2017年12月 当たり年

201712 当たり年
 
 高校3年の時,蓄膿症の手術で1週間ほど入院して以来,60年間,幸運なことに手術も入院もすることなく過ごしてきたのに,この秋から2回もの手術とそれぞれ,7日間,9日間の入院生活を送るはめになった.以下にその顛末を述べよう.去る7月,横浜市の健康診断を受けた所,便に血液がわずかに認められたので精密検査を受けた.大腸がんの疑いということで内視鏡検査を受けたところ,大腸に3cmほどのポリーブが見つかり,内視鏡による粘膜下層剥離の手術を勧められた.手術前に念のためにと胃カメラMRI検査を受けたところ,前者で胃内にも2㎝ほどのポリーブが見つかった.その際採取された細胞検査の結果,初期の胃がんだということが分かった.こちらも手術を要するが,先に見つかった大腸のポリーブ切除を先にすることになった.そのため,1025日,中区にある赤十字病院に入院,翌日手術が行われた.肛門から内視鏡を挿入,レーザーメスによる患部の除去に3時間ほどかかった.しかし,全身麻酔のため手術中は痛みもなく夢見心地であっという間に終わった感じだった.麻酔が抜けても痛みは全くなかった.そして点滴がはじまった.手術2日目は点滴のみ,3日目から重湯,三分粥,五分粥,ごはんと徐々に主食が重くなり,入院7日目にめでたく退院した.この間,時々妻が新聞等を持って見舞いに来てくれた.とにかく,どこも痛いところはなく普段の健康時と変わりがないのにやることもないから退屈なのである.新聞を隅々まで読み,持ち込んだ文庫本を数冊読んだ.パソコンを持ち込んだのは正解,メールやネットサーフィンに時間をつぶし,病院を隅々まで歩き回った.数年前に購入したものの,ほとんど見ることもなく放っておいた西部劇映画名作集のDVD(10)2回目の入院で見終わった.テレビカー(1000)も購入.これで800分間見られる.日中,やっている古い推理物の再放送ドラマを楽しんだ.もう亡くなっている俳優や今は名優と言われる大物俳優のかっての若々しい様子を見ることができた.結局,2回の入院で各2,4枚のカードを購入,前回見切れなかったカードは残り時間分を返金可能であった.毎日,担当の看護師さんが変わった.その人柄はさまざまであったが,彼女達は皆,献身的だった.朝,昼,晩と1日3回,血圧,体温の測定があった.担当のY医師は朝晩,「調子はどうですか」と病室に訪ねてこられた.医師の許可を得て退院1週間後からラジオ体操を開始,アルコール解禁は3週間後くらいからだっただろうか.手術時に採取した細胞検査の結果,やはり大腸がん,幹部はきれいに除去されていますから,1年後また検査しますとのことだった.
 そして,去る125日,また入院,偶然にも病室は前回と同じ7階のカーテンで仕切られた4人部屋の一つだった.翌6日,胃がんの手術,こんどは喉から内視鏡を挿入,やはりレーザーメスによる患部の剥離が行われた.喉を麻酔しているとは言うもののカメラが喉を通過するときは痛かった.手術は1時間くらいか,術中は前回より痛かった.大腸がん手術より大事(おおごと)なのだろうか,前回と同じY医師の言動,手術前後の処置の様子からそのように感じられた.術後2日目に行われた胃内の様子を確認するための内視鏡検査も痛かった.わずかに見られた出血個所はレーザーで焼き,処置したとのことだった.術後は絶食,重湯と水を飲むことを許可されたのは3日目からだった.点滴が取れたのは6日目で,点滴中はトイレ等への移動も薬液入りの袋を吊るしたスタンドと一緒のでまったく不便である.これが不要になっただけでホッとした.点滴が取れた時,シャワーを許可されさっぱりした.入院期間は前回より2日多い9日間,この間の過ごし方は前回とほぼ同じ,退屈なのは回復が順調の証拠か,去る1213日無事退院した.本日(20)からラジオ体操を開始,残念ながら,正月はノンアルコールである.解禁日が待ち遠しい.
手術前は太り気味だったが,2回の入院で手術後の絶食,重湯,三分粥等の病院食により体重は4 kgほど減り,身体が軽くなったようで快調である.でも,食欲があるのでリバウンドが恐ろしい.“欲すれども法を超えず”からは程遠い状況である.ダイエットを望まれる方にはポリーブの除去をお勧めしますというのは悪い冗談であるが,それにしても,手術2回,今年は当たり年だった.来年はもっと良い年になりますように.対外的な活動も少なくなるので何か新しいことを始めようと考えている.

