2018年7月 エッグスタンド(卵立て)

20187月 エッグスタンド(卵立て)
 
 数日前,楽しみにしていた有田焼のエッグスタンドが,製作を依頼していた窯元の中島陶芸からようやく届いた.私のは白地にツユクサ,妻のにはアザミが鮮やかに描かれている.これに半熟卵を立て,上面の殻を割って取り除き,スプーンで中の黄身や白身をすくって食べるのである.毎日,朝食が楽しみである.前々から欲しいと思って探していたが,エッグスタンド自身がなかなか陶磁器店に見当たらなかった.そんなニーズが少ないからかもしれない.数年前,四国に旅行した折,道後温泉街の土産物屋で見つけたが,図柄が気に入ったものでなかったうえ安物の感がしたので購入はしなかった.産地を尋ねたら,Made in Chinaだった.それ以来,妻も意地になってあちこち探していたが見つからなかった.去る5月初旬のことである.マンションの近くの大通り公園で毎年恒例の陶器市が開かれた.ここには有田焼(伊万里)備前焼,磯辺焼,笠間焼,益子焼常滑焼,萩焼等全国の有名な焼き物産地の陶磁器類の出店が数十軒,1週間ほど店開きをする.余計なことであるが有田焼も伊万里焼も同じものであるがその昔,伊万里港から海外に輸出されたのでその名があるのだそうな.この期間,主婦をはじめとする多くの陶磁器愛好家が集まるが,私たちもこれを楽しみにしている.もうあまり,使う時間も残されていないし,戸棚には皿,茶碗,ぐい飲み等であふれかえっているが,それでも気に入ったのがあるとつい買ってしまうのである.今回もあちこち見て歩いた,有田焼の茶碗,大皿,小皿,湯飲み等の並んだ棚の前で何気なく,妻と「こんな絵柄のエッグスタンドがあればいいのにね」等と会話していたら,これを聞きつけたのか,50代の店主が「少し時間をいただければ作りましょうか」と問いかけてきた.これ幸いといろいろ話をし,絵柄も指定し注文した.日本にはそんな食習慣がないのか作っても売れないのだとか.そして,約束の納期より少し遅れて数日前に宅急便で届いたのである. 窯がいっぱいになるのに少し時間がかかりましたのでとお詫びの手紙が入っていた.
 エッグスタンドなるものは,もう50数年前になろうか,お世話になった玉虫伶太先生に教わった.残念ながら,先生は数年前に亡くなられた.当時,私は大学4年生,卒論研究室として田中信行研に所属していた.玉虫先生はこの研究室の助教授で電気化学反応に関わり“田中・玉虫の式”を誘導されていてこの分野で著名だった.当時,田中研はポーラログラフィーといわれる電気化学分野で世界の最先端を走っており,論文がNature誌等にも掲載され意気が上がっていた.内外から世界一流の研究者の訪問も多かった.オーストラリヤからAylward先生が招待研究員か何かで滞在されていた.ある日のお茶の時間だったか,昼食時だったか忘れたが,玉虫先生が「Aylward氏からエッグスタンドをもらってね」と助手だった佐藤弦先生(上智大学名誉教授,私の卒論の直接の指導者)と話しておられたのを漏れ聞いたのである.玉虫先生のお話は微に入り,細にいり,とても面白い.ご性格か,人生に余裕があるとでもいおうか,弦先生といつも会話を楽しんでおられた.先生の書かれた“電気化学”はいわゆる“玉電”と呼ばれて名高く,今もこれを超える日本人の著者による電気化学の教科書は見当たらないように思われる.
 
 
 
 
 

