2023年8月 記憶

  「人生とは記憶であ る」とは大学時代の友人、K君の主張である。私も似たような考えであるが「人生とは思い出を作ることである」と思っている。思い出にも二種類あって、一つは無論自分自身の思い出であるが、もう一つは周囲の人たちがどのくらい、こちらのことを覚えていてくれるのだろうかという勝手な願い、思いである。願わくはなるべく良い思い出を周囲の人々に残したいものである。

 それはともかく、止めどもないままに先月に引き続いて、子供の頃の記憶をたどってみたい。

 1945年8月1日のことは前月述べた。8月15日にはもう、母の実家である脇野町字上岩井の家にいたが、その時、大人たちが騒いでいたような気がするがあとはほとんど覚えていない。翌年、脇野町小学校入学の時、紙ファイバー製のランドセルを買ってもらったが、雨に濡れてぐしゃぐしゃになり、一ヵ月もしないうちに使えなくなった。代わりに母が帯芯の白い帆布のような布で肩掛けカバンを縫ってくれた。これをずーと卒業まで使ったのではなかったか。わずか一ヵ月ほど通った脇野町小学校のことは、受け持ちの先生の名前もその他のことも全く覚えていない。米兵の乗った進駐軍ジープが上岩井村の細い道路を走りぬけて行った。女は外に出ないで隠れていようと立ち話していた女性たちのことだけは妙に覚えている。したがって、記憶がかなりはっきりしているのは5月に転校した片貝小学校(当時は三島郡片貝村)時代からである。まず、覚えている限りと後から教わった上岩井のことを描いてみたい。

 母シウの実家の元井家は上岩井の地主で村でも一目置かれていたようだ。母の祖父、十一郎(といちろう)は近隣の村と合併後の脇野町の初代村長を務めた。その兄の野本恭八郎は(財)大日本互尊社と長岡市に今も存在する互尊文庫を設立した。祖母マキの、生まれたばかりの私を抱いている写真が戦災を免れ残っている。面長のきれいな人だったが60歳代で胃癌でなくなった。元井の家は大きく玄関が三つもあった。封建時代の名残か、裏口のような小作の人たちが出入りする玄関、通りに面した玄関、通りから外れたところにあった構えの立派な、改まったお客が出入りする玄関、この玄関は普段は閉じられていたようだ。その他、畑に野菜などを採りに行く勝手口もあったような気がする。家の脇を幅2 m位の川が流れていた。大雨が降ると渦を巻いた。これとは別に家から見下ろせるところに小さな沼があった。鮒などが釣れた。ここに数か月間二家族、10人以上が生活したのである。ある時、近所の子供たちと山に遊びに行った。農家の子だった一人が白米のびっしり詰まった弁当を食べるのをうらやましく眺めていた記憶がある。

 片貝は父の生まれ故郷である。佐藤家はかなり古くからここに住み着いていたようで、旦那寺である願誓寺(新潟県長岡市深沢町)からは今年の母の七回忌の知らせとともに曾祖父の百五十回忌の知らせも届いた。曾祖父の頃まで代々三平と名乗っており、村での屋号は「三平さ」だった。今も帰省すると90代の老人から、そのように言われることがある。数年前にはさらにご先祖の三平の二百回忌の知らせが届いている。子供の頃、父からお前は9代目だとよく聞かされた。毎年、9月9日、10日に打ち上げられる四尺玉花火で有名な浅原神社の境内には大きな石製の手水鉢があり、その側面に安政3年(1856))と作製年のほかに6,7名の献上者の名前が彫り込んであり、その中の一人に何代か前の佐藤三平の名前も見られる。祖父の代まで、二之町で小間物店を営んでいた。後は少しばかりの田圃が小作に貸し出されており、年貢米が入ったようだ。小間物屋時代の商品の残り物か、息子のところに古い鋏が残っている。この鋏は父が長岡の空襲の際焼け跡から掘り出し、子供の頃私に譲ってくれた。長く愛用していたが息子が家を離れた時、彼に譲った。彼はこの鋏を岩手県大槌町の職場の研究所で使っていたが、それが2011年の東北大震災で津波にあった。彼は泥の中から掘り出したこの鋏を横浜にもって帰り「研ぎに出して」と頼んで岩手に戻った。近所の金物屋で研ぎを頼んだところ、金物屋の親父さんが「この鋏は種子島銃の技術を持った鉄砲鍛冶が作ったいいものだ。今はもう手に入らないから大切にしなさい」と教えてくれた。私が百年以上生きながらえたこの鋏の顛末を朝日新聞の「男のひといき」に投稿したところ、運よく採用された(2011年4月16日朝刊)。