2017年11月 散歩

201711月 散歩
 
 定年後,外出の日以外はできるだけ歩くようにしている.週3, 4日になろうか,一日一万歩前後を目標にし,横浜市内を歩き回っている.デイジタルカメラを持ち歩き,気に入った場面があれば撮影している.外出の日も列車や地下鉄の乗り換え時のホーム間の距離が結構あり,一万歩近くになることが多い.姿勢よくと心がけるのだが,いつの間にか何か考え事をしており,背中が丸くなっていることが多い.これを越後の方言で“せぼんこ”という.散歩時はできるだけ同じ道を歩かないように心掛けているが,定年後8年目も半ばを過ぎるとマンションを起点とした半径6-7 km範囲内の道路はほとんど歩きつくしてしまった.少し,大げさか..地図は持たず,周りをきょろきょろ見回しながら行き当たりばったりで歩いている.地図を持つとそれに気を取られ周りを見なくなるからである.その際,いつも困るのが,地図を持たないためであるのだが,今,自分のいるところがどこかわからなくなることである.道路標識が少ないとつくづく思う.また,電柱や主な建物の入口などに地名表記があればと思う.バス通りなどの少し広い道ではバス停留所を見つけると安心する.この道を行けばどこにたどり着けるかなども確認できる.しかし,そこに何年も何十年も住み続けている地元の人には地名番地,道路名などは熟知しているから,その表記がないことなど気づくはずもない.市役所のしかるべき部署が一定の基準を設け,市内の道路に表記があるか,地名,所番地の表記があるかをチェックし,ないところには外国語表記も含めて,その処置をしてほしいものである.道がわからない時,傍らのスーパーとかコンビニに立ち寄り,従業員に尋ねてもわからないことが多い.なぜなら,彼らは地元出身でなく,外国人を含め他所からのアルバイトや派遣社員の場合がほとんどであるからである.
 散歩していてうれしいのは,思いがけなく神社やお寺に出会うことである.その際は,10円,50円,もしくは少し弾んで100円のお賽銭を賽銭箱に入れ,お参りするようにしている.現役時代には考えられなかったことだが,年を取った証拠か.その際は月並みだが,家内安全,子供,孫たちの健康と後者の学力増進,時にはよからぬことも思い浮かべながら参拝している.ここでも気になるのはその神社や寺の縁起を記した案内板等のない場合が多いことで.つくづく惜しいと思う.旅行のおりなどは,有名な神社,仏閣に参拝したとき,孫たちにとお守りを求めていたが,娘から3個も4個もたまっているからもう結構ですといわれてしまった.来春,4人の孫のうち,1人が大学,2人が高校受験であるが,もうお守りは結構などと言ってもいいのか.
前にも述べたように,家の近辺はほとんど歩きつくしたから,これからどうしようかと考えたとき,いいことを思いついた.行き当たりばったりで未だ乗ったことのないバスに乗り,終点,もしくは気になった名称の停留所に途中下車して,そこを起点に5 - 6,000歩ほど歩き,また,バス停留所まで戻ってくることである.これで行けるところが大幅に広がった.すでに,大船,戸塚,その他いくつかの所に行った.途中で乗り合わせる小,中,高校生たちの会話を聞いているのも楽しい.彼らの興味,話題などが伺われるからである.幸い横浜市では9,000円の初期投資をすれば敬老特別乗車証が得られ,市内なら,市営バス,相鉄バス神奈中バス,および地下鉄は1年間無料で乗り放題である.ありがたいことである.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年10月 5人の秘書

