子供の四季  八月

子供の四季  八月
  夏休み
 今日から夏休み、この日が八月一日からだったような気がするのだが、たとえようもなくうれしかった。朝食後、茣蓙(ござ)と「夏休みの友」、それに筆記用具を持って、近くの神明様(神明社山口氏の氏神)の境内に近所の子供たちが5-6人集まった。ここで朝の涼しいうちに宿題を片付けるのである。大きな杉の木に囲まれて境内は涼しかった。わからないところは上級生に教わったりしながら、机はないから、茣蓙に寝そべったり、背中を丸めて、膝の上で答えを書いた。子供のことだから長く続くはずもない。30分もするとごそごそ動き出すのがいて、勉強は1時間くらいで終わり、後は遊び放題だった。神社の床下に潜って、乾いた地面に点々とある小さなすり鉢状に凹んだ蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫)の巣に蟻を放り込んで蟻地獄がそれを捕まえるのを眺めたり、狭い境内で三角ベースの野球をしたり、かくれんぼをしたり、木に登ってターザンごっこをしたりした。ある時、小学校でターザンの映画を見せられた。その頃のターザン役はオリンピックの水泳選手だったというワイズミューラーで恰好よかった。映写中突然スクリーンが暗くなることがあった。何だ、何だと子どもたちが騒いだ。にわか映写技師の先生が、ターザンと妻のジェーンのラブシーンの場面になるとレンズの前を手で覆って映らないようにするのである。ある時レンズから手を離すのが早すぎて、二人が離れるあたりから画面が復活したことがあった。幼い田舎の餓鬼どもには何のことかわからなかったものもいた。
 話はそれたが、夏休みの朝学習は一週間くらい続いたのだろうか。そのころになると学習帳もほとんど終わって、あとは日記と天気の記入だからやることがない。重い読書感想文とか図画・工作は夏休みの終わりまで後回しにされた。自由研究などというのは未だなかったように思う。
 
  お墓掃除
 八月十日前後になると母が兄弟4人を引き連れてお墓掃除に行った。我が家には墓が二つある。一つは先祖代々の広さ20坪くらいの、もう一つは少し離れた仲使山の上のほうにあって5坪くらいのところに自然石がぽつんと立っている。こちらはその昔我が家に寄留中の女性が何かの病で亡くなられたのでほおむったとか。大きい方を下のお墓と言っていたがここに着くと母は兄弟それぞれに草取りの担当箇所を割り当てた。私にはお前は長男だからと少し広い面積を割り当てられた。10歳はなれた一番下の弟には割り当てられなかったのでないか。ちょろちょろと動き回り、皆から「じゃま、じゃま」などと言われていた。私が中学生になったころから、母は来なくなり、お墓掃除は子供たち4人に任された。その頃、新潟に単身赴任していた父は13日の夕方になると帰宅した。それから一家5人でお墓参り、墓地に来ると父はお参りをする前に周囲を見回し、きれいになっていると「合格」といった。下のお墓をお参り後、上のお墓に行き、お参り、そのあとはあちこちに数ヶ所ある親類のお墓をめぐってお参りをした。お参りの最後のお墓で灯をいただき、ほおずき提灯をともして帰宅し、仏壇にローソクをともしお参りをした。子供たちや甥、姪が小さい頃は小さい頃はほおずき提灯がいくつも暗い夜道にゆらゆら揺れた。
 
  カジカ突き
 家の前の田んぼの向こうを酒座川が流れていた。ここにカジカや沢ガニが住んでいた。夏の川は水が少なく、水深10-30 cmくらい。川が曲がり水流でえぐれている深みでも1 mもなかった。そんなところにはアブラハヤがいた。浅瀬のこれはと思う20-30 cmくらいの石をそっと持ち上げるとカジカが潜んでいた。これを割り箸を縦に剃刀の刃で2 cmくらい割り、間に木綿張りを2,
3本並べて埋め込み、針が抜けないように木綿糸でしっかり縛って作ったヤスで突くのである。カジカの平たい頭の辺りを狙って突き下ろすのであるが、良く逃げられた。それでも慣れてくるとうまく突けるようになり、それより上流は川幅も細くなり、水深が深くなってカジカもいそうにないところまでの300-400 mくらいの間に10匹くらい捕れた。捕ったカジカは藤の細い葉茎を1本とって先の3枚くらい残して葉を落とし、滑り止めとし、これにえらの間から口に向け突きさし吊るした。栃尾橋の所から這い上がって道路に出ると東の方に見える金倉山には入道雲が湧きあがっていた。持ち帰ったカジカは焼いて醤油を付けて食べた。おいしかった。