2023年1月 アルバイト

 学生時代のアルバイトの経験は家庭教師のみである。小学生の男子、2名と

高校生、男子2名である。後者の二人は優秀な生徒で、東北大学と慶応大学にそれぞれ現役合格したから、責任を果たせたかなと思う。教えたのは数学だった。小学生の方は、寮の先輩が4年生となり、卒論研究に忙しくなるからと私を紹介し、バトンタッチくれたものである。算数、国語、理科などを教えた。3年の春、退寮したので教えたのは約2年間だった。確か、小学3年生と5年生の兄弟だった。子供たちの父親は某自動車外車の仙台支店長、その奥さんは元宝塚ジャンヌとか、きれいな、活発な女性だった。一時、仙台市長選挙に担ぎ出されようとした奥さんは寮の先輩たちのあこがれだった。この家には90歳代の姿勢の良い気品のあるお婆さんがおられた。その昔、どこかの藩の殿様の奥女中をしておられたとか。勉強の合間に子供たちの母親がよく、ココアとおやつを出してくださった。お盆にそれらを乗せ、勉強部屋に入るとき、彼女は両手がふさがっているので、足で襖を開けた。これを見ていたお婆さんが後で、こっそりと「佐藤さん、嫁は明るくて元気な、いい人なんだけれど、あの調子でね。お嫁さんをもらうときはよく考えなさいね」とあとで言われた。妻も似たようなものである。それから10数年後、ある時、突然、その奥さんから電話が掛かってきた。「佐藤先生、お願いがあります。子供たちがこの度、それぞれ伴侶を決め、結婚することになりました。結婚式を別々にやるのも面倒だし、親類も大変だろうから、同時にやることにしました。二人を良く知っているのは佐藤先生しかおられません。ぜひ、仲人をお願いします」とのことだった。いかにもあの奥さんらしい、合理的な考え方だった。未だ、30代の我々夫婦には重荷だったから、一度は断った。しかし、「結納のやり方などは私たちが教えますから、ぜひお願いします」と押し切られてしまった。結納の日、事前に伺い挨拶の仕方など教わりリハーサルをした。結婚式当日、新郎新婦の紹介の際、兄のお嫁さんと弟のお嫁さんの名前、紹介内容を取り違えないよう気を使ったことを覚えている。

 現役時代、卒研生の就職先紹介や推薦状書きに忙しかったころ、ある企業の社長の言われた話を思い出す。その会社で就職希望の学生の面接を行っていた時、ある受験生が「私はいろんな職種のアルバイトをやり、社会経験を十分積んできました」ととくとくとその体験を自慢げに話したとか。彼にすれば、だから、その経験をこれから職場で十分生かせると言いたかったのであろう。社長はすかさず「馬鹿者! 考え違いをするな。学生は勉強するのが本分だ。社会経験などこれから嫌になるほど味あわせてやる」と説教したとか。私も同感である。親の仕送りで何とかなるのなら、アルバイトをせず、勉学やクラブ活動に精を出すようにと学生たちには言ってきた。特に飲み屋等夜遅くまで働くバイトはやらないようにと。私の研究室でも、1、2人そちらの方にのめり込み卒研に入る直前、退学した学生もいた。親としては慚愧の念に堪えないことであろう。

 しかし、昨今はアルバイトをするなとばかりは言っていられない状況のようである。親の給料が、ここ30年間ほとんど上がっていないのである。必然的に仕送り額も低くなる。その分、生活費、授業料等をアルバイト代で補填しなければならない。

日本の給料の上昇率は世界でも最低の方という。経済協力開発機構(OECD)によると、21年の日本の平均賃金は1990年から6.3% しか増えていない。米国(53%増)や英国(50%増) との差は大きく、役員との差も開く一方という*1)。何故このような差が開いたのか。難しい問題であるが、高度成長期の状況に酔ってしまい、政府も企業トップも国や組織の体質改善を怠った結果と思えて仕方がない。それをここ3年間のコロナ禍のせいにするのはもってのほかででる。コロナ禍は全世界を襲ったのだから。昨今、コロナ禍を理由に積極的に行動しようとしない風潮が見える。大学や種々の組織が、例年行ってきた多くのイベントを中止しているように思えてならない。ちょっと工夫したり、その気になればできることなのに、事なかれ主義である。例年、計上されてきたこれらイベントのための予算は、中止された場合どこに行くのだろうか。

