2017年3月 へそくり

 
20173月 へそくり
 
 現役時代,たまたま本屋で立ち読みした“定年後の過ごし方”といったハウウツーものの本の中の一節に「男子たるもの,定年後自由に使える小遣いとして500万円は貯蓄しておくべきである」というような文章が目に留まり,妙に心に残っていた.確かに,毎月妻から渡される小遣いだけでは足りなくなり,追加を要求するのも何となく気が重い.とやかく言われず自由に使えるへそくりがあればと思った.亡くなった叔父は教員をしていたが,毎月の給与明細とは別に,これに記載されない還付金か何かがあったらしい.これ幸いとへそくりにしていたが,あるとき叔母に見つかってこっぴどく叱られたと聞いたことがあった.上記の文章に刺激されたわけでもないが,妻が管理している給与振り込み用とは別に,外部委員会出席費,原稿料,講演料などを自分名義で別の預金通帳を作り,少しずつ貯金していた.問題は通帳の隠し場所である.机の前の本棚の本の間に挟んで置き,長い間妻には隠し通していたつもりだったが,たまに妻の許可なしで小遣い額以上の買い物をすることから妻は薄々その存在に気付いていたようである.先月のことである.ある日の朝,いつもの銀行に行き,この通帳から引き出したあと郵便局へ行ったり,みどりの窓口で出張用の切符を買ったり,その他いくつかの買い物をした後,帰宅した.その後買い物や領収証等の整理をした.咲き始めたシンビジウム,芽を出し始めたユリやチューリップの鉢に水やりをしたり,図書館から借りてきた本を読んだりして午後を過ごした.ふと思い出し,預金通帳をしまわなければとオーバーのポケットに手を入れると入れたはずの通帳がない.あわてて,ジャケットのポケットに無意識に入れたかとかとこちらを探ってもない.今朝,ATMの窓口で引き出した現金を財布に入れたのち,預金通帳は脇に置いたまま忘れてきたらしい.さすがに妻には「貯金通帳を忘れてきた」と告げ,大急ぎで銀行に行った.今朝使った無人窓口のATMのところに通帳が残っているはずもない.もう閉店後でシャッターが降りていたため,裏口に廻り,従業員入り口に付いている呼び出しボタンを押した.しばらくすると女性の行員が現れたので手帳に控えていた口座番号を告げ通帳を忘れたらしい旨をつげた.すこしおまちくださいと言われ,しばらく待つと「ご安心ください.預金は引き出されていません.通帳は破棄しましたので,新しい通帳を送付しますまでしばらくお待ちください」と言われ,一安心した.紛失届用紙に記入後帰宅すると妻が「何あわてているの.これでしょう」と無くしたと思った通帳を出すではないか.午前,帰宅した後無意識のうちにいつもの場所にしまっていたのである.すっかり,妻にはお見通しだった.すぐ銀行にこの手帳を持って行き,恥を忍んで家にあったことを報告したら「もう使えないよう手配したので再使用できる手配をするので数日お待ちください」と言われた.通帳を作ったのは前の勤務先に近い六角橋支店,今使っているのは伊勢佐木町支店で郵送による使用許可通知に時間がかかるのである.ひとまずよかった.帰宅してから,「今度はどこに隠そうかな」と何気なしにひとりごとを言ったら,隣の部屋から妻が「何ならアドバイスをしましょうか」と言った.ちょうど来ていた娘がこの会話を聞きつけ,家に帰って子供たちに話をすると「ばあちゃん,冴えているね」と言って,孫たちは大笑いしたとか後で聞いた.
 妻は私の退職金の預金通帳や年金の入ってくる私名義の預金通帳もすべて自分のへそくりと思っている節がある.