 父は母タウ(私の祖母)を5歳の頃、父常吉(祖父)を11歳の頃無くしており、義母と祖父三平(私の曾祖父)に育てられた。経済的には比較的豊かだったのか、村で初めて三輪車に乗ったとか、その写真が残っている。未だ独身だった叔父たちも次々亡くなり、10台から次々喪主を務めたとか。身内の葬式が次々続き、経済的に立ち行かなくなった。ようやく三島郡が出していた奨学金を得て、長岡工業高校機械科を卒業することができた。奨学金資格獲得の試験のため深い雪の中、与板まで赴いたとか。20 kmくらいあるのではなかろうか。高校卒業とともに長岡駅前にあった越後製菓に就職、これを機に片貝の生家をたたんで長岡に居を移した。母と結婚し、子供二人を得て、ようやく生活が安定したころ、先月述べたように空襲にあい、ご破算になったのである。父にとっては20年ぶりくらいの帰省である。長岡と片貝は20 kmくらい、今でこそ車で30分位だが、当時はもっと遠く感じられたことであろう。生家は残っているが、もう他人の家である。大通りの二の町に亀屋さんと言ってやはり小間物屋だった。20年位前までその家は存続した。帰省しても行くところがない。どなたかの伝手で寺町の石上建具店さんの二階に間借りした。ここに1946年5月から12月頃までお世話になった。ここですぐ下の弟、和秀が生まれた。以下次号

2023年7月 記憶の初め

 記憶の初めは何歳くらいからなのだろうか。生まれたときのことを覚えているという人のことをどこかで読んだことがあるが、これは眉唾物として、私の場合は4歳くらいである。冬の夕方、私が何か親の言うことを聞かずごねていたのであろう。いきなり父が私を抱きかかえ、縁側の雨戸を開け、雪の降り積もっていた庭に放り投げたのである。未だ根雪が降り積もる前で、多分12月頃のような気がする。柔らかな粉雪の中でもがいたのをかすかに覚えている。白い雪の粉末が顔や首にまといついた。父は厳しい人だったが、物分かりはよく、子供たちには公正な人だった。この時は口で言ってもダメ、よほど私の態度を腹にすえかねたのであろう。いつか、どんな悪さをしたのか、確かめようと思っていたが、そんな機会もないまま、父は逝ってしまった。

 私は1939年7月23日の明け方生まれた。場所は長岡市学校町一丁目、長岡中学(今の長岡高等学校)の近くだった。戦前の長岡市の地図を見たことがあるが、家並みが戸主の名前で載っており、父の「佐藤修二」の記載もあった。暑い日だったと誕生日が来るたびに母は口癖のように言っていた。

 その他の記憶としては5歳の頃、長岡中央幼稚園(たしかそんな名前だった)に通っていた。場所がどこにあったのか、調べればわかるのだろうが、調べていない。受け持ちは本間先生というふっくらした感じのやさしく包容力のある女の先生、確か長岡駅前の”にしく旅館”の娘さんだと聞いた覚えがある。もう一人は土屋先生、眼の大きな面長の女の先生だった。私は泣き虫だったようだ。幼稚園でどんなことをしたのか、何を習ったのかは全く覚えていない。友達の名前はあきらくん、いつも帰りが一緒だった。家の近くをいまはもう廃線となった栃尾鉄道が走っていた。愛称で「とってつ」といった。先輩の悪ガキたちが五寸釘を線路の上に並べ、電車に何回か轢かせて薄くし、あとはコンクリートの壁で研いでナイフのようなものを作っては自慢していた。自分もこれに倣って、そんな悪さをしたことがある。栃尾鉄道は高校生の頃はまだ現役で、体育の授業でスキー学習の際はこれに乗って悠久山まで通ったものである。