2018年6月 雨降りの日に

20186月 雨降りの日に
 
 梅雨に入って間もないある日の午後,外出から戻る途中雨がぽつぽつ降りだした.マンションの玄関に入ろうとしたとき,向こうからランドセルを背負った小学1年生くらいの男の子がやってきた.手にはこうもり傘を抱えていたがさしてはいなかった.余計なお世話かと思ったが「きみきみ,雨に濡れないように傘を差したほうがいいよ」と言ったら,彼はすれ違いざまくるりと私の方に向き直って「どうもありがとうございました」と言って頭を下げてから傘を開いた.一瞬,私はあっけにとられた.天然ボケなのだろうか,雨に気が付かず注意され本当にそう思ったのだろうか,雨が降ってきたら傘をささなければならないと母親か誰かに言われなければさそうという気が回らないのか,そこまで思考力が落ちているとは思いたくないが.最も,雨=傘と連想するのは特に日本人に強い思い込みかもしれない.もう,20年近く前になろうか,5月から8月にかけ,3ヵ月ほどカナダのハリファックス市に滞在したことがある.北緯43度付近の気温の低い街だった.よく雨が降ったが行きかう住民でこうもり傘を差している人が非常に少ないのである.アパートからお世話になっていた大学の研究室まで徒歩で20分近くあった.雨のかなり強く降っているある朝,2日間ほど傘をさしていない人を数えてみたら,すれ違った20数人のうち半分弱の人が傘をさしていなかった.とても不思議だったので何人かの人に尋ねてみたが,なぜそんなことを質問するんだと怪訝な顔をされた.誰も不思議に思わないのである.しいて理由を尋ねてみたら,ここは風が強くて雨は横殴りで傘は役に立たないし,すぐ壊れてしまうから傘を差さないことが習慣化したのではないかとある教授が語ってくれた.そういえば外国映画で人々が雨に濡れながら歩くシーンも多い.
 雨で思い出した.遠藤周作のエッセイに出ていた話である.彼が子供のころ,母親から役目の一つとして,庭の草花への水やりを言いつかっていた.彼は忠実にこれを守り雨降りの日も草花に水をやっていた.その姿を見た母親が,この子は少し知能が低いのではないかと嘆いたそうな.
 今日も雨である.庭の白っぽかったアジサイの花の色が濃い紫色に変わりだした.ザクロが例年になく沢山の花をつけている.濃い橙色の点々が緑の葉に映えて美しい.バラはもう終わりで切り忘れたがくが赤い花びらを数枚残したまま雨に濡れている.昨日は雨の中,雨合羽を着て梅の実もぎをした.2本ある梅の木の1本は収穫時期が少し遅れ,実が黄色を帯びていたが,他の1本の方はちょうどよいタイミングで翡翠のような緑色をしている.昨年は30粒くらいしか取れない不作の年だったが,今年は13 kgも採れた.妻がこれで梅の砂糖煮を作ると言っているが,実現するかどうか.砂糖煮は難しい.インターネットには各人,各様でいろんな作り方が載っている.以前,それに習って,二,三の作り方でやってみたが,皮が剥がれたり,実が崩れたり,茶色に変色したりで,鮮やかな緑色を保っている,これはと思えたのは数十粒のうち,数粒だけだった.
 あまりにも繁茂したので昨年の暮れ,思い切って枝を刈り込んでもらったヤマモモがまた枝葉を伸ばし始め,小さな緑色の実を沢山つけている.梅雨明け前後にこれが赤く実り,また暑い夏がやってくる.
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年5月 シジュウカラの巣立ち