 

*1)朝日新聞朝刊、1月13日付け。

2022年12月 ものおじ

 

  連日日本中を沸かせた今回のワールドサッカーボール世界選手権大会、もう言い尽くされた感があるが、日本チームの大活躍は暗いニュースが続く中、唯一の明るい話題だった。ところで日本チームの大躍進の原因は何だったのだろうか、多くの識者がその原因を述べているが、私は森保監督の采配もさることながら、選手たちが体格、技術的に優れた外国人選手達に対して、“ものおじ”しなくなったことが一番の原因と考えている。日本選手26人中、19人がヨーロッパの一流チームに所属、そのうちドイツのチームには8人が活躍中という。日本からはるばる出かけ、言葉も生活習慣も異なる、人一倍自己主張の強い彼らの中に入り込み、実力を発揮することは並大抵の努力ではあるまい。ここで数年もまれることによって、外人コンピレックスも無くなり、彼らの考え、性向もよく解るようになったことであろう。相手のことが解ると解らないでは大違いである。解ってみれば他愛のないことでも後者の場合は、相手がどう出てくるか解らず、いわれもないのに不気味に思われ、実力も発揮できない。そのような不安感がここ数年間の選手たちの努力で払拭され、伸び伸びプレーができたのである。

 それにつけても思い出す。もう、70年近くも前になるが、小さな田舎町(ほんの数年前までは村だった)の中学校から、20キロメートルほど離れたこちらから見れば都会の長岡市の高校に入学したころのことである。同期生は300人ちょっと、この高校の学区内にあった私の中学から男子5人、女子1名が進学した。近郷の郡部の中学校からの進学者もそれぞれ数名ずついたが、大部分は長岡市内の中学校からであった。彼らにその意識はなかろうが、校内でのさばっていた。言葉も少し異なり、在郷者(田舎者)と思われていたのではなかったか。彼らがまぶしく見え、こちらが勝手に委縮していたのである。入学当初に行われた学力テストはさんざんな結果だった。S君は新潟大学の学生から英語の個人レッスンを受けていたとか。ある時、彼が文庫本のドストエフスキーの『罪と罰』を貸してくれた。文庫本など手にしたのは初めてではなかっただろうか。難しくてちんぷんかんぷん、長岡の連中はすごいものを読んでいるんだなと思った。これではだめだとそれから、岩波文庫や角川文庫の読めそうな小説等を読むよう心掛けた。

 心配なのは学問、研究分野である。“電子立国日本”などと自負し、世界に羽ばたいていたころを頂点に、大学の研究施設も充実した。先進国に出かけなくても、国内で十分研究できる環境になったと錯覚したころから、若者の海外留学者数は減少しはじめたのではなかったか。教員も学生も内向き志向に転じたのである。まだ現役時代だった20年前頃からと思うが、教員も海外の学会で発表する機会を減らしていったようだ。工学部としての海外出張旅費予算が十分使われなくなった。教員が海外出張しなければ学生は外へ出るはずもない。コロナ禍がこれに輪をかけた。英語を話す機会も少なくなり、外人コンプレックスが広がらないよう祈るばかりである。

2022年11月 敬老パス

 横浜市では長年にわたって70歳以上の老人に敬老パス(敬老特別乗車証)なるものが支給されている。市から連絡のあった対象者に、希望者は年収額に応じ、数千円を支払うと敬老パスが配布されるのである。このパスを提示すれば、市営地下鉄、市内を走る市営、及び民間のバスに無料で乗車できる。私にはありがたい制度で、計算したことはないが納付額以上に利用していると思われる。願わくはJR、民間の鉄道にも、横浜市区間だけでも適用されるとありがたいのだが、これは欲張りか。