 がらりとそれまでの生活環境が変わったのは1945年8月1日の夜からである。この夜、長岡市は米軍のB-29戦闘機による大空襲を受けた。私は父に、まだ3歳だった妹は母に負ぶわれ、栖吉川の河原に避難した。以前から長岡の空襲の噂はあったようで、いざというときには、父が必要最低限のものを詰めたリュックサックを背負い、私の手を引いて避難すると母と取り決めていたようだが、いざという夜、私は昼間あそび疲れたのか、いくら揺すっても眠りこけていて目を覚まさないので、やむを得ず父が背負ったとか。そのため、リュックサックは燃えてしまった。栖吉川の河原に臥せっていると月が煌々と照っていたのを覚えている。月齢を調べようと思っているが未だに果たせていない。それにもかかわらず、雨粒のようなものが頬などに当たった感覚があった。後で聞いた噂では、焼夷弾による爆撃効果を上げるため、灯油だったか、ガソリンだったかを撒いたとか。戦争とは言え、残酷なことをするものである。

敵機避け土手に伏しけり草いきれ

数年前の『おぢや文芸・俳壇』で特選に選ばれた拙句である。

翌朝、戻ってみると家はまる焼け、母が明朝のためにと米を研ぎお釜に入れておいたのがごはんとなって炊けていた。これに焼き味噌をつけて食べた。その日だったか、次の日か、母と私、妹の3人は母の実家のある脇野町字上岩井に向かった。母の両親はもうなくなっていたが家はあり、そこに母の兄家族一家が疎開していた。そこに我々も転がり込んだのである。焼け跡に掘っ立て小屋を建て、後始末をしていた父も一ヵ月くらい後に合流した。1946年4月脇野町小学校(国民学校と行ったかもしれない)に入学したが、一ヵ月ほどした5月、今度は父の故郷の小千谷市片貝町に引っ越した。当時は三島郡片貝村だった。

以下次号

2023年6月 奇妙な風景

 街を散歩していると見慣れた風景でもちょっと注意して見ると「おや?」と思われる不思議な光景に出会うことがある。そんな場面をいくつか紹介する。

その1

     

パチンコ屋の上が教会?

 息子達は春日部市に住んでいる。そこに時々訪れる。前は車を利用していたが、首都高等を通るさいの運転に自信が無くなり最近はもっぱら鉄道である。総武線せんげん台駅で下車、そこから彼らの家まで車で15分位、息子か嫁さんが迎えに来てくれる。ある時、「義父さん、ほらあそこ」と言って、上記写真の脇を通るとき教えてくれた。数階建てのビルの一階はパチンコ店であることは解るが、二階がおかしい。十字架が見え、キリスト教、ゴスペルなどのの文字が見える。なんと協会らしい。パチンコ屋の騒音はすさまじい。いくら防音設備がしっかりしているとしてもお祈りの最中に下の階の騒音は伝わらないのだろうか。もっとも、いつも車で通り過ぎるだけなので確かなことは解らない。今度春日部に行ったとき、ちょっとだけ、店の前に車を止めてもらい確かめてこようと考えている。

その2

このビル、右側に傾いている。気づいている人も多いと思うが、JR桜木町からランドマークタワーに向かう陸橋の途中、左側に見えるビルである。ピサの斜塔のように自然に傾いたわけではない。初めから明確な意思を持って建てられている。その証拠に、右側の窓の右端側面だけは斜めでなく、その右側のビルと接するように垂直になっている。どんな意思をもって建てられたのだろうか。一度中に入ってみたいと思うが、いつも通り過ぎるだけ。中にいる人々に居心地など感想を聞いてみたいものだ。

その3

 

貸し倉庫の看板である。自宅から横浜中央図書館に行く途中に立てかけられている。これを見ると妙な気持ちになる。いつも満室なら借りたくても借りられないでないか。それとも、いつも満室なほどお客が頻繁にやってくる、だからご安心下さい。と言いたいのだろうか。どうも趣旨がよく解らない看板である。