2018
5月 シジュウカラの巣立ち
 
 長年にわたって厚木の家の庭の梅の木に巣箱が取り付けてきた.昨年までのものは孫の男の子が小学4年生頃の夏休みの宿題に作ったもので,7, 8年間,毎年シジュウカラが春になると出入りし,巣作りをしてきた.しかし,ついに昨年,木の箱が朽ち果てたので取り外し,半年間ほどそのままになっていた.新しい巣箱を作らなければとホームセンター数か所を訪れ,厚さ15 mm, 150 mm, 長さ1.5 mほどの板を探していたが,どこにもなかった.困っていたところ,ふと妻が「たしか,飯山の方に材木店があったような気がする」といった.飯山地区は厚木の家から7-8 km離れている.1月のある日,探しに行ったら見つかった.森林組合が経営している材木店で銘木や各種の木工品も展示販売していた.ようやく手ごろの目的の杉板が見つかったので早速購入,巣箱作り作業を開始した.設計図はもう数十年昔の新聞に載っていた「易しい巣箱の作り方」の切り抜きですっかり変色し,擦り切れている.早く完成させないと巣作りの季節が来ると気がせいていたが,3月初旬ようやく完成,早速,梅の木に取り付けた.間に合った.梅の花が散り,若葉が芽吹き始めた4月になると盛んにシジュウカラの鋭い鳴き声がするようになった.ある日,確かにシジュウカラが巣箱に出入りするのを見つけた.その後,親鳥が頻繁に出入りするようになり,一安心.ところが,連休初日の去る428日,厚木に行くと巣箱が銅線の針金でかろうじて支えられ,宙吊りになっているではないか.巣箱を木に縛り付けた銅線の締め付けが甘く,大風で外れてしまったのだ.慌てて蓋を取ってみると小さな雛がもぞもぞしていた.まだ,生きているらしい.すぐ,元の場所に巣箱を取り付けた.親鳥が戻ってきてくれればよいがと念じつつ巣箱をそっと家の中から縁側のガラス戸越しに見守っていたが,なかなかやってこなかった.1日中張り付いているわけにもいかなかったが,時々,親鳥の声が聞こえた.庭に出て少しばかりの畑に里いもを植えたかったし,草取り,ボタンその他の春の花木の手入れをしたかったが,妻が「親鳥が用心して近寄らないから庭に出るのは禁止」と言い渡した.29日,孫たちがやってきた.妻は好奇心を抑えきれなかったのか,私には禁止令を出していたのに,私の外出中に中2の孫娘をそそのかし,彼女を梅の木に登らせ巣箱の蓋を開け,スマホで写真を撮らせた.彼女は幼稚園児のころから木登りが好きで厚木に来るとヤマモモや梅の木に登っていたから,妻に言われ大喜びでこれをやったらしい.親鳥が給餌を辞めなければよいがと願った.添付の写真がそれである.はっきりとは区別できないが,黄色いくちばしの雛が5, 6匹いるようである.,妻は私には庭に出るのを禁じておきながら自分では木に登れないものだから,孫にあんなことをやらせたのに多少,気が咎めるらしく,横浜に戻ってからもうまく育ったかしらと何回も口にした.去る512日厚木に行った.梅の木の下で耳を澄ましても鳴き声が聞こえない.梅の木の幹に鳥の糞がたくさんこびりついていた.雛が死骸となってミイラ化していないかなどと懸念しながら木に登り,恐る恐る巣箱の蓋を開けたら,巣箱はすっかり空でコケ類で作った巣のみが残っていた.皆,無事巣立ったらしい.妻共々一安心した.
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2018年4月 第二ボタン

20184月 第二ボタン
 
 去る3月初旬のある晩,埼玉に住む中3の孫から電話がかかってきた.「じいちゃん,今度の木曜日空いている?僕の卒業式なんだけど,お父さんが仕事で忙しいので代わりに出席してもらえないかな」こちらは暇だから,即座に「ああ,いいよ」と返事をした.
式当日,何十年ぶりかで孫の母親と卒業式に出席した.私も自分の息子や娘の入学式,卒業式には出席したことがなかった.妻も働いていたから,よく私の両親に出席してもらった.当時は仕事に忙しく,子供たちの入学式や卒業式に休暇を取って出席するなどという雰囲気は勤務先にはなかった.
君が代”斉唱の後,式は厳粛に始まった.生徒たちの私語もほとんどなく二時間強の式は無事終了した.昔,唄われた“仰げば尊し”や“蛍の光”が唄われるうたわれることなく,代わりに“翼をください”とも一つ,曲名を忘れてしまったが,懐かしい感じのする合唱曲が唄われた.良い曲だと思った. 
ただし,式中以下の3点が非常に気になった.私にとってはいずれもなくもがなに思われた.まず,式辞を述べた人の中に市会議員が入っていたこと.息子がこの中学を卒業したとか,女性だった.次に来賓の数が多すぎたこと.司会者が一人づつ,それぞれの肩書,氏名の紹介をすると次々椅子から立ち上がって「おめでとうございます」と言った.気になったので来賓退場時に数えたら,なんと25名だった.3番目は祝電の紹介の数が多すぎたこと.10名分の長文の,似たような内容の祝電が次々読み上げられ,そのあと多くの氏名のみが読み上げられた.さすがに電文は読み上げられなかったが,国会議員,県会議員の名前もあった.私の出席した多くの結婚式や告別式などの経験では,数名の電文が読み上げられ,あとは氏名のみ,あるいは単に人数のみが紹介されていたように思う.上記の一連のことは行政側からの依頼か,あるいは学校側の忖度か,いずれにしても私には異様に思われた.昔もこのようなことは行われていたのだろうか,残念ながら,子供の私には全く記憶にない.昨今の文科省教育委員会,学校との関係で起こっている様々な出来事と関連があるような気がしてならない.あとで問題が起こらないようにと意識し,事なかれ主義がはびこっていないか.
さて,表題の「第二ボタン」のことである.卒業式前夜,彼の家に行った.息子も帰宅し,夕飯時話がはずんだ.そこで,第二ボタンの話になった.私は知らなったが,卒業式の後,同級生や後輩の女子生徒が好きな男子生徒の詰め入り服の上から二番目のボタンを下さいとお願いする習慣があるのだそうな.
「Tには下さいという女の子がいるかな」と父親が息子に言った.少しアルコールの入っていた私は「自分でボタンをもぎ取ってきてはダメだぞ」とからかった.「俺なんか,上着のボタンを全部持っていかれ,ばあちゃんに大目玉を食った」と息子が悪乗りした.帰宅してから妻に確かめたら,「そんなことなかったわよ」と妻は言った.もう,35年も前のことだからどちらが正しいか確かめようもない.卒業式から帰宅した孫の上着を見たら第二ボタンがなかった.「誰にあげたの」との母親の厳しい追及に「Tさん」と孫はうれしそうな顔ではにかんで答えた.良かった,良かった.