このパスが従来は紙製であったが、10月からICカードに切り替わった。利用者人数、利用区間等を調べ、適正な利用者負担額を検討するためであるとか。IC化の目的は解るが、私には従来より使いにくくなった。カードが磁気化されたため、これまでのようにSuicaと同じビニール製パス入れには入れられなくなった。また、従来は地下鉄の改札口で駅員に見せたり、バスの場合は運転手に見せるだけでよかったが、10月からはこのICカードを乗車時に改札入口と降車の際、改札出口で専用の読み取り機にタッチさせる必要が生じた。読み取り機のガラス面にパスをタッチすると画面の青色の蛍光が瞬時に黄色に変わり、情報が読み取られたことを知らせる。ただし、Suicaの読み取り機とは共用できないので(技術的に不可能なのだろうか)、別の専用読み取り機が乗車の際の改札入口と降車の際の改札出口にそれぞれ設置されたのである。その設置場所が乗降客の混雑を避けるためか、入口、出口とも改札口から数メートル離れたところに設置されたので、わずかではあるが遠回りをしなければならない。これがわずらわしい。降りる際などめんどうくさいのでタッチせず素通りしたこともある。乗客は慣れていないので入口と出口に案内人が終日配置された。地下鉄の駅の数はブルーラインで32駅、グリーンラインで10駅なので、案内に投入される員数は84人、横浜駅など、改札口が2カ所ある駅もあるので動員数はそれ以上、膨大な人件費がこれに費やされていると思われる。

10月末には各人宛、私のところには妻宛と2通の封書で市役所から、「敬老パスの有効期間は10月から翌年9月までです」と知らせる、念の入った通知が届いた。利用者は永年の慣例から、こんなことは暗黙裡に承知していることだろう。心配なら、各駅に張り紙でもすれば十分である。行政には文句を言いたいことがたくさんあるが、こんなことに妙に律儀である。こざかしい役人が失敗を問われないための防御として、安易に税金を無駄使いしている。横浜市の人口は約300万人、その2割の60万人が対象者として、5千万円近い郵送費が税金で賄われたことになる。

さすがに11月からはパス読み取り機の設置場所が、駅員の籠る有人改札窓口に設置され、乗客は出入りの際の無駄な動きをせずに済むようになった。ただし、11月も半ばを過ぎたが、相変わらず案内人は未だ付いている。

細かいことを言うと読み取り機のガラス窓の設置角度を統一して欲しいものである。読み取り機の設置角度が垂直の駅と水平な駅がある。横浜駅は前者、私の利用する阪東橋駅は後者である。利用しやすさから言えば斜め30度くらいだろうか。老人は手の握力が弱くなっており、物を落としやすい。タッチ面が垂直の場合は画面が見にくく、私など横浜駅ではタッチの際、パスを落とすことがある。

 システムを変えるということは利用者にこれまでの習慣、意識を変えるということで膨大なエネルギーを要する。お金と時間、そして当事者の熱意が必要なのである。企画者は新システムを導入する際、対象者の利便性を第一に考え、その目的を明確にして、机上の理論、概念だけで実施に移すのでなく、ある程度実験を繰り返して欠点を少なくしてから実施に移すべきである。さもないと大げさに言えば社会が大混乱を起こし、膨大な予算の無駄使いが起こるのである。昨今の例でいえば、マイナンバーカードの導入、新型コロナワクチン予防接種の予約、実施時の混乱など、枚挙にいとまがない。

2022年10月 パルスオキシメーターの発明者

 

 去る8月、新型コロナウイルスに感染した折、パルスオキシメーターには大変お世話になった。この装置は動脈血中の酸素飽和濃度(ヘモグロビンがどの程度酸素と結びついているか)を、採血なしで連続的に測定される装置で、具体的には右手親指先にクリップを挟むと数秒後に飽和酸素濃度(SpO2)が表示されるという優れものである。保健所からは、この値が96%以上なら安全、93~95は要注意、それ以下なら直ちに救急センターに連絡するようにとの指示だった。肺炎重症度診断に欠かせない装置で、この装置のお陰でどのくらい多くの人の命が救われたことか。

 ところで、このパルスオキシメーターが日本人の発明だということはあまり知られていないようである。この装置の測定原理は1974年、日本エム・イー学会(現日本生態医学工学会)で日本光電の技術者だった青柳卓雄氏(1936-2020)が発表し、日本語で論文にされている1), 2)。氏は1972年に原理を考え付き、1974年に特許申請後学会発表されたとか。誇らしいことに青柳氏は私の母校、新潟県立長岡高校の3年先輩でもあり、新潟大学工学部を卒業後、島津製作所を経て日本光電に入社された。