2023年5月 御座候と大福餅

 御座候をご存じですか。中に小豆餡子の入った大判焼のことである。こちらが大判焼きと言っても京都育ちの息子の嫁さんは御座候の方が正しいと絶対に譲らない。ご存じの方も多いと思うが、横浜高島屋デパートの地下一階で“御座候”の暖簾を下げ、実演、販売している。私はこれが大好物でよく購入している。前は一個、80円だったが、最近値上げされた。それでも他の高級お菓子に比べ、安価である。いつも数人、時には10人以上の行列ができている。女性が多いが男性も数人は混じっている。年配者が多い。焼き方専門の男性が2人、いつも黙々と焼いている。その手付きは鮮やかなものである。直径 cmくらいの円形の窪みがで横に8個くらい、縦に4個くらい並んだ長方形の銅板の下ではバーナーが常に点火されており、高温状態にある。焼き手は水で練られた小麦粉の入ったロート状の容器から、この穴に素早く次々液状の小麦粉を溢れない程度に注入していく。ある程度焼きあがったところで、その中心に今度は半円筒状の細長い雨樋のような容器に入った餡子をへらで1個ずつ掻き落として行く。頃合いを見て餡子の入っていない方の片側の皮を錐のような治具で突き刺し、救い上げながら、裏返しにして餡子を覆いかぶせるように次々乗せていく。数分すれば出来上がり、次々保管容器に入れていく。一連の動作は流れるように見事で、見ていて飽きない。長い列の最後についていてもいつの間にか、自分の購入する番になっている。これを二人の売り子の女性が客の要求する個数をボール紙製の箱に詰め包装し、お金と引き換えに客に渡していく。その手際も客を待たせることなく見事である。それにしても焼く人も売る人も、来る日も来る日も一日中同じ動作を繰り返すその忍耐強さに驚嘆する。自分なら半日持つか持たないか。働いて賃金を得るのは大変なことなのである。

 大福餅も大好きである。呑み助なら絶対にしない、日本酒を飲みながらでも

おいしく食べることができる。月、1、2回「ますだや」さんという上大岡にある餅専門の和菓子屋に買いに行く。この店は湘南区が市民向けに発行した散歩用の地図に載っているのを見つけたのである。先日、偶然ネットで知ったのだが、神奈川県和菓子屋ランキングの第5位に入っていた。京浜急行線、上大岡駅の高架橋の東側の道路沿いにある。この店の餅は、本物で翌日には少し硬くなる。スーパーやコンビニで売っている餅類には添加物が多く、ソルビトールという餅を固化させない薬品も入っていることが多い。すぐに固くなれば商品価値がなくなるからであろう。店は家からは4-5 km、晴れた日には散歩を兼ね、大岡川沿いの桜並木を歩いていく。途中にカワセミのいる箇所があって、いつも数人の人が長い望遠レンズ付きのカメラを構え、シャッターチャンスを狙っている。

 子供たちが小さかったころは、「もちっこ」という東芝から販売されていた自動餅つき機で餅をつき、よく大福餅も作った。ただし、素人の悲しさ、餅を切り取る大きさが不ぞろいになるため、出来上がった大福餅の大きさも不ぞろいだった。それでもおいしかった。もう、何年も自分では作っていない。

2023年4月 シンボルツリー

 40数年前厚木に家を建てたとき、新築記念にと父が庭師を入れ、ささやかな庭を作ってくれた。そして、松、梅、ヤマモモ、白木蓮など数種の木も植えた。ヤマモモは男木だったので実がならなかったし、大きくなりすぎ隣家にも日影を作るようになったので切り倒した。やはりヤマモモが欲しかったので、女木の苗を購入し、隣家から離して植えた。これがもう大きくなり背丈も3 mを超えた。6月になると毎年沢山の赤い実をつける。実は種が大きく果肉が少ないし、酸っぱいのでジャムを作ったこともあったが、最近はならせたままである。小鳥たちの良い餌になっている。梅の木は2本、実が沢山なる年とならない年がある。木が大きくならないように毎年枝を刈り込んでいるがその切込みの程度により、花が多く付く年とつかない年があるためらしい。

 木蓮も大きくなった。白木蓮である。一度植えたものが大きくなりすぎ手に負えなくなったので切ったとこころ、脇から芽が出てきた。枯らそうかと思ったが少し可哀そうだったのでそのままにした。これが育ってもう20年以上になる。我が家のシンボルツリーである。背丈も十数メートルになった。1月も末になると蕾が膨らみ始め、春近しとの思いが強くなる。2月になればさらに蕾が膨らみ、それが割れて白い花びらの色をのぞかせる。そして、2月末のある日、あるいは3月初め、ついにおおきさが10 cmから15cmくらいの花が青空に向かって一斉に開くのである。我が家は地山を削った切通しの崖の上にあるので大通りからも良く見える。木蓮の花びらは風に弱い。開き初めに強い春風にあうと花びらに茶色の筋が入り折角の気品のある花がみじめな色になってしまう。ここには土、日に来るので開花期と合えばよいが、留守の間に開花し、強い風にあった年などみじめな様子しか見られないことがある。もう散りはてていたり、傷ついた話か見られないのである。今年は運が良かった。見事な花に出会えた。長柄の挟みで数本切り取って、隣家におすそ分けし、残りは横浜に持ち帰り、マンションの住人が出入りする入口に飾った。

