六十年前の子供の四季  一月

私は新潟県小千谷市片貝町というその昔の片貝村に育った。当時は農村と言っていいのではなかろうか。むろん、商業や今では職人のまちとPRしているように工業に従事している人達もいた。例の中越地震の起こったところである。町は今から50数年前小千谷市に合併したが、今も人口5000人の独立区のような様相を呈している。文化圏としては江戸時代から小千谷、魚沼地区より長岡に近いように思われる。ここで過ごした今から60年ほど前の中学1年ころまでの子供たちの四季、春夏秋冬を多くの行事や特に男の子の遊びを通して当時の子供たちがどのように過ごしていたかを思い出しながら綴ってみたいと思う。
私は男3人、女1人の4人兄弟であるが、今から40年ほど前、皆家を離れ、郷里には両親だけになったとき、家族の意思疎通を図るべく、弟の発案で「雪国童子」と題する文集を発行した。それぞれの伴侶、子供達まで強制的に何かしら文章を書かされた。伴侶のなかには恐慌をきたした向きもあったようである。隔年おき位で9号まで続いたころ、皆それぞれの生業に忙しくなって自然消滅した。その早いころの号に父が「昔の遊び」と題して、明治の終わりから大正の初めころの様子を記しているが、それらと私の体験はあまり変わっていないようであった。このことから類推すると私のころの遊びは多くの部分で江戸時代とあまり変わっていないのではあるまいか。それががらりと変わったのは昭和27, 8(1952, 3)頃のようである。そのころから田んぼに毒性の強いスミチオン等の有機水銀系農薬の散布が始まった。赤い布切れのついた竹の棒が田のところどころに立てられ、子供たちは田や川に入ることを禁止された。熱い夏を一日中、川や沼で魚をとったり、泳いだりしていた子供たちの歓声が消え、静まり返った田んぼに稲だけが鮮やかな緑色をしていた。また、テレビ放送も始まり、まだ一般家庭には普及していなかったが、電器屋の前に子供たちが群がった。力道山が活躍するのはその少し後だっただろうか。子供たちの時間の過ごし方がすっかり変ったのである。それはともかく、これからしばらく私の体験を述べてみたいと思う。
 
一月
 元旦の朝、枕元には金額は忘れてしまったけれどお年玉が置いてあった。お雑煮を食べたあと登校した。当時は新年の祝賀式があったのである。♪ 年の初めのためしとて・・・の歌を歌った後、校長先生の話、教育委員長の話があった。冷たい体育館(当時は運動場といったようだ) の床に座らされ、しびれが切れた。当時の教育委員長は浅田壮太郎氏であった。良寛研究で著名な方で東洋大学の講師でもあられたようだ。高尚な話をされたのだと思うがちっとも覚えていない。頭のてっぺんが禿げかかっておられ、お辞儀をされるとそれがよく見えた。口さがない悪童たちは偉い先生とも知らず、かっぱと渾名を付け、はやくかっぱの話が終わらないかと思った。式後、紅白の粉菓子とミカンをもらって帰宅した。
 
書き初め
 2日は朝早く起こされ、我が家では書き初めがあった。小学校では冬休み明けに書き初め大会が行われた。その練習を兼ね、父が兄弟それぞれの学年に与えられた文字を墨でお手本を書いてくれた。これを見ながら練習をした。父は器用貧乏というのか、何にでも手を出し、字や絵もわりにうまかった。近所の魚屋さんに看板の文字を頼まれたことがある。「とろてん」とひらがなで書かれた木の札が冬も吹雪の中で揺れていた。私はこの習字が苦手だった。書き初め大会では他の兄弟3人がいつも金賞の張り紙を付けてもらうのに、私はいつも外れ、運が良くてたまに赤紙を張られることがあった。
 
もっくらもち
 114日の夕方から夜にかけ、もっくらもち(モグラ)という行事があった。“もっくらもちはどこ行った。内にか外にかお宿にか。後から来たもん、何もんだ。しょんべん垂れの御大将。おらも少々垂れまーす、垂れまーす。”と数人で大声を張り上げ、縄で縛った木の才槌を引きずりながら町内の雪道を歩きまわった。電柱のところに来ると縄を持ち上げ、木槌を浮かせてゆすりながら電柱に打ち付けた。畑を荒らしまわるモグラを追い出すおまじないのようだった。強く打ちすぎ、電球が切れ街灯が消えたこともあった。才槌は当時、片貝に多かった木端(コバ)屋で 杉の木を薄く剥ぎ木端を作る際、鉈をたたくのに使われた。この木端は屋根を覆く(ふく)のに使われた。ある年、あちこちの町内のもっくらもちの群れが集いだんだん大きくなって、大通り(県道)に出た。二之町と三之町の境界の酒座川の橋のところで、北と南の集団が衝突、竹の棒なども振り回し、喧嘩になった。けが人が出たかどうかは定かでないが、翌日、学校で校長から強く注意され、翌年あたりから、この行事は取りやめになった。
 
 115日の夜には塞の神が盛大に行われた。今は浅原神社の境内で町全体で行われているが、かっては寺町とか、一之町とか、各部落ごとだった。純農村に近かった当時の片貝村には、どこの家にも藁がたくさんあった。14日の午後か15日の午前、子供たちは家々を「藁勧進(わらかんじん)に来ました」と言って廻り歩いた。藁を気前よくたくさん下さる家、藁の代わりにお菓子やお金を下さる家もあった。集まった藁を雪野原に持っていき、15日の朝からは大人たちが杉の木や竹を柱にしてそれに藁を張り付けていくのである。5 mくらいの藁の塔が出来上がった。日暮れ時になると書き初めや竹の串に刺した餅を持って、人々が集まった。火が赤々と燃え、人々の顔が赤く火照った。書き初めが燃えながら高く舞い上がるほど、字がうまくなるといわれた。火力の衰えた置き火で餅を焼いた。黒こげの餅を食べると風邪をひかないとも教わった。
 
せんべい釣り
 夜にはこたつの周りに家族が集まってせんべい釣りをした。直径10 cm位の白い薄いせんべいで、2 cm角位の薄い餅を丸い鉄の金型冶具に入れ、ふたをして蒸し焼きにしたもので、真ん中あたりに四角のかたい部分があった。各人に10枚位ずつ配り、これから1枚、または2枚出し合って、これをこたつの上に置いたお盆に積み重ねる。じゃんけんで勝った者から順に、糸を通した木綿針をこのせんべいの山に投げつけ、突き刺さったせんべいを糸で釣り上げると自分のものになる。うまくいくと4,5枚釣れた。コツは針を投げるとき、せんべいの端を狙うことで、運悪く中央付近の硬い部分に突き刺さると針はすぐ抜け、1枚も釣れないことがある。持ち分のせんべいがすぐ無くなる末弟はよく泣きべそをかいた。
そのほか、すごろく、福笑い(目隠しをして、紙に描いたおカメの顔に紙で作った目、口、鼻などを置いていく)、かるたなどをして正月の夜を過ごした。
 
まゆ玉
 もう定かでないが、1月のなかころを過ぎると近くの雪の積もった里山にまゆ玉の木を採りに行った。木肌が赤みを帯び、枝が平面状に手のひらのように形よく伸びている長さ1mくらいのを切り取って家に持ち帰った。今思い返せばアカメガシワらしい。これに餅で作った中空の繭やタイ、大黒様などのせんべいをつるし、神棚に飾った。養蚕が当時は行われ、繭が良くできますようにという祈りの行事だった。