2015年8月  私の1945年8月1日

20158月  私の194581
 
この日の夜,約1週間前6歳になったばかりで,来年小学校(当時の国民学校)入学を控えていた私は,米軍爆撃機B29による焼夷弾攻撃を避けるため新潟県長岡市内を流れる栖吉川(すよしがわ)の岸辺に伏せっていた.夏枯れで川の水は少なかった.頬に雨粒が当たったようなので,空を見上げたら煌々と満月(だったような記憶がある.当時の月齢を調べようと気になっているが未だ果たしていない)が照っていた.焼夷弾による爆撃の効果を揚げるため飛行機からガソリンが撒かれたという.私の家は長岡駅から数百メートルの学校町一丁目にあって.近くには長岡中学(現長岡高校),新潟高専(後の新潟大学工学部,その後新潟市に移転)があった.栖吉川は今も長岡高校のグランドに沿って流れている.あとで聞いた母の話によれば,以前から長岡空襲の噂はあって,避難のために貴重品を詰めたリュックサックを用意していた.いざという時は,父がこれを背負い,私の手を引き,母が当時3歳の妹を背負って逃げる約束になっていたとか.しかし,空襲警報のサイレンが鳴って,いざ避難する段になっても私は日中遊び呆けていた疲れか,いくら体を揺すってもぐっすり眠っていて起きないので,仕方なく父が帯紐で私を背負い逃げたそうな.まことに面目ない次第である.そのため,何が詰め込まれていたのか定かでないが,置き去りにされたリュックサックは焼けてしまった.庭には父が防空壕も掘っていたが,ここに入らず栖吉川に逃げたのは正解だった.防空豪に避難したために焼死した人は多い.長岡駅前にある長岡戦災資料館の資料によれば,死者:1,486人,焼失戸数:11,986戸,市内の約8割が焼け野原になったという.ちなみに罹災時の人口74,508(20157月時点の人口は277,554)で,市民の約2%が亡くなったことになる.この攻撃に参加したB29125機,投下爆撃量は9243トンという.
82日朝,自宅に戻ってみるとあたり一面焼け野原で未だ煙がくすぶっていた.母が翌日の朝食のためにと米を磨ぎ釜に入れ水を張っておいたが,釜の周りは黒焦げ,中心部に白いご飯が炊けていた.これをおにぎりにして味噌が焼けて焼き味噌になっていたのを付けて食べた記憶がある.庭を畑にして作っていたサヤインゲンなどが柔らかく煮えていた.
何故,県都新潟市が空襲を受けず,長岡市だったのか.真珠湾攻撃を計画,実行したにっくき山本五十六元帥の出身地,長岡をまずやっつけろということだったと子供のころ聞かされた記憶がある.上記の資料館の説明によれば,新潟は広島,長崎,京都,小倉とともに原子爆弾投下予定地に入っていて後回しにされ,人口が二番目に多く,石油が産出し交通の要所で,かつ兵器工場の多かった長岡になったとか.山本五十六1943ソロモン諸島上空で米軍機の攻撃を受け戦死した.その葬式が長岡市で行われた.遺体の入った御棺が何人かの人に支えられ,長岡市大手通りを粛々と行進するのを遠くから,たぶん父親に肩車され見たのを覚えている.
戦災後,父は焼け跡に掘立小屋を建て,しばらく焼け跡の整理をした.私たちは母の実家のある当時の新潟県三島郡脇野町字上岩井(なまって,かみわいというようだ. 長岡市脇野町) に移った.当時,母の家は空き家になっていたところに叔父(母の兄)一家が東京で焼け出され疎開していた.ここに田舎の家で比較的大きいとはいえ,二家族が住むのは大変だった.翌464月,私は脇野町小学校に入学したが,1か月ほど通っただけで,父の郷里の三島郡片貝村(小千谷市片貝町) に移住した.父は若いうちに片貝の自宅を処分し,長岡に移ったから片貝では借家暮らし,私の高校卒業までに狭い町内を4か所も引っ越しした.今では同級生の間での笑い話であるが,喧嘩するたびに“疎開っ子”と言われていじめられた.当時.父親や母親の出身地,あるいは親戚を頼って,同級生150-160人の中,疎開っ子が10人くらいいた.その後,世の中が安定するにつれ彼らはいなくなった.慣れない田舎の生活に良い思い出のある人は少ないのではないか.今も同級会開催などで連絡の取れる人は2, 3人である.
片貝町は江戸時代から花火が打ち上げられ,今は四尺玉花火で有名な花火気狂い(差別用語かもしれない)の町である.9月9日,10日の浅原神社の祭礼では大量の花火が打ち上げられる.母は仕掛け花火やスターマインを見ると空襲を思い出すからといやだと長年言い続けていた.実家の物置に“片貝戦災者厚生同盟会事務所” と父の字で書かれた木製の看板が残っている.どんな活動を行ったのだろうか.父の存命中に聞いておけばよかったが後の祭りである.102歳の母にはこの件に関してもう全く記憶がない.