ハクモクレン

 

2023年4月 マイナカード

  皆さんはもうマイナポイントを獲得されましたか。政府が国民にマイナンバーカードを普及させるための愚策の一つである。よくまあ、このような複雑な仕組みを考え出すものだと感心する。マイナンバーカードは身分証明書になりますよ、健康保険証として使えますよ、確定申告は税務署に赴かなくてもリモートでE-Taxシステムを使えますよと政府は必死にその利便性を国民にPRし、加入させようとしている。その誘い水として、マイナンバーカードを獲得したら、15,000円、もしくは20,000円分のポイントを支給するというのである。何故、以前支給したように個人の預金通帳に入金してくれないのだろう。お金が活用されないまま死蔵されるというのだろうか。ポイントにすれば現金化できないから買い物等に利用され、経済が活性化するということだろうか。   

 私はこのポイント獲得のため、2月下旬の数日間、翻弄された。すでに数年前、マイナンバーカードは取得し、確定申告はE-Taxを利用しているので、区役所に出向かなくても容易にインターネットでポイントを得られるものと考えていた。ポイントを得るためには、汎用するカードが必要である。まず、Suicaにポイントを付加してもらおうと考えた。ところが作業を進めると暗証番号を要求された。お忘れの方はお問い合わせをというので、そのボタンをクリックしても応答してくれなかった。コンピューターやスマホを自由に使いこなしている息子の嫁さんに頼んでやってもらったがやはりだめ。次によく使うmajicaカードでやってみたがやはりうまくいかなかった。中区役所の窓口案内をネットで探ってみたら、「今大変込み合っていますので、長時間お待ちいただくかもしれません」と表示された。もういいやとあきらめていたら、体操仲間のTさん(女性)が「朝一番で区役所に行けばそんなに待たずに手続きをやってくれますよ。受け付けは8時45分から、7階の窓口です」と教えてくれた。そこで早速、翌朝区役所に赴き受付番号1番を入手した。対応してくれた70歳代の男性は数分で健康保険利用可能な手続きをしてくれた。ポイントを付加するカードの選定に迷っていると言うと近くにマイバスケットがあるから、そこでWaonカードを購入してはどうですかとマイバスケットの位置を教えてくれた。マイバスケットは自宅の近くにもあり、頻繁に牛乳、パン等の購入に利用するのでこれに決めた。1枚300円、妻の分と2枚を購入し、また窓口に戻ると早速このカードへのポイント付加の作業をしてくれながら、「これも安倍政権の置き土産ですよ」と散々悪口を言っていた。4日後に実際にポイントが付加され、使うことができるようになりますと教わりその日は帰宅した。Waonカードへのポイント付加作業はネットでもできるらしいが、またいろいろ迷うのはこりごりなので、その作業ができるイオン本牧店までバスで行って、店員に手続きしてもらい、ようやく15,000円分のポイントが入手できた。さらに20,000円を現金で前払いすれば、5,000円がプラスされ、計20,000円分のポイントが付くがばかばかしいのでやめた。私の前に80代の男性がいて、ポイント入手から利用の仕方までいろいろ説明を受けていたが、理解できないと見えて何回も同じようなことを質問していた。応対していた女性は困り果てていたが、それでも辛抱強く説明していた。このために10分位待たされた。今、日本国中でこのようなことが起こっているのではあるまいか。亡くなった母は銀行で預金を下ろすとき、行員に「そこに自動でお金を下ろせる機械がありますよ」と教えられても、「時間はたっぷりありますから」と順番を待って窓口で現金を受け取っていた。今もこのようなシステムは残っているのだろうか。それとも強制的にATMのところに案内されるのだろうか。もし、ポイントが使われないまま残っていたら、それに対応するお金はどこに行くのだろうか。カード取扱い会社か、政府かととりとめのないことを考えている。

