子供の四季  九月

子供の四季  九月
  お祭り
8月も20日過ぎになると夜、それぞれの町内の集会所に小学上級生や中学生が集まって、大人数人の指導のもと、お祭りのための“しゃぎり”の稽古が始まる。この懐かしい笛、太鼓の音が聞こえるころになると大人も子供も99, 10日のお祭りへの期待感が膨らんでくるのである。
9月1日には一之町のはずれの街の入り口ともいうべき清水橋の際に道路の両側を挟んで高い柱が2本立てられ、長く白い旗が取り付けられた。旗にはどんな文字が書かれていたか覚えていないが、たぶん”浅原神社秋季恒例祭”といった内容ではなかっただろうか。町の総鎮守ともいうべき三之町にある浅原神社の祭礼で昔から曜日に関係なく行われてきた。江戸時代から花火が打ち上げられ、神社に奉納する花火の玉送りが各町内から繰り出された。子供たちの玉送りは子若と言い、荷車に神輿を載せ、子供たちは数メートルの綱2本につかまり、引きながら木遣りを歌い神社まで練り歩くのである。これに続き、しゃぎりが大活躍をする。まだ小さい子供のころ、りりしく笛を吹き、太鼓をたたく上級生たちが頼もしくまぶしく見え、憧れた。私の家は町内をあちこち転居したので中学、2年生の時初めて笛を吹く仲間に入れてもらうことができた。1891(明治24)、わが国で初めて三尺玉花火が打ち揚げられたことから、神社の境内には「三尺玉発祥の地」の石碑が建っている。1985(昭和60)には本田善治氏の執念が実って、四尺玉が打ち揚げられた。これを今も世界で打ち揚げるのは片貝だけ、ギネスブックに登録されているはずである。片貝の花火はほとんどの場合、個人や有志仲間が身銭を切って自前で揚げる。私は中学3年生の時、当時中学校で発行されていた校内新聞「片中タイムス」にお祭りに花火を揚げるのを止めようという趣旨の大論説を書いた。戦後十年たったとはいえ、当時の片貝は貧しかった。両親たちが必死で働き、ようやく生活していたころ、たった数秒の花火のためにお金が浪費されるように見えたのに我慢が出来なかったのである。友人たちからは猛反発を食らった。大人になってからも、亡くなった花火気違いのYからは「おまえは花火に反対なんだよな」とよくからかわれた。最近は私も少し考えが変わり、花火は単なる浪費ではなく、肯定的に花火も文化であると思えるようになってきた。花火を作る職人の高い技術、打ち上げる技術、打ち揚げられる花火を見上げる人々にはそれぞれ多くの思いが込められていることなど知るようになったからである。
境内にはシバタサーカスが掛った。少しうら悲しい“美しき天然”などのジンタの音が聞こえてくると早く神社に行きたいと小走りになったものである。当時、夕方暗くなるころまで外で遊んでいるとよく、通りかかった大人や親から「人さらいに連れて行かれ、サーカスに売られるぞ」と言われたものである。サーカス関係者にとっては迷惑な流言であったことだろう。サーカスもいつの間にか無くなった。
通りの両側には今と同じように食べ物屋やおもちゃ屋が並んだ。今も覚えているのは拡大器である。美空ひばり長谷川一夫、マリリンモンローの似顔絵が張られた脇で、この治具が売られていた。平行四辺形に細くて薄い木の板が四点でビスで止められ、自由に動くようになっていた。一か所の先端に鉛筆を差し込む穴が開けられ、他の箇所に先のとがった棒が付いていたようだ。この棒で自分が描きたい小さな顔写真や絵をなすると拡大されたそれらの写真や絵の輪郭が画用紙にそっくり拡大、転写されるのである。何回か買ったが、うまくいかなかった。絵画の技術がないとだめで似ても似つかぬお化け顔になった。
また、透視鏡というようなものも売っていた。「これで見るとなんでも透けて見えるよ。ただし、トイレに入ったお姉さんを見てはだめだよ」などとと香具師の口上がうまかった。つられて買ったが、確かに人を見るとあばら骨のようなものが、ちょうどレントゲン写真のように見えた。あとで分解してみたら、曇りガラスとガラス板の間に鶏の小さな羽がはさんであった。
さて、今年のお祭りは土、日と一部重なった。初めて花火を見せるために4人の孫たちをつれて帰省する予定である。桟敷席も確保した。あとは晴れの天候を祈るばかりである。
 
  お月見
お祭りも過ぎると夜空は冴えわたり、お月さまも満月に近づく。十五夜には畑から採れたての茹でたサツマイモやサトイモ、栗、梨、団子などを大きなお皿に盛って月の見える窓際にススキと一緒に飾った。子供たちは昼間から長い棒の先に凧揚げ用の糸を括りつけ、その先に大きな釣り針か、先を曲げた針がねを結びつけ、仕掛けを作った。これで隣近所のお飾りをつり上げ、失敬するのである。この日だけは泥棒も許された。窓から針金のついた糸がそっと入り込んでくると大人たちは気付かぬふりをして、イモや団子がつり上げられのを見逃した。子供たちにとっては大きなスリルだった。しかし、ある時から、泥棒はいけませんという先生の一言でこのような行事も無くなった。
 
  栗拾い
強い雨風の夜は床の中で明日が楽しみでわくわくした。この大雨に打たれて、たくさんの栗が落ちるからである。無論、栽培されている栗であるから、その家の屋敷内に入って拾うのはまずいが、大きな栗の木は枝を繁らせ、道路の方にまで伸びていた。そんな枝から道路に落ちたのをいただいてくるのである。先に誰かに拾われないうちにと朝まだ暗いうちにおきだし、懐中電灯で道路を照らしながら、栗を探した。艶やかで大きな丹波栗を見つけた時はうれしかった。多く拾えた時でも10個に満たなかった。毎日、数個拾えた栗を塩水を入れたすり鉢の中に浸し、溜めていった。塩水に入れると虫がつかないと教わった。ある程度量が溜まると母に茹でてもらった栗は美味かった。
山には山栗がたくさん生っていた。粒が小さいので皮をむくのがめんどくさく、これを採りに行った記憶はあまりない。ただ、8月末ころ、未だ実る前の山栗は、生のまま実を食べた。これはコリコリした歯触りで甘くて美味かった。
話は変わるが、当時の懐中電灯に入っていた乾電池はよく液漏れした。父がある時、充電式の手提げランプ形状の懐中電灯を買ってきた。当時はまだ、ニッケルカドミウム二次電池も小形の鉛蓄電池もなかったから、多分、塩化アンモニウム電解液の入った二酸化マンガン電池をだまし、だまし充電したのであろう。数回使ったところで壊れてしまった。マンガン乾電池アルカリマンガン乾電池などの一次電池は充電してはいけないことになっている。充電すると一部、水素ガスが発生し、電池が膨れて封口が破れ、二次電池のように安全弁のついた強固な電池構造になっていないから、液漏れなどするからである。しかし、放電深度の浅い、完全放電していない乾電池は小さな電流で充電するとある程度容量が復活するのである。一時期、乾電池充電器が発売されたが、上記の危険を伴うので、数年で市場から姿を消した。せっかく買った乾電池が液漏れし、懐中電灯も錆びてしまい使えなくなるのは悔しかった。まさか、電池のことが一生の仕事になろうとは当時、夢にも思わなかった。