2018年3月 昨今のラジオ体操風景

20183月 昨今のラジオ体操風景
 
 定年退職を機に近くの公園で永年にわたって行われていたラジオ体操に参加してから,間もなく8年になる.その当時の参加者は20名前後だったが,最近は30名前後にまで増えた.それだけ,老人の間に健康志向者が増えたということだろうか.もっとも,今冬は寒さが厳しく,雪の降った朝など6名だったこともある.この8年間にいくつかの変化があった.毎朝決まったように集まっていたかっての産業戦士が何かのはずみにホームレスになった,そんな人たちやラジオ体操には参加せず,ベンチで朝からアルコール飲料を飲んでたむろしていた人たち数人がすっかりいなくなった.毎朝のごみ拾い時にときどき彼らとことばを交わしていたが,亡くなったり,動けなくなり施設に入ったりで行方はさまざまである.犬を散歩させている人も多いが,犬も年を取る.よたよた歩いていたり,乳母車に乗って散歩している犬もいる.出会うと「これでは散歩になりませんね」などと笑って通り過ぎることもある.かって,私になついていて,合うと必ず尻尾を振り,身を摺り寄せてきた中型犬も見かけなくなり数年が過ぎてしまった.名前を“ハリー”といった.息子の住む埼玉県は老人の健康寿命が永いとか,犬の飼育頭数が日本一と関係があるという.朝晩,犬の散歩と付き合うためか.
30年近く毎朝トランジスタラジオを持って公園に現れたAさんも身体の動きが不自由になり,ラジオ当番はHさんに,その後Y(女性)さん,そしてこの2月末からは私が引き継ぐことになった.Hさんはラジオ当番をYさんにバトンタッチしたあとも体操には参加していたが,今冬ついに引退された.米寿に近いお年だった.Yさんはラジオ当番とともに永年ごみ拾いも続けていたが,心臓に異変が見つかり,ラジオ当番が私に回ってきたのである.ラジオ体操のおかげか,昨年末,2回行ったがん手術の後遺症もなく,今のところ,健康である.二,三日前,孫たちと草津温泉スキー場にスキーに行ってきた.残念ながら,足腰の衰えは覆うべくもなく,すぐ足が開いてしまい,直滑降もスピードが怖くなった.もっぱら初心者コースで楽しんできた.
私もときどき外出その他で参加できないことがあるのでラジオ当番は妻と共同で行っている.参加者はラジオを当てにして参加されているから責任重大である.これまで体操の直前に発生した地震情報放送のため,1, 2回ラジオ体操が中止になったことがあるが,あとは正月3日間だけ休む以外,年中無休である.参加者の平均年齢は各自のお年を訪ねたことはないが,70歳前後か.30名前後のうち,男性は2割,5-6名である.ほとんどの人と顔見知りであるが,名前のわかる人はいない.会話が大切ということは承知しているが,男性同士はダメ,あいさつ位であとは何を話題にしてもよいかもわからず,会話が続かないのである.それに比べて女性はすごい.よくもまあ話題があるものだと思われるくらい,体操をしながら話している人もいる.ようやく最近,2, 3名の女性と少し長く会話ができるようになった.一人はKさんで私より1歳上でひ孫もいる.40歳ころから意識して,元オリンピック体操選手の主催する体操教室に参加してきたとか,姿勢がよく体がしなやかで体操もうまい.大酒のみのご主人は2, 3年前,酔って2階から階段を転げ落ち,そのまま大往生,さばさばした気持ちの良い人である.Sさんは65歳前後か,非常に積極的な人で,放送大学の学生でもある.70歳までに単位を取得し,卒業するのが夢とか,時々,今試験中で昨日の試験はよくできたとかダメだったと教えられる.7年前,妻が乳がん手術で入院した際,自宅で栽培したというアジサイの花束をいただいた. 彼女がラジオ体操仲間の情報網の中心である.いろんなことを教わる.最近,夫を亡くした女性が気分転換のために放送大学に入学してきた.「彼女が専攻した科目は何だと思いますか」「わかりません」と私.「ファイナンス(財政学)なんですよ」.これには思わず笑ってしまった.女性はしたたかであると改めて思い知らされた.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年2月 ささやかなよろこびと楽しみ

