2013年6月

20136月 エライシン
 
 小さいころ,事あるごとに母から「エライシンを起こすな,エライシンを起こすな」と注意された.私はその意味を“偉い心(シン)”,つまり少しくらい学校の成績が良くても自分は偉いんだと思うな,いばるな,天狗になるな,いつも謙虚な心でいるようにと受け取っていた.しかし,この注意を受ける場面にたびたび遭遇するとどうも少し意味が違うのでないかと子供心に思ったが強いてその意味を母に問うこともしなかった.そしてある時,はっと気がついた.“エライシン”は“偉い心”ではなくて“依頼心”ではないかと.依頼心と取るとこれまで言われてきた場面を思い出すと合点が行った.人に頼るな,自分でできることは自分でやるように.敷衍すれば自己の確立ということか.成人して何年もたってから母にその意味を問いただしたら,「もう忘れた,忘れた」と逃げられてしまった.母は今,100歳でさすがに老人介護施設のお世話になっているが,元気である.父が亡くなってから15年以上もひとり暮らしだった.できるだけ他人や子供たちに迷惑をかけないようにとわが母ながら,独立心は旺盛だと思う.
昔から,我々,越後人は“い”と“え”の区別ができないといわれてきた.ちょうど江戸っ子が“ひ”と“し”の区別ができないように.たとえば,“し()の用心”といった具合に.妻の妹の嫁いだ先は浅草蔵前の江戸時代から続く神社で彼女の亡くなられた義父は江戸っ子であることが自慢だった.数回,あったことがあるが,江戸時代の人たちはこんな言葉づかいだったんだと感じたことだった.母は典型的な越後人で“い”と“え”を区別しないで使ってきたようだ.私も意味の上では区別していて発音でも区別して使ってきたたつもりであるが,他人が聞いたら“い”と“え”が区別なく不明瞭に聞こえていることだろう.高校時代の同期会でも「よく,お前,長岡を離れて50年以上もたつのに長岡弁が抜けないな」と言われる.この文の上のほうで,“いばるな”と書いたが,実は恥をさらすとはじめ,“えばるなと”と書いた.読み返し,どちらが正しかったかなと考えているうちにわからなくなり,辞書で確かめた次第である.テレビ,ラジオや国語教育のおかげで,今の新潟県の子供たちはちゃんと区別ができているのだろうと期待したい.
我々は子供のころから,みんな仲良くと和が尊ばれ,協調性が強く求められ,自己主張をする子は変わっている,浮いていると仲間外れにされる傾向があった.とくに私の育った田舎のほうでは.共同作業の多かった農業社会では協調性が大切な要件だった.戦後,高度成長期を支えたのはこの没個性的な組織としての力だった.GDP世界第二位までの成長期はこれでよかったが,今そのつけで没個性が裏目に出ているのである.“赤信号,みんなで渡れば怖くない”もその延長か.過日,サッカーの本田選手が対イラン戦で勝利した後の記者会見で発言した内容が良かった.「選手はまず自己を確立しなければならない,チームワークはそのあとでよい」.外国チームに籍を置き,個性の強い外国人選手を相手に日々,切磋琢磨し,活躍することは並大抵のことではあるまい.本田選手のまさに実感であると思った.