 青柳氏とほぼ同時期にミノルタカメラの山西昭夫氏が同様の原理を用いた装置を「オキシメーター」の名前で特許出願している。不思議なことに、両氏は全く交流がなく、それぞれ独立に発明に至ったようだ。私にもいくつか覚えがあるが、同業他社とほぼ同じ内容の特許が一か月以内、きわどい時は一週間の違いで特許公報になったことがある。よほどの天才ならいざ知らず、人の考えは似たり寄ったりで、同一分野における研究開発のスピードは似たようなものであろうか。したがって思いつくことも機が熟するように、おのずから、全く没交渉でも似てくるのであろう。

 1975年、中嶋進医師が、世界で初めて、パルスオキシメーターを使用した論文を発表、ここまでは日本が先頭を走っていた。1970年代後半、日本光電とミノルタカメラはパルスオキシメーターの販売を開始、ミノルタ社製のパルスオキシメーターを眼に付けたのが、スタンフォード大学のNew医師(Dr.W.New Jr,19442-2017)で、この装置を使えば麻酔をかけた患者のSpO2が簡単に測定でき、麻酔事故が劇的に減ると考えた。彼は麻酔医を辞め、ネルコア社を設立して、パルスオキシメーターの改良を行った。この装置は使いやすいこともあって、世界中に広まった。彼の予想は的中し、劇的に麻酔事故は激減、そのためかパルスオキシメーターは長らく米国人の発明と思われていた。青柳氏の論文は日本語だったが、この論文を英訳して世界中に紹介したのはカリフォルニア大学麻酔科の教授、スバリングハウス(Severinnghaus JW et al, J.Clin. Monit., Vol.3, No.2,pp.135-138,1987)である。

 その原理を簡単に述べる。血液中のヘモグロビンが酸素と結合すると“鮮やかな赤色”を示す。酸素が少ないと黒っぽくなる。青柳氏は血液の赤さの度合いを調べればSpO2がわかると考えた。パルスオキセメーターには普通の赤い色の光(1)と赤外線(2)を発する二つの光源がある。赤色光は動脈血の色で透過性が変わるが赤外光の透過性に変化はない。そこで(1)と(2)の透過度を比較すれば酸素飽和度がわかることになる。これがこの装置の原理である。

 この装置は麻酔事故を防ぐのみならず、呼吸器系の病気の診断には欠かせず、今回のコロナ渦でも大活躍しているわけである。そのほか、未熟児網膜症という病気もこの装置のお陰で激減したという。多くの人命を救ったパルスメーターの発明者、小柳氏はノーベル賞候補に挙がったというが、残念ながら1920年逝去された。もう少し長生きして欲しかったと思うばかりである。これからもパルスメーターは多くの人命を救うことであろう。

 

2022年9月 新型コロナウイルス罹患騒動記

新型コロナ予防ワクチンを4回接種し注意していがのに、去る8月中旬から下旬にかけ、ついに罹患してしまった。

8月17日 午後、大学1年の孫(男子)が帰省の途中、拙宅に立ち寄った。1階のマンションの入口まで迎えに行った。たった数か月の間にたくましくなった孫が、エレベータの中でちょろっと「昨日カラオケをやり過ぎて喉がちょっと痛い」と口を滑らせた。これはやばいと直ちに家から数百メートルのところにある横浜新型コロナPCR検査センターに検査に行かせた。判定結果が出るまでに数日かかる無料検査と一両日中にわかる1万円の検査があるがどちらにしようかと携帯電話が掛かってきたので、早い方がいいからとコメントした。

18。朝、検査結果、”陰性”との携帯電話が掛かってきたのでほっとした。その旨、春日部に住んでいる息子に知らせると、彼は早く子供に会いたいのか、車で横浜まで迎えに来た。我々夫婦も息子たち親子と一緒に春日部に行った。その日は孫の大学生活の話など聞き、楽しく過ごした。

19。朝、どうも喉が少し痛い。妻も同じという。これはやられたかなと直ちに横浜に帰宅し、孫と同じところでPCR検査を受けた。

20日。朝、私、妻ともに喉が痛く、体温は37℃でだるかった。昼頃二人とも“陽性”との知らせがあり、29日まで外出をしないようにとのことであった。楽しみにしていた「阿」の会の句会には欠席のことを知らせた。息子から電話で彼も簡易キットで“陽性”、彼の奥さんと孫は依然“陰性”、受験を控えた高校3年生の妹も陰性とのことだった。そこで息子は奥さんと子供たち2人への感染を避けるため、横浜の我々のところにやってきた。ありがたいことに、食料は車で30分位のところに住む娘が調達してくれた。

