2023年11月 記憶 その4

  何十年も気が付かなかった俳句の顕額に気づいたのも78歳の頃から俳句を始めた影響であろう。毎日、2、3句を作ることを目標にしているが、駄句ばかり溜まっていく。最近嬉しかったことは、朝日俳壇に高山れおな選(朝日新聞10月29日付け)で下記の句が採られたことである。きちきちとはばったのことである。

  きちきちの緑色の眼空虚なり

いつか、句集をと願っているが、時間との競争である。

 近所の桐箪笥屋のお祖父さんが大菊作りを趣味にしておられた。桐箪笥と言えば、片貝には桐の木が多かった。女の子が生まれると親は敷地内に桐の苗を植えた。それが育って、女の子が結婚する頃、その桐を切り倒して箪笥を作り嫁入り衣装として持たせたとか。小学4年生ころだっただろうか、6月初めのある日、学校帰りだったかどうかは覚えていないが、そのお祖父さんが玄関先で菊の苗を植木鉢に植え替え作業をしておられるところに行き当たった。お前さんもやってみるかと菊苗を3本ほど分けてくださった。早速、家にもって帰り、父の持っていた素焼きの植木鉢に腐葉土とともに植えた。初めは直径15 cmくらいの鉢に、7月初め、背丈も大分伸びたころ、直径30 cmの10号鉢に植え替えた。肥料は油粕、脇芽は摘み取って一本立ちにした。倒れないように細い竹の支柱を立て茎を結び付けた。今はもう専用のプラスチック製の支柱が販売されているが当時、そんなものはなかった。8月末から9月初め頃になると数個の蕾を付けた。これを見つけたときは嬉しかった。数週間たち蕾が1,2cmになったころ、2個だけ残し、あとは摘み取った。さらに大きくなり、花びらの色が見えるころ、これを本仕立てにするため、より大きな方を一個だけにした。細い針金で直径15 cmくらいの渦巻き型のリングを作り、蕾の下側から注意中心部に水平に入れ支柱に括り付けた。花が開いたとき花びらが下に垂れないように支えるのである。この作業は最新の注意が必要だった。その頃は台風の季節でもある。大風のに日は鉢を玄関に入れ雨風から守った。直径15 cmから20 cmくらいの見事な大輪が開くと嬉しかった。玄関先に出して通りを行く人に見てもらった。ある年、今にも咲きそうな蕾が折られているのに気づいた。犯人は次弟だった。好奇心に駆られ、いじっているうちの蕾が取れてしまったのであろう。つい、こちらもかっとなって彼の頭に思い切り拳骨をくれた。彼は今もそのことを覚えていて、事あるごとに、あの時の拳骨は痛かったと言っている。この菊つくりは中学生になったころから、勉強その他で忙しくなり止めてしまった。家が二之町の街中に引っ越し、腐葉土入手が困難になったことも理由だった。

 酒座川を2-3 km下ると鴻巣の方から流れてくる川(清水川といったような気がするが定かでない)と合流し、須川と名前が変わった。川幅も5、6 mとなり、田圃で灌漑用水の役割も担っていた。さらに北の方、数km先は来迎寺駅近く、信越線の列車の走っているのが見えた、この川によく釣りに出かけた。4月の末になると雪解け水も暖かになり、魚の動きも活発になった。餌は蚯蚓でハヤやジンケン(うぐいのこと。肌がピカピカ光って人絹のようにみえたからだろううか)がよく釣れた。たまに鮒や鯉、鯰も釣れた。7月には日照りが続く。田に水を引き入れるためか、川がせき止められた。急に堰の下流の水深が浅くなり、溜まっていた小魚があちこちでぴちぴち跳ねた。ある時、運よくこの場面に行き合わせ、手掴みで沢山のハヤ、ジンケン、タナゴ、鮒等の小魚を捕まえることができた。ふと脇を見ると川の隅に潜んで、背中を半分ほど水面から出した数十cmの大きな鯉に気づいた。誰にも気づかれぬようにそっと近づき、ズボンの濡れるのも構わず、鯉の頭を自分の方にむくよう座り込み、鯉を両手で股に引き寄せ捕まえることができた。意気揚々と家に持ち帰り、母の裁縫箱から物差しを引っ張り出し、鯉の体長を測ったら7寸あった。1寸は約3cmであるから21cmである。しかし、私の感覚ではもっと大きかった感覚があり、長くそのことが気になっていた。大人になってから、本か、新聞かは忘れたが、「鯨尺」という言葉を知ってハッと気が付いた。鯨尺とは呉服、反物などを取り扱う際の単位で同じ1寸でも約1.79 cmである。あの時の物差しは母が裁縫をするとき使用するのものだったから鯨尺に違いない。するとあの時の7寸は約26.5 cmになり、21 cmよりかなり大きくなった。それでも、私の記憶ではもっと大きかったような気が今もしているのである。 以下次号