2023年8月 記憶

  「人生とは記憶であ る」とは大学時代の友人、K君の主張である。私も似たような考えであるが「人生とは思い出を作ることである」と思っている。思い出にも二種類あって、一つは無論自分自身の思い出であるが、もう一つは周囲の人たちがどのくらい、こちらのことを覚えていてくれるのだろうかという勝手な願い、思いである。願わくはなるべく良い思い出を周囲の人々に残したいものである。

 それはともかく、止めどもないままに先月に引き続いて、子供の頃の記憶をたどってみたい。

 1945年8月1日のことは前月述べた。8月15日にはもう、母の実家である脇野町字上岩井の家にいたが、その時、大人たちが騒いでいたような気がするがあとはほとんど覚えていない。翌年、脇野町小学校入学の時、紙ファイバー製のランドセルを買ってもらったが、雨に濡れてぐしゃぐしゃになり、一ヵ月もしないうちに使えなくなった。代わりに母が帯芯の白い帆布のような布で肩掛けカバンを縫ってくれた。これをずーと卒業まで使ったのではなかったか。わずか一ヵ月ほど通った脇野町小学校のことは、受け持ちの先生の名前もその他のことも全く覚えていない。米兵の乗った進駐軍ジープが上岩井村の細い道路を走りぬけて行った。女は外に出ないで隠れていようと立ち話していた女性たちのことだけは妙に覚えている。したがって、記憶がかなりはっきりしているのは5月に転校した片貝小学校(当時は三島郡片貝村)時代からである。まず、覚えている限りと後から教わった上岩井のことを描いてみたい。

 母シウの実家の元井家は上岩井の地主で村でも一目置かれていたようだ。母の祖父、十一郎(といちろう)は近隣の村と合併後の脇野町の初代村長を務めた。その兄の野本恭八郎は(財)大日本互尊社と長岡市に今も存在する互尊文庫を設立した。祖母マキの、生まれたばかりの私を抱いている写真が戦災を免れ残っている。面長のきれいな人だったが60歳代で胃癌でなくなった。元井の家は大きく玄関が三つもあった。封建時代の名残か、裏口のような小作の人たちが出入りする玄関、通りに面した玄関、通りから外れたところにあった構えの立派な、改まったお客が出入りする玄関、この玄関は普段は閉じられていたようだ。その他、畑に野菜などを採りに行く勝手口もあったような気がする。家の脇を幅2 m位の川が流れていた。大雨が降ると渦を巻いた。これとは別に家から見下ろせるところに小さな沼があった。鮒などが釣れた。ここに数か月間二家族、10人以上が生活したのである。ある時、近所の子供たちと山に遊びに行った。農家の子だった一人が白米のびっしり詰まった弁当を食べるのをうらやましく眺めていた記憶がある。

 片貝は父の生まれ故郷である。佐藤家はかなり古くからここに住み着いていたようで、旦那寺である願誓寺(新潟県長岡市深沢町)からは今年の母の七回忌の知らせとともに曾祖父の百五十回忌の知らせも届いた。曾祖父の頃まで代々三平と名乗っており、村での屋号は「三平さ」だった。今も帰省すると90代の老人から、そのように言われることがある。数年前にはさらにご先祖の三平の二百回忌の知らせが届いている。子供の頃、父からお前は9代目だとよく聞かされた。毎年、9月9日、10日に打ち上げられる四尺玉花火で有名な浅原神社の境内には大きな石製の手水鉢があり、その側面に安政3年(1856))と作製年のほかに6,7名の献上者の名前が彫り込んであり、その中の一人に何代か前の佐藤三平の名前も見られる。祖父の代まで、二之町で小間物店を営んでいた。後は少しばかりの田圃が小作に貸し出されており、年貢米が入ったようだ。小間物屋時代の商品の残り物か、息子のところに古い鋏が残っている。この鋏は父が長岡の空襲の際焼け跡から掘り出し、子供の頃私に譲ってくれた。長く愛用していたが息子が家を離れた時、彼に譲った。彼はこの鋏を岩手県大槌町の職場の研究所で使っていたが、それが2011年の東北大震災で津波にあった。彼は泥の中から掘り出したこの鋏を横浜にもって帰り「研ぎに出して」と頼んで岩手に戻った。近所の金物屋で研ぎを頼んだところ、金物屋の親父さんが「この鋏は種子島銃の技術を持った鉄砲鍛冶が作ったいいものだ。今はもう手に入らないから大切にしなさい」と教えてくれた。私が百年以上生きながらえたこの鋏の顛末を朝日新聞の「男のひといき」に投稿したところ、運よく採用された(2011年4月16日朝刊)。

 父は母タウ(私の祖母)を5歳の頃、父常吉(祖父)を11歳の頃無くしており、義母と祖父三平(私の曾祖父)に育てられた。経済的には比較的豊かだったのか、村で初めて三輪車に乗ったとか、その写真が残っている。未だ独身だった叔父たちも次々亡くなり、10台から次々喪主を務めたとか。身内の葬式が次々続き、経済的に立ち行かなくなった。ようやく三島郡が出していた奨学金を得て、長岡工業高校機械科を卒業することができた。奨学金資格獲得の試験のため深い雪の中、与板まで赴いたとか。20 kmくらいあるのではなかろうか。高校卒業とともに長岡駅前にあった越後製菓に就職、これを機に片貝の生家をたたんで長岡に居を移した。母と結婚し、子供二人を得て、ようやく生活が安定したころ、先月述べたように空襲にあい、ご破算になったのである。父にとっては20年ぶりくらいの帰省である。長岡と片貝は20 kmくらい、今でこそ車で30分位だが、当時はもっと遠く感じられたことであろう。生家は残っているが、もう他人の家である。大通りの二の町に亀屋さんと言ってやはり小間物屋だった。20年位前までその家は存続した。帰省しても行くところがない。どなたかの伝手で寺町の石上建具店さんの二階に間借りした。ここに1946年5月から12月頃までお世話になった。ここですぐ下の弟、和秀が生まれた。以下次号