21日。妻ともども終日、体温37.2℃、身体がだるく、時々咳が出た。朝、息子の奥さんも陽性になったとの電話があった。そこで、息子は用心しつつ、車で奥さんを迎えに行き、子供たちだけ自宅に残ることにする。息子夫婦もあちらで保存していた肉、野菜等の食料を持ってきてくれた。二人とも体温37.1-2℃。4人と犬が狭い横浜のマンションでしばらく住むことになった。

日中、中区役所健康福祉課から症状の問い合わせの電話があった。さらに、29日まで、自宅滞在、最後の3日間、37.5℃以上の熱があれば自宅療養は延期、異常なければ以後外出可能。間もなく血液中酸素濃度を調べるパルスメーターが宅急便で送られてくるので、朝、昼、晩と計測するようにとの指示。その他 体調が悪化した場合はコロナ119へ電話するように、数値が96%以上ならOK、93~95は要注意、それ以下なら、直ちに緊急連絡先にする連絡するように、その他相談事は療養サポート窓口に連絡するようにとそれぞれの電話番号を教えてくれた。

 22日。県から血液中酸素計測用のパルスオキシメーターが届いた。ピンチコックで右手人差し指を挟み、計器のスイッチを押すと数秒で血液中の酸素濃度が表示されるという優れものである。私の値は98、妻はちょっと低くて94ですれすれセーフ。発病4日目のこの頃には、もう私も妻も平熱、以後、毎日36℃前後を推移した。ただ、時々二人とも、時々咳が出、喉がいらいらした。

 また、この日から毎日、私には午前、妻には午後から、自動電話が掛かってくるようになった。「体温は37℃以上か。はいか、いいえで答えよ。パルスオキシメーターの値を答えよ。値が93以下なら直ちに緊急連絡先に電話するように」。この電話は29日まで続いた。

 23日。我々2人と息子の体温は平熱、若干の倦怠感。彼の奥さんのみ38℃。パルスオキシメーターの値は私は97~98、妻は93~94だった。

24日。県から、宅配便で2人の食料が8日分届いた。大きな段ボール箱の中にカップラーメン、温めればよいだけの白米ごはん、各種缶詰、林檎ジュース、粉末のお茶、ゼリー状のビタミン補給剤、ビスケット、る、テイッシュペーパー等々が入っていた。ありがち事である。この日の4人の症状は23日とほぼ同じ。

 25日。この日、息子と私が簡易キットで陰性になった。娘が買い物をし、食料を届けてくれた。家に入ることなく、玄関の外にそれらをおいていった。

 26日。妻も陰性になった。息子の奥さんも平熱になった。

 27日。3人の体調はほぼ平常。息子の奥さんは未だ陽性。

 28日。息子の奥さんが陰性になった。10時ころ、彼らと犬は春日部の自宅に戻っていった。これでようやく、我々の日常に戻った。

 29日。指定されたこの日まで謹慎。それにしても長いような、短いような10日間であった。この間、退屈を紛れさせるために、元気な時には読む気の起こらなかった少し重い内容の本を数冊読むことができた。

2022年8月 百合の花

  7月になると郷里の里山には山百合が咲いた。カサブランカのもととなったといわれる白い花である。遠くからもよく目立ち、良い匂いが漂った。子供の頃、この百合を5、6本折って、家に持ち帰ると「仏さまに飾ろうかね」と母に喜ばれた。墓地にもこの花が沢山咲いた。お墓参りのある8月まで咲いていてくれないかとよく思ったものだが、無理で、7月の終わりともなれば、もう花も終わってしまった。神奈川県の県花は確か、山百合だ。厚木の家の裏山にもこの花が咲く。折り採って家に持ち帰りたいところだが、さすがにためらわれ、そっとしておく。この花を庭にも咲かせたいと園芸店から球根を何回か取り寄せ植えてみたが、育たなかった。秋植えの球根をどうも冬の間に鼠が食べてしまうらしい。そこでいろんな種類の百合の球根を植えてみた。うまくいったのはカサブランカ、鬼百合、鹿子百合、ササユリなどである。花の咲く時期

