2023年9月 記憶 その2

 片貝町は南北に伸びる県道に沿った約3kmほどの、北は来迎寺(越路町)、南は小千谷市につながる、いわゆる褌町で、この大通りに南の方から一之町から五之町までの町名が付けられている。両側に人家が並び、その東側の奥の方にはには清水町、町浦、屋敷などの地名とそれぞれに人家があり、西側には末広町、寺町、茶畑、稲葉などと続いている人口約4,000人の町である。石上建具店のある寺町は大通りの一ノ町の藤床さんの前から直角に西の方に向かう幅3 mくらいの緩やかな坂道道路で、石上さんはその200 mくらいの右側にある。

 この石上建具店に近接して仏教会館と称して地区の町内会の人たちの集まる二階建ての建物があった。浅原神社の秋祭り(9月9日、10日)が近づく8月下旬になると地区の子供たちが集まり、しゃぎりの練習をした。ここは江戸時代から明治初期にかけて寺子屋「朝陽館・講読堂」のあったところで、今は仏教会館の建物も無くなり、小さな公園となり「朝陽館・講読堂」の跡地を示す石碑があるのみである。1946年12月、この寺町通りのさらに500 mくらい上の左が池の平、右が片貝城跡の方に二股に分かれるY字型の道の突き当りの股のところに建った新築の借家に移った。ここで末弟の篤司が生まれた。父の姉の嫁ぎ先の島屋さんが建てられた平屋の粋な作りの家だった(今は二階建てに改築されている)。このおばさんの夫である安達鉄太郎氏はなかなかの事業家で、この家の上流に製糸工場を経営しておられた。数人の女工さん達が大きな鉄鍋に谷川から引き入れた水でお湯を沸かし、繭を茹でながら繭の取っ掛かりから糸を引き出し、数本の糸を捩りながら糸巻に巻き取っていくのである。鍋の中でポコポコ踊る繭や女工さんたちの巧みな糸を引き出す動作を見ていると飽きることがなかった。後に残った蛹(さなぎ)は集めて乾燥し、鯉の餌になったようだ。時々、その数十粒を分けてもらい、フライパンで炒って塩で味付けし食べた。おいしかった。新築の家の玄関と居間の間には厚い松板の廊下があった。母は子供たちにこの廊下を傷つけないように注意し、大切に扱った。炒った米糠を入れた木綿袋で板の表面を磨くのをよく手伝わされた。居間とその東側にある座敷の堺は衾で仕切られ、衾の上の欄間には松や鷹の彫刻が施されていた。座敷に面して、東側に縁側があってその真下には今はもうなくなっているが、当時は池があって絶えず小川の水が出入りしていた。縁側に腰かけ、足をぶらぶらさせているうちに未だ小さかった弟たちはよくこの池に落ちた。池には釣ってきた鯉や鮒などを放った。池の先は小さな庭で東端にはシンボルツリーのように赤松が一本あった。この家に6年生の3月まで住み、その後、大屋敷の方に引っ越した(後述)。この家は代々住人が変わったが、今は小、中、高校で後輩だった徳永君兄弟の母上が住んでおられる。もう、築77年になるが未だしっかりしているようである。家の南側には田圃あって、その50 mほど先には東西に酒座がうねりながら流れていた。幅3 mくらいの水の少ない谷川で沢蟹、鰍(かじか)、あぶらはやなどがいた。7月から8月にかけ、この川でよく、ヤスで鰍を突いた。割り箸の先をカミソリで少し割って、この隙間に木綿針を2、3本挟み、木綿糸でしっかり箸を縛ればヤスの出来上がり。水深5-10cmくらいのところに横たわっている比較的平らな石をそっと持ち上げると鰍が潜んでいる。その頭を狙って、ヤスで突くのである。10匹も捕れれば大漁、意気揚々と家に持ち帰り、母に七輪に炭火を起こしてもらい、焼いて食べた。醤油の香ばしい香りがあたりに漂った。当時は食料難、魚釣りにせよ、里山に行き栗採りをするにせよ遊びが食べ物獲得と結びつくことが多かった。

以下次号