな赤い割れ目が見つかる。「ああ、今年も冬が来たな」と思う。

もう80年も前の子供の頃、毎年11月末になると、両手の甲が赤く膨れ上がり、しもやけが始まった。治療として効いたのかどうかは定かでないが、洗面器に杉の葉っぱと水を入れ、温めたお湯の中に両手を浸した。これは気持ちが良かった。夕方、こたつなどに入って暖かくなるとむずがゆくなる。痒いのでつい我慢ができず、そこを掻くと皮膚が破れた。雪がけといったかと思う。軟膏を塗り、包帯を巻いてもらった。一方、踵や手の指の関節部のあかぎれはその割れ目に母が薬を縫ってくれた。名前は忘れてしまったが、竹の皮に包んだ黒いピッチの塊をマッチの炎で炙り溶かした黒い粘っこい液体をひびの割れ目に垂らしてくれた。この薬が切れたときは、代わりにご飯粒をつぶし、あかぎれの割れ目に入れてくれた。春になり、しもやけのぐじぐじしたところが乾いてかさぶたとなり、包帯が取れると指が自由に動くようになる。どんなにうれしかったことが。このようなことは今の子供たちには経験がないのではないか。当時の貧しかった食料生活、栄養状態が大きく影響していたのでないかと思われる。いまも私の右手の甲にはその跡がケロイド状に残っている。

2026年1月 楽しみ、喜びを見出す

 長生きをした人生の達人たちによって書き残された文章には、日々の生活にどんな小さなことでもいいから楽しみや喜びをみいだすことが大切だと説かれたものが多い。その通りだと思い、自分も心掛けているのだが、なかなか先人のようにはいかない。それでも、今朝は布団の中でよい句が作れた。床から起き上がるとき、背伸びをしたのちでんぐりがえりが一発で起きられたときは今日は調子がいい、縁起が良いぞと思う。前は一発で起き上がれたが、最近は弾みをつけて2-3回繰り返さなければ起き上がれないことが多くなっている。若いころは弾みなど付けなくても仰臥した状態から起き上がれたが、腹筋力が衰えたのである。歯を磨くとき、今朝は無くなった歯磨きチューブの補給に昨日買ってきた新しいのを封を切る日だ。公園のごみ拾いの際、一円硬貨を拾った。ラジオ体操の際、ちょっと美人のおばさんと話が弾んだ。週、2-3回の買い物で今日はいつもより少し安く、新鮮な魚が入手できた。道で美人とすれ違った。電車の中で1-2歳の赤ちゃんと目がったとき、その赤ちゃんがにっこり微笑んだ。TV番組を見たら、今日は往年の名画があるぞ、好きなサスペンスドラマがあるぞ等々。

 今、一番の関心事は俳句である。昨秋、朝日新聞俳壇で大串章選で筆頭句に取り上げられた。これは今までで一番嬉しかった。多くの俳句仲間からおめでとうと言われた。今年の目標は朝日、及び読売俳壇に数句、入選することである。毎週、新聞の俳壇に投句している。この発表が土曜日、日曜日、月曜日の朝刊である。今日こそは、今日こそはと新聞を開くが没が続く。そしてすぐそのことは忘れ、次回に期待をかけるのである。一年後には米寿を迎える。これを目標に俳句集を出版したいと考えている。今、復本一郎先生(神奈川大学名誉教授、『正岡子規伝』岩波書店他)主宰の俳句集団『阿』の会と同じく先生が講師の神奈川大学の俳句講座で催される句会で師選に選ばれた句や新聞、雑誌その他で入選した句が130句くらいある。これに復本先生選の次点句を入れて句集にならないか。この一年、入選句の数を少しでも増やしたいと考えている。

2025年12月 キョウヨウガアル

 この言葉は長生きの秘訣として一部の人々に知られているようである。「教養がある」ではなく、「今日、用がある」というのである。定年退職してからは特に用があるわけではなく、家でボケっとしているとみるみる足腰が衰え、老化が進む。他方、毎日何かをやる予定があると生活に張り合いができ、結果として長生きできるということであろうか。趣味、運動、ボランテイアー等々打ち込むものがあればよいのである。友人たちとの付き合いも大切である。

今のところ、私はお陰さまで毎日何かしら用がある。78歳のころから始めた俳句のために月2回、神奈川大学で行われている俳句講座への出席、そこでは復本一郎先生の講義と句会が行われている。同じく復本先生主宰の『阿』の会の会員として、月一度の句会への出席と同会の事務局長としてのお手伝い、二つの句会に提出する、それぞれ3句の作句、毎週投稿している新聞の俳壇への投句等であっというまに日々が過ぎていく。毎月更新している、ホームページのこの文章、来月は何を書こうかといつも意識している。

 厚木の家へはこれまで毎週通っていたが、車の運転免許証を返納してからは隔週になってしまった。車では1時間半だったが、相鉄線小田急線、バス利用で厚木の家まで2時間かかるようになった。窓を開け部屋に風を入れたり、草取り、庭木の剪定、ささやかな野菜の栽培と手入れ、玄関前の道路の掃除、鯉への餌やり等、やることは多い。

 また、残念ながら、足が弱り長距離歩けなくなり、また料理等もおっくうになった妻の替りに、日々の食事の用意、そのための週、2-3回の食料の買い出し、部屋掃除、定期的なゴミ出し等々、家事は忙しい。買い物は主に家から500 mほどのところにある横浜橋商店街、ここでほとんどのものはそろう。昨今、急に食料品の値段が高くなった。同じような商品でも店によって値段が異なる。値や鮮度などを比較しながら購入している。現役時代は妻に任せきりだった。料理のメニュウーも常に頭のどこかで考えている。冷蔵庫に残っている野菜や魚、肉、冷凍食品、砂糖、塩、油その他食品のことを思い出しながら無くなった品や残り少なくなった品を補給しなければならない。頭が休まることはないのである。

 部屋、洗面所、トイレの掃除、切れたトイレの電球の取り換え、血圧計や懐中電灯の電池の補給、トイレットペーパー、テイッシュの補給、そして洗濯等々、家を快適に維持するのは大変である。今のところまだ、自分でできるからよいが、いずれ困難になろう。その時はどうするか、ケセラ・セラである。今から心配していても仕方がない。そんなこんなで最近は散歩がなかなかできなくなった。それまで毎日1万歩歩いていたのに。

 もう一つの長生きの秘訣はこれも先人たちが唱えていることであるが、日々の生活の中に意識して楽しみや慶びを作り、見出すことである。これについては次回で私自身の具体的なことを述べたい。