が少しづつずれているのがありがたい。長い期間楽しめる。

 まず、ササユリ、咲くのは6月下旬ころからだろうか。あわいピンク色のはかない感じの花である。多年草なのだろうが、我が庭では、1年で消えてしまうので、前年の10月ころ球根を園芸店で購入し、植えている。

     ササユリ    

 次に咲くのがカサブランカ。今年は見事に咲いた。1年ごとに花数を一つずつ増やしていくと聞いたが、そんなこともないようである。確か、植えてから4年ほどと思うが、今年は8個も花を付け見事だった。下から順に咲き、先端の花が散るまでに2週間もかかり、長く楽しめた。

カサブランカ

 7月中旬には鬼百合が、それが終わるころには鹿子百合咲いた。どちらもいつ頃植え

鬼百合

鹿子百合

たのか定かでないが、勝手に増えて、庭のあちこちに咲く。お隣さんにも切り花としておすそ分けした。  

 最後に咲くのが、タカサゴユリ、これは植えた覚えもないが、いつのころから咲くようになった。8月初旬から、中旬の今が盛りである。厚木の土に合うようで、散歩するとどこの庭にも、そして道端の雑草に交じって咲いている。種が飛び、自然繁殖するようだ。

タカサゴユリ

各葉の付け根に小さな茶色の粒が付き、これが大きくなり、自然落下して、増えていくのだろう。百合が終わるとしばらく、庭には花がなくなる。そして間もなく、萩、酔芙蓉、金木犀などの咲く季節になる。

2022年7月 命拾いをした話 その4

 7月に入り急に天気予報に雷注意報が多くなった。遠くの雷鳴を聞いているときはいかにも夏らしい気分であるが、窓越しに稲光が見られるようになるとさすがに少し怖い。毎年、落雷で何人かの命が失われる。私は落雷ではないが感電でひやりとした思い出がある。もう、60年以上も前の学生時代のことである。卒論で所属した研究室は電気化学研究室だった。そこでは、ポーラログラフという当時最先端の電気化学計測機器が数台設置されていた。一台、100万円くらいしたのではなかろうか。現在の貨幣価値では、1000万円くらいの感覚であろうか。この測定機器は100 Vの電源が必要であるが、当時の電力事情は未だ悪く、日中には90 V台まで電圧が低下した。これでは、機器の作動が安定せず、得られたデータには信頼がおけない。そこで、研究室前の廊下にスタビライザーと称する電源安定装置が設置され、ここから、各研究室ごとに測定機器用電源コードが配線されていた。各部屋には配電盤があって、ナイフスイッチがついており、スタビライザーからの配線がつながっていた。毎朝、一番早く来たものが、廊下のスタビライザーの電源を入れることになっていた。あとは各部屋ごとに任され、ナイフスイッチを入れてから、ポーラログラフやその他の機器の電源スイッチを入れ使用することになっていた。

 私の部屋のナイフスイッチは幅50 cmくらいのストーンテーブルを挟んで、少し背伸びをして届くくらいの高さの壁に設置されていた。ちょうど梅雨の頃だっただろうか。ある朝、このナイフスイッチを入れようと取っ手に触ったとたん、丁度ストーンターブルの縁に押し付けられていた私の男子の象徴にものすごい衝撃があって、電流が抜けていった。今から思えば他愛のない笑い話であるが、数年間の私の悩みは結婚して果たして子供ができるだろうかということだった。大電流で生殖細胞がやられたのではないか・・・・。その後、男女1人づつの子供に恵まれ、杞憂に終わった。子供たちにもそれぞれ、男女の子供に恵まれ、私には4人の孫がいる。感電が子孫繁栄の効果に寄与したのか、しなかったのかはわからない。

 電流は水と同じで最短距離を流れようとする。そのため、避雷針をはじめ、野原の立ち木に落雷するなど電流は尖ったところが好きなのである。現役時代の研究テーマの一つに電解めっきがあった。めっきは特殊な用途以外、表面が平滑であるのを良しとする。ところが油断すると電気めっきには凹凸ができやすく、放置すればますます顕著になる。電流が凸のところに集中するから、めっきもその部分で発達する。これを防ぎ、平滑なめっき面を得るために添加剤に係る膨大な論文が存在するのである。