               201710月 5人の秘書


 私は定年前の4年間,工学部長を務めた.この間,5人の秘書の方々と一緒に仕事をした.その工学部長に就任して2年目の終わりから3年目にかけての約9か月のわずかな期間に5人の秘書が代わった顛末を述べよう.この時には全く往生した.5人をAさん,Bさん,Cさん,Dさん,Eさんとしよう.Aさんは私の前の工学部長時代からの秘書として仕事の良くできる,工学部の状況に通じた非常に有能な方だった.工学部は他学部に比べて学性,教職員の数が多く,膨大な仕事量があるからと昔から他の学部にはない工学部長付きの専任の秘書が存在した.数年前,その方が定年退職後,人件費軽減の観点からと思われるが,秘書が派遣社員で充当されることになり,Aさんが赴任されたのである.そして,同一職場には5年までしか在任できないという雇用法(正式法律名は忘れた)とかいう法律のために私の学部長2年経過時の3月退職された.3年目の4月から人事部では工学部長秘書として2人目のBさんを採用してくれた.Bさんは長年,国立研究所で事務職を務められた方とか,大いに期待したがわずか3か月で退職されてしまった.次に人事部の斡旋で人材派遣会社から推薦の3名と面接し,Cさんに来てもらうことにした.工学部の仕事内容は多岐にわたるため,その中身を理解するための見習い期間としてBさんとCさんの間で6月中旬から2週間程度,すり合わせが行われた.Cさんは30代後半から40代前半の女性で,研究室の学生たちとのコンパにも参加され,なかなかやる気のある方だった.しかし,やはり3か月ほどで9月には退職されてしまった.次はDさんである.20代の若い女性でここで辞められてはと思い,私なりに丁寧に対応したつもりだったが,やはり,12月は退職されてしまった.私のBさん,Cさん,Dさんとの対応の仕方がまずかったためか.私はせっかちである.彼女たちが未だ仕事に慣れないうちから,あの書類はどうなった,この書類の完成は未だかなどと催促したのが原因かと反省もしたが,どうもそればかりではなさそうだということにようやく気が付いた.上記にも述べたように永年,秘書は工学部のみに配属された.しかし,他の学部長からの工学部のみが優遇され,不公平であるというもっともな主張で,この年から,他の学部にも専任の秘書が配属されることになった.ただし,仕事量の関係から,法学部と経済学,外国語学部と人間科学部の兼任(組み合わせは異なっていたかもしれない)担当で2名の秘書が工学部とは別に新たに採用された.しかし,実験を行うための物品購入等の予算管理がなく,予算規模も小さいそれら文系の学部で,彼女たちは仕事量が少なく暇なのである.他方,工学部秘書の仕事量は膨大である.5学科,4教室に属する数十の研究室の物品購入等の予算管理,毎月行われる工学部教授会の資料作り(120-30ページにもなる配布資料を100数十部作製),主任会議資料の作製,人事委員会の資料作製,外部から舞い込んでくる多量の郵便物,書類の分類整理(もし,この分類を誤ると必要資料が見つからなくなる)等々,枚挙にいとまがない.不幸なことに,学部長室は人間科学部,工学部,経済学部,外国学部,法学部と同一階に並んでいる.各学部長室の扉は教職員が入りやすいようにと常に開かれているか,閉じられていても素通しのガラス越しに内部が,また,内から外の廊下もよく見える.工学部長秘書のBCDさんが必死に仕事をしている中,上記2名の文系教授室の秘書さんたちは互いに行ったり来たりしておしゃべりしたり,お茶を飲んだりしているのである.昔からの習慣からか,工学部長以外の各学部長は自分の教授室にいることが多く,学部長室在室時間は非常に少ない.4時30分になれば,さっさと彼女たちは帰宅する.他方,工学部長秘書のみが山のような仕事を抱え,時には残業もしなければならない.これでは同一給料で,普通の感覚の女性ならば,長続きしないのは無理もないのではなかろうか.私にとって5人目のEさん採用の時は,学長に呼ばれ「佐藤さん,どうなっているんですか」と言われた.暗に私の秘書さんたちへの対応に問題があるといわんばかりの口ぶりだった.私は状況など説明せず「今後,気を付けます」と早々に学長室を退散した.Eさん採用の面接時には,このような状況を縷々説明し,それでも来ていただけるかと念を押した.ありがたいことにEさんは秘書としてのプロ意識に徹し,私の残りの任期1年3か月間,よく私に協力してくださった.退職時には,花束をいただいた.次の工学部長にもよく仕えられた.退職1年後の私の誕生日に,Eさんから招待を受け,懐かしい工学部長室に呼ばれ,現工学部長とともに私の誕生祝ということでケーキをいただいた.今もAさん,Eさんとは年賀状の交換をしている.
 話は変わる.ある時から私の研究室配属学生に女子学生の応募のない年が数年間続いた.女子学生間に「佐藤先生は女子学生に厳しい」といううわさが立ったためらしい.私は男女平等であり,女子学生にも男子学生と同じように区別なく対応していたが,それが一部の女子学生には非常に厳しいと映り,そのため敬遠されたらしい. 
また,別の話.私の郷里の小千谷市長を務められたY氏は退任後,農業に転じ,トマトの水耕栽培を始められ,農業協同組合にも加入された.その農協新聞に載っていたインタビュー記事である.「市長から農業に転じられ,最も困難に感じられることは何ですか」「農作業は一人ではできません.妻の協力が必要です.彼女が機嫌を損なわないよう,気持ちよく農作業に協力してくれるようにすることがもっとも難しいです」 これにはいずこも同じと思わず笑ってしまった.それにしても,妻を筆頭にして女性との対応は難しいものである.