2023年2月 この頃のごみ拾いと、ラジオ体操風景

  ごみ拾いとラジオ体操を初めてから間もなく13年になる。月並みの表現であるがあっという間である。ごみ拾いをするのは初めの頃は二人だったが、今は3人になった。ラジオ体操を行う公園や周辺の道路など守備範囲は広い。心強いことである。それぞれ、家を出る時間が異なるので、3人が揃うのは体操時の公園である。最近、嬉しいことにごみの量が少なくなったような気がする。寒い季節であるから、散歩したり、公園で休む人が少なくなっているためだろうか。ごみが20リットル入りのビニール袋にいっぱいになるまで家に持ち帰っているが、その間3-4日位である。初めの頃はひどかった。ホームレスの人達が数人、ベンチに腰掛け食事後、これ見よがしに、その辺に食べかす、ペットボトル、ビールや酒の空き缶、空き瓶等を捨てて行った。これ等を拾うと20リットルの袋で2個、3個になることが多かった。ごみが少なくなったのは喜ぶべきなのであるが、Yさん(90歳代の女性)など、「ちょっと物足りないね」と言っている。漁師が獲物を捕る感覚か。ここ数年、いつの間にかそれらの人がいなくなった。以前、出身地を聞いたことがあったが、皆地方出身、高度成長期に金の卵として上京して働いたのち、ちょっとしたはずみで家がなくなったまま年老いた人達だった。

 公園の管轄は南土木事務所である。公園の隅に集めたごみ袋を保管する蓋付きの木の箱が置いてあり、鍵がかかっている。我々はその鍵のコピーを持っていて、集めたごみ袋をこの中においてくる。数日たち、ごみ箱がいっぱいになると契約した業者がそれらのごみを持って行ってくれる。コロナ禍前はそのごみを選別する担当者もいたが、罹患が恐ろしいと選別されなくなった。南土木事務所の担当者は我々に、ごみを瓶、缶等燃えないごみ、ペットボトル、生ごみ等燃えるごみに選別してくれと要求してきたが、我々はごみ袋を三つも四つも持って選別しながら拾うのはとても出来ないと突っぱねていた。昨年、11月頃また、分別収集のことを言われた。「未だ薄暗い中、分別収集などとてもできない、そんなに言うのなら、選別は、あなたがやってはどうですか」と言ったら、売り言葉に買い言葉「じゃあ、私がやります」と担当の若い女性が言うのでそのまま放っておいた。年が明けた1月のある日、南土木事務所から電話が掛かってきて「朝、何時ころごみ拾いをされますか。その様子を拝見してもよろしいですか」と丁重に言われた。そして、ある朝、前からやり取りしていた女性と上司と思われる40代後半の男性、もう少し若い男性の3人が、ごみ拾いから公園に戻ってきた私に挨拶され、ごみ拾いの礼を言われた。そのうえで、やはりごみは1)生ごみ、燃えるごみ、2)瓶、缶、ペットボトル(混在していても良い)の二つの袋に分別して欲しい。生ごみ、その他何が入っているかわからない袋は中身を選別しないで、そのまま箱に入れてもかまわないと言われた。結局、分別用に二つの袋を持ち歩けばよいことになるので妥協した。そして、20リットル入りのビニール袋を100枚提供された。コンビニ等でポリ袋が有料になって以来、ごみ袋用のビニール袋は百円ショップで購入していたから、これはありがたく頂戴した。

 さて、ラジオ体操の方である。ラジオ当番(自宅から毎朝持参し、スイッチを入れる役目)を4-5年続けていたが、これは2年前、若いOさん(男性)にバトンタッチした。残念ながら、妻は昨年末から参加しなくなった。癌の後遺症や骨粗鬆症のために長い距離を歩いたり、運動するのが困難になってしまったのである。体操に参加するのは10人から15人くらい、正月三が日は3人だった。これから、暖かくなればもっと増えることだろう。参加者の平均年齢は80歳に近く、6割が女性である。参加者が固定化し、若い人の参加がないのがさびしい。現役の人たちは働くことに必死なのであろう。それにしても70歳代の人たちは未だ近辺に沢山おられるはずである。参加して欲しいが、コロナ禍が影響しているためか。これまでに10人くらいの人がぽつりぽつりと欠けて行った。そして、どこからともなく訃報の噂が届く。年を取るという人生の定めであろうか。体が動く限り体操とその前にやる我流の運動は続けたいと願っている。