2023年10月 記憶、その3

 酒座川の上には両岸から栗の木、藤ノ木、その他の雑木が川を覆うように茂っていた。子供たちはそれらの木に登り、木の枝から枝へ渡り継いだり、藤の弦にぶら下がって、揺すっては対岸の木に乗り移って得意になっていた。ちょうどその頃はやっていた映画、「ターザン」の真似をしていたのである。当時のターザン役はワイズミューラー、オリンピックの100メートル自由形競泳の金メダリストだった。ターザン役は数代続いたが、ワイズミューラーが最も恰好がよかった。ある時、小学校の講堂(当時は運動場と呼んでいた)で、そのターザン映画の映写会があった。児童たちが板の間に座って鑑賞するのである。映写機を操作するのは男の先生。映画の途中で突然画面が暗くなり、何も見えなくなった。先生が教育上好ましくないと判断されたのであろう。ターザンと妻のジェーンのラブシーンの場面で投影機のレンズの前を手で覆ったのである。ところが、手を離すのが少し早すぎて、二人が離れるあたりから、画面が映った。何もわからない、まだ幼い悪ガキたちはなんだ、なんだと騒いでいた。

 川の対岸の雑木の後ろには樹齢数十年の杉の木が数本並んで生えていた。父の子供の頃から有ったとか。高さは20メートル以上あっただろうか。今も同じようにそこにあるから、もう樹齢は100年以上になろう。枝おろしなどの手入れはされていないから、次々と枝に手を掛けると、子供でも容易に上に登っていけた。また周りにも枝が繁茂し、下の方が見えないから怖くはなかった。杉の天辺近くから眺めた景色は爽快だった。今も帰省するたびにその杉の木を眺めるとあの頃のことが懐かしく思い出される。

 家の近くには、山口姓が氏子の神明社があった。周りは鬱蒼とした杉の大木に囲まれていて、境内に100坪にも満たない平地があった。ここで、三角ベースの野球をした。夏休みの始まる8月1日からは毎朝、8時ころここに近所の子供たちが7-8人集まって夏休み学習帖を持ち寄って宿題をやった。その時使った花御座が数年前まで物置に残っていたがどうなったか。一週間くらいで天気予報とか、読書感想文、自由研究を残して宿題は終わってしまうのでそのまま朝の集いは終りになった。神社の建物は高床式で、素通しだったから床下に潜り込めた。地面には蟻地獄が住んでいて小さな穴をいくつも開けていた。蟻を捕まえてきてはこの穴に落として蟻地獄が食いつくのを見守って遊んだ。

 数年前、帰省した折に俳句の顕額が2面神社の軒に打ち付けられているのに初めて気が付いた。長く風雨に曝されて文字は残念ながらほとんど読み取れないがかろうじて末尾の明治4年明治22年が読み取れる程度である。最新の機器、例えば赤外線カメラなどを使えば俳句やその作者なども読み取れるのであろうが。片貝の俳句は江戸時代から盛んで、明治42年「時雨会」が始まって現在まで続いている1)芭蕉肖像画と俳句の書かれた脇に代々の時雨会会長名が記された掛け軸と40センチくらいの芭蕉の木彫りの像を飾って句会が開催されている。江戸時代中期には会津方面まで募集した俳句を北信濃の一茶のところまで持ち込み、筆の柄の捺印(五点法)で評価し三点以上評価を得た一万句を超える句が一ノ町の観音様収められているとか。以下次号

 

  • 阿部修司「東京片貝会会報」第92号、平成7年12月25日。