 子供のころ,母が弁当のおかずがないとき,ときどき作ってくれたのがごはんと海苔と鰹節が交互に重なり醤油味のついた弁当だった.海苔弁当といったか鰹節弁当といったか,名称は忘れてしまったが,大好きな弁当だった.時々,この弁当を作ってとねだったものである.冬,冷たい弁当を食べるのは子供たちがかわいそうとでも判断されたのか,当時,暖飯器(だんぱんき,たぶんこの漢字だっと思う)というものがあった.縦横90 cm,高さ15 cmくらいの木製の正方形の枠で底に格子状に細い鉄棒が張ってあった.上は何もなし,筒抜けで,この箱に生徒たちは朝登校したら,自分の弁当を入れて並べた.授業が始まった頃,小使さんが数段重ねたこの木箱を炭火のおこった鉄製の火鉢の上に乗せ,箱の上に木の蓋を乗せた.おかずに沢庵付けでも入っていたのか,暖められた弁当からその強烈な臭いのする日もあった.昼食時,程よく温まったこの海苔弁当は香ばしくておいしかった.炭火が強すぎて運悪く一番下の箱に入った弁当のごはんの焦げていることがたまにあった.先日,ふと思い立ってこの弁当を作ってみようとした.鰹節もすでに花弁のように削ってあり袋詰めになっているのをそのまま使うのは安直で面白くない.もう十年以上も戸棚の上に眠っていた鰹節削り器を取り出した.鰹節削り器の箱の中に残っていた固い鰹節は神社に嫁いだ義妹がお供え物として上がったのをいただいたものである.この鰹節を削ってみると細かい粉末にしかならなかった.花弁のように薄く削るのにどうするか.まず,削り器の鉋の刃が切れなくなっているだろうと鉋台から,刃を取り出し砥石で研いだ.包丁やナイフ研ぎは趣味の一つである.しかし,やはり削った鰹節は粉末のまま.鰹節が乾きすぎているのかもしれないと考え,濡れた布巾に包み一昼夜寝かせ,湿り気を与えたのち削ったらどうやら不満足ながらも薄い鉋屑状のものが得られた.当時の弁当箱はほとんどがアルマイト製だったがこんなものはもうないからプラスチックのタッパーで代用した.初めに炊き立ての飯を薄く敷き,その上に削った鰹節をふりかけ,醤油をたらし,次にまた飯を薄く敷き,その上を海苔で覆った.また,飯を薄く敷き醤油を少しふりかけ出来あがった.鰹節と海苔の重ねる順序はどちらが先だった思い出せなかった.早速食べてみた.昔の味と少し違うような気もしたが,まあ,おいしかった.作り手も違うし,あのころは食料も不足していていつも空腹状態で今とまったく状況が異なる.味覚も変化しているだろうし仕方があるまい. 
作家の阿川弘之がこの弁当がやはり大好きだった.晩年まで娘の佐和子氏に作ってくれるよう時々依頼したとか,彼女のエッセイに出てきた.密かに愛好者が未だ,どこかに生き残っているかもしれない.
 歯ブラシがそろそろくたびれてきたから,今日は午後からこれを買いに行って,明朝から使い始めとしようとか,20数年以上も前に教え子からいただいたシンビジウムの花芽が大きくなってき,間もなく咲きそうだとか,今朝のお茶はお湯が適温だったのか香りがよい,電車の中できれいな人を見かけた等々,日々の幸せはこのようなささやかな楽しみ,喜びの積み重ね,これらを見出す能力を培うことが突然やってくるかもしれない不幸に耐える力になるのではないのかなど愚考している.今朝の朝日新聞俳壇に次のような一句があった.
  春めくというよろこびのありにけり  長野県 縣 展子