2016年9月 テレビに出演した話 その2

20179月 テレビに出演した話 その2
 
 先月の話から,しばらくしてまたNHK TVに出演した.今度は“なるほど経済:あなたの知らない電池の秘密”と題する経済番組で,電池が如何に人々の生活に入り込み役立っているかという内容だった.中央線のある駅に下車,女性アナウンサー(名前は失念) と徒歩10分くらいの家にお邪魔した.夫婦と小学生以下の子供3人のお宅だった.あらかじめ連絡してあったのか,おもちゃや時計など,その家で使われている電池をそれぞれの器具から取り出し,山のように並べてあった.さらに私が気づきにくいガスコンロ,電気釜などからアルカリ乾電池やボタン形リチウム電池を取り出した.数えてみたら,6種類,105個もあった.複数個の電池を使用する場合は入れ方を間違えないこと(例えば4個のうち1個だけ入れ方を間違えても懐中電灯は少し暗くなるが点灯する.その場合,放電時も1個だけが充電されることになり,水が電気分解され,ガスが発生して漏液し,運が悪ければ破裂する),複数個の電池を取り換えるときは同時に新品とし,使用時間の異なる新旧の電池を混入して使用しないこと,その他いくつかの注意点を話したことを覚えている.帰り道で,アナウンサーに「毎日,まったく異なる内容でそれぞれの分野の専門家と接触し,その対応のために専門知識を仕入れなければならず,よくそんなことができますね」と尊敬の念を込め,以前からの疑問をぶっつけると彼女は「慣れですよ.さっきまでのことはすぐ忘れ,これからのことに集中するんです」とこともなげに答えた.
 ある時,日本テレビから電話がかかってきた.当時の人気番組“伊東家の食卓”に出演してほしいとのことであった.この番組は父親役の伊東四朗氏,母親役の五月みどりさんと子供たちが生活に役立つ,思いもかけない“裏ワザ”を披露する内容だった.私への依頼内容は,停電時,懐中電灯を点けようとしたが単1乾電池が手元になく,あるのは単3乾電池だけである.電池の背丈が足りないので長さが単1形になるよう10円硬貨を何枚か挿入して調節し,電池の周りを紙で巻いて太くして間に合わせた.これで懐中電灯は点くが問題ないかというものだった.硬貨間の接触抵抗が増加し,少し暗くなり,熱も発生するかもしれないが,長時間使用しなければ問題なしと答えたが,その辺のことを詳しく説明してほしいので,研究室を訪問したいとのことであった.約束の日時に一人の30代の男性が撮影用の大型カメラを持って研究室に現れた.彼がいろいろ質問し,それに私が答える場面を彼は撮影した.質問内容は的確であった.私が「一人で司会役から撮影まで大変ですね.失礼ですが,大学でどのような勉強をされたんですか」と質問すると「なーに,工業高校卒ですよ.専攻は応用化学.アルバイトでTV局に出入りしているうちに見様見真似で技術を身に着け,採用され,今日までやってきました」と答えた.すごい努力をされたのであろう.私はとても感動した.一人二役,それに比べ,先月で述べたNHKTV撮影のなんと豪華なこと.ディレクターと助手,カメラマンとその補助者,司会者,美容師等6人,あるいはそれ以上の人が撮影にかかわったと思われる.NHKTV聴取料を取っている.番組製作費も人件費も潤沢なのであろう.どうか,良い番組を作り続けてほしいものである.それにしても貧乏根性が身に着いた私には時々,無駄でないかと思われる場面もある.例えば毎日,夕方の1時間に満たないニュース番組に男性アナウンサー2名,女性アナウンサー2名,4名ものアナウンサーが出演するのである.それに女性レポーター,天気予報士等々.きれいな若い女性が次々現れるのは楽しいが,それにしても・・・・.

2017年8月 テレビに出演した話

20179月 テレビに出演した話
 
 最近は感度も鈍くなってあまり目新しいことにも気づかなくなったので,昔話で勘弁してほしい.
これまで数回テレビに出演したことがある.その体験のいくつかを述べよう.かってNHKテレビの教育放送番組の一つとして高校生向けに“スクール五輪の書 科学の巻 発想ミュージアム”という30分番組があった.これに出演し,電池の起源,原理,当時,これから間もなく流布しようとしていた薄型リチウムイオン電池の話などをした(録画のDVDを見ると19989月だった)
まず,NHKのスタジオに着くと化粧室に案内され,美容師さんから生まれて初めて顔にドーランを塗られ,その後スタジオに入った.デレクターから,番組の流れと司会の久保恵子さんとのやり取りの会話内容の説明があった.あらかじめ,当日のシナリオの分厚い台本が送られてきていたが覚えきれるものではなかった.何とかなるさとほとんどぶっつけ本番で録画に臨んだ.人気タレントの久保さんは当時,NHK Eテレの司会を務めていた.偶然にも私の勤務していた神奈川大学の近くにある,名門の捜真(そうしん)学院(1886(明治19)創立,現在は女子のみの小,中,高一貫校,小学校には若干男子もいるようである) の出身である.その後,彼女は上智大学 理工学部(ミス上智)明治薬科大学 薬学部を卒業し,薬剤師の資格も持つ才媛で,前者では当時,世界の最先端の高分子電解質の研究が進行中の緒方研の出身であった.卒論はリチウム二次電池の研究だったとか.私が電池の起源の話や,ボルタの電堆のモデル実験をする際,久保さんが時々高校生の立場から質問をし,これに私が説明するのである.しかし,幸か,不幸か彼女の高い専門知識のゆえに,質問内容が専門的になりすぎたり,私が質問の回答をする前に,彼女が先回りして答えたりして,何回かNGを繰り返した.もっとも,お相子で,私も例によってどもったり,適切な言葉が直ちに口から出ず,言い直したりして彼女やスタッフの皆さんに迷惑をかけた.30分番組の,私の出演部分はほんの15分位なのに,録画は午後1時ころから始まって,夕方までかかった.NHKの建物を出るときにはぐったり疲れたのを思い出す.番組では,ほかにコメデイアンのIKKAN氏がキットを用いて乾電池を自作し,豆電球を灯したり,秦野南が丘高校の久保田宏先生が行った,カエルの足を使って,電解液にこれを浸すとブルブル震えるガルバーニ動物電気のモデル実験などからなりたっていた.
ある時,講義の合間にこのTV録画を学生諸君に見せた.私の下手な講義では笑いを取ることはまずないが,この時ばかりは,私が登場するとドッと教室が沸いた.別の時,“伊藤家の食卓”の録画を見せたら(詳細次回),ある学生の授業の感想メモに,「先生はちょっと不謹慎です」と書いたものがあった.きっと,冗談の通じない,まじめな学生なのだろう.
話は変わる.私が小学校低学年のころ,夕方のNHKのラジオ放送に“坂西志保のアメリカだよりという15分番組があった.もう,70年も前のことである.タッタターン,タッタターン・・・ という番組の開始を知らせる軽快なメロデイが流れるとラジオに耳を傾けたものである.今でも最後まで口ずさむことができるが,その素養がないため,メロデイを音符に書き表せないのが残念である.70代後半以上の方でこのメロデイを覚えていらっしゃる方もおられるのではないだろうか.戦後間もないころ,ほとんどその様子の解らなかったアメリカの普通の市民の生活の様子などが中西氏の声で聞けたのである.今ではもうその内容をすっかり忘れているが,興味深く,大好きな番組だった.普通の家庭にも自家用車が2台以上もあり,電気冷蔵庫があるなど,当時の我が国の貧しい状況と比べ,夢のようだったことだけは覚えている.
長々とわき道にそれたのは,この坂西氏(1896(明治29) - 1976(昭和51) が上記の捜真学院の古い卒業生なのである.その後,坂西氏は日本女子大(中退)関東学院中学校高等学校教師を経て,アメリカに留学,ミシガン大学大学院で哲学博士の学位を取得した.アメリカ議会図書館日本課長に就任し,日本文化に関する書籍・資料の収に収集に当たったが,太平洋戦争のため1942年,日本に強制送還された.帰国後は外務省の嘱託やNHKの解説委員等を務め,アメリカの国情についての解説や分析に当たった.
また,外務省をはじめとする国の各種委員会委員を務め,立法,行政,教育分野について積極的に発言した.神奈川県大磯町立図書館に蔵書が寄贈され,「坂西文庫」と名付けられている.(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%A5%BF%E5%BF%97%E4%BF%9D)による.
以下次号.