2018年1月 データを読み取る力

20181月 データを読み取る力
 
 昨年12月初旬,胃がんの手術をした顛末は先月号に述べた.退院後2週間ほどして,手術の経過を伺いに病院へ行き,Y医師の説明を聞いた.手術前後の胃カメラ撮影による患部の映像を見せられた.手術前の写真で「ここが患部です」と色素で染められた部分を示されたが,言われてみれば,正常な部分に比べて若干皮膚の色が赤いかなと思われるくらいで,私にはよくわからなかった.手術後の写真には長径約3 cmくらいの楕円形の赤く皮膚表面をはぎ取られた部分が見えた.「幸い深部までがん細胞は及んでいませんでした.完全にこの部分が新しい皮膚で覆われるまでに約2か月はかかります.それまでアルコールは控えたほうが良いでしょう」と言われた.痛みも自覚症状もないのに我慢,我慢である.正月,息子の所に行ったら,「折角,いい日本酒を見つけたし,海外出張でちょっと良いウイスキーも買ってきたのに残念だね」と言われた.前に戻る.「このくらいのがんに成長するのにどのくらいの期間がかかりますか」と尋ねたら,「二,三年でしょうね」と言われ,3年前の定期健康診断時に同病院に保管されていた患部付近の写真も見せられた.「そのつもりになってよく見れば,この付近ですかね.少し赤くなっています」と言われたが,私にはほとんど同じ色に見えた.その時は異状なしと判断されたのである.また,手術時に喉部分を胃カメラが通過するとき,見つかったのだが,Y医師から「喉に何かありますね.一度,耳鼻咽喉科で検査をされたほうがいいでしょう」と言われたので,数日後,おなじ港赤十字病院耳鼻咽喉科で診察を受けた.カメラで探ると2か所にポリーブがあるとのことだった.その部分の皮膚組織を採取,すぐ検査に回すとのことだった.「検査を急がせますので1228日に来てください」と言われた.喉頭がんの場合は進行が速いのだそうな.約束の28日の午後5時まで待った時点でY医師(消化器内科のY医師とは別人)に呼ばれ,「検査担当には頑張ってもらっていますが,今の時点ではダーク,どちらとも言い切れません.すみませんが,さらに詳しい検査を進めるため少し時間を下さい.1415:30ではいかがですか」と言われ,そのようにお願いした.二度あることは!と覚悟して14日来院した.新年初日の病院は非常に込み合っており,約束時間から30分近くも待たされた.名前を呼ばれたので,おそるおそる診察室に入るとY医師から快活な声で「おめでとうございます.まったく異状ありません」と言われ,“扁平上皮,リンパ球とも異型を認めない”と記された診断書を渡された.喉頭がん手術で声の出ない人や放射線治療中の知人を何人も知っているのでその人たちには申し訳ないがうれしかった.今年は春から縁起がいいぞと心中でつぶやきながら帰宅し,妻や電話で早速子供たちにその旨伝えた.娘や孫娘は私以上に心配していたようで非常に喜んでくれた.それにしても消化器内科のY医師による喉の部分の異状の発見はとてもありがたかった.
 昨今は画像処理技術やAI(人口知能)の進歩により,医師の判断によらない自動判定で90%以上の正答率とか,正確な値を忘れてしまったが,もっと高い値だったようだ.しかし,最後はやはり,医師の判断によるとその新聞記事には書いてあった.
 データの判定は難しいものである.必ずあいまい領域のある場合が多い.もう,40年以上も前のことになろうか.そのころは今のように,電子顕微鏡,原子間力顕微鏡,その他の画像撮影技術も物質構造の解析技術も発達しておらず,物理化学実験や電気化学実験といえばグラフを作成することが主な作業だった.縦軸の観測値を横軸の変化量,例えば温度や,物質の濃度,材料の組成割合や変化等に対してプロットするのである.グラフの単調な変化,直線的な増加や減少は予想どおりでつまらない.大きな変曲点が現れたり,直線でも少し勾配の異なる折れ線となったときは「しめた!」と思ったものである.その変曲点の前後で何か現象や物質の構造等に変化や異状が生じているのである.新発見かとわくわくした.たいていはぬか喜びに終わったけれど.ある時,グラフ上で10点くらいの少しばらついた測定点に対して何気なく直線を引いていたところ,これを見た上司のT氏が「佐藤,何を見ている!そこに変曲点があるぞ」と指摘された.それから「曲がっている」,「曲がっていない」としばらく議論した.結末はもう忘れてしまったが,当時は企業の研究所にもそのようなのどかな時代があったのである.今,懐かしく思い出している.