2017年7月 ブリューゲル”バベルの塔” 展

20177月 ブリューゲルバベルの塔」展
 
 去る6月中旬,大雨の中,東京都美術館で開催中のブリューゲルバベルの塔」展を見に行った.妻を誘ったが,彼女はこれまで体験している絵画展のあの人混みを思い出すと嫌だと断られたので一人で行った.ちょうどシルバーデイとかで高齢者は無料,思わぬ拾い物をした.930分の開館を目指していったのでそれほど待つこともなく会場には入れた.さすがに“バベルの塔”の前はすごい人混みだったが,そこだけ絵の前にロープが張られ,立ち止まらないようにという案内人の指示のもと,ゆっくりと人の群れが流れ,間もなく目的の絵の前にたどり着けた.ただし,立ち止まれないからゆっくりとは見られない.列から外れロープの外に出,持参した双眼鏡で今度はゆっくりと見た.圧倒されるようなすごい絵である.雲を突き破り,建設途中の巨大なレンガつくりの赤褐色の塔が描かれている.離れてみると点のようにしか見えない作業中の人物も双眼鏡の視野の中ではちゃんと手足が描かれ,それぞれの作業に応じて何をしているかが解る.巻き上げ機や滑車など高層建築に必要な機材も詳しく描かれている.正確な数を忘れてしまったが,確か千人以上の人物が描かれているとか.よくまあ,数え上げたものだ.ブリューゲルは生涯に3回,バベルの塔を描いたといわれている.最初の作は失われ,現存するのは後の2枚,今回の展示品は他の作品も含めてすべて,オランダ,ロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館所蔵のもので16世紀半ばの2番目の作品である.私は1563年制作といわれるウイーンの美術史美術館所蔵の3番目のバベルの塔も見たことがある.今から20年ほども前だっただろうか,学会でハンガリーに出張した折,ウイーンに立ち寄ったのである.ここにも何点かのブリューゲルの作品があった.私が最も好きなのは“雪中の狩人”である.夕暮れ時,3人の狩人が10数匹の犬を連れて狩りから戻り,これから我が家に帰っていく途中の崖の上にいる構図である.不猟だったらしく,獲物は猟師の1人が背中に吊るしている狐1匹,3人も犬達も頭を垂れている.崖の下の凍った池ではスケーをする人たちが,さらにその先に教会や家が点在し,遠景は雪の積もった鋭い峰の連なった山々である.無意識のうちに近寄って額縁に接するようにこの絵を見ていたらしく,センサーが働き監視員が駆けつけてきて恐縮した.
小学生のころ住んだ我が家は街の大通りから外れた里山近くにあった.冬の雪晴れの夕方,スキーをしている子供たちの傍らをかんじきを履き,鉄砲を担ぎ,細縄で編んだ袋を背負った猟師が通り過ぎることがあった.袋の中にはウサギや雉が入っていた.上記の絵が好きなのは子供のころ体験したこの光景からの連想かもしれない.コピーを額縁に入れ,画集とともに時々眺めている.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年6月 床屋の流儀

20176月 床屋の流儀
 
 毎月1回,10数年にわたってお世話になっていた床屋をついに変えてしまった.伊勢佐木町にあるその床屋はマスターと奥さんと通いの男性,女性の4人で流行っていたが,数年前から少し体の調子の悪そうだった奥さんが店に出なくなった.また,男性がいなくなり,マスターと女性2人になってしまった.マスターは非常に丁寧で腕がよく,この人に頭を刈ってもらうと髪の毛の伸びが遅いようで,次に行く間隔が1か月半くらいに伸びた.その代わり散髪時間も他の人より10分くらい長かった.マスターに当たるのは運次第.ある時,順番を待っている先客が一人いた.女性の刈手の客が終わったとき,その人は「自分はマスターに刈ってもらいたいからお先にどうぞ」と譲られたこともあった.しかし,寄る年波か,そのマスターが今年の初めころから,店から引っ込んでしまい,刈手は女性2人になってしまった.それでもその店は繁盛しており,いつも2, 3人順番待ちである.開店は朝9時,私の家からは5分くらいであるから,9時を目指して,数分前に店に行くと未だシャッターは閉まったままなのにもう2, 3人が店の開くのを待っている.これでは自分の番はあと,40- 50分後になるから,店内で待っているのもばかばかしいので家に戻り,次の番の時間を見計らっていくとまたも2, 3人順番を待っている.仕方がないから家に引き返すことを2, 3回繰り返し午後になってからようやく刈ってもらった.こんなことを数か月繰り返した今月初め,何もこの床屋に固執することはないなと思い直し,そこから数百メートル離れた別の床屋に行った.そこは回転いすが5-6台あり,まだ空いている椅子もあり,すぐ刈ってもらった.帰るときカードを渡された.1か月以内に再訪すれば100円引きとのことであり,カードには・バリカンを少し入れる,・眉毛の下は剃る,・髪は右分け等々散髪時の心覚えがいくつかチェックしてあった.なかなか合理的で気に入った.いつも床屋に行くと髪はどのくらいにしますか,バリカンは? 最後に何を付けますか等々,さすがにマスターはプロ,数十人と思われる常客の髪型,癖等をすっかり記憶しており,何も言わなくてもよかったが,他の店員の時は毎月同じことを聞かれたから,この辺で店も変え時かなと思っていた.
 高校時代までよほどのことがない限り,散髪はバリカンで母にやってもらっていた.経費節減のためである.時々,虎狩になった.大学1年の5月だったか,6月だったか,初めて生協の床屋に行った.70円だった.髭を剃ってもらっていた時,刈手の若い女性から突然「お客さん,眼を閉じていてくれませんか」と言われた.自分は意識するともなく彼女の顔をぼんやり眺めていたらしい.美人だったかどうか,顔つきなどもすっかり忘れているが,それ以来,床屋で髭を剃ってもらうときは眼を閉じている.
 学会で京都に行った時である.床屋に行くタイミングを逸し,あまりにも髪の毛が伸びすぎて鬱陶しくなったので,学会が終わってからか,途中だったか忘れたが,床屋に行った.びっくりしたのは髪を洗ってもらった時である.それまで髪を洗うときは洗面台の方に前かがみさせられていた.ところが,この時は回転椅子を急に鏡と反対側に反転させ,洗面台の方に仰向けにされ天井を見ながら,髪を洗われたことだった.京都や関西方面ではどこもこのような方式なのだろうか,確かめようと思いつつも果たせないでいる.
 十数年前,カナダのハリファックス3か月間滞在した時,2回ほど床屋に行った.おどろいたのは,はさみで髪の毛を切るだけで髭剃りがないことだった.万一,カミソリで顔に切り傷を付けたときエイズの感染を避けるための防御措置とのことだった.なんと我が国の安全なことかとつくづく思った.
 
追記
 3月分までの文章をまとめ出版しました.ご高覧いただければ幸いです.
 書名 「カラスは白い」 文芸社 (定価 : 1,300円 + 税).