2017年10月 5人の秘書
私は定年前の4年間,工学部長を務めた.この間,5人の秘書の方々と一緒に仕事をした.その工学部長に就任して2年目の終わりから3年目にかけての約9か月のわずかな期間に5人の秘書が代わった顛末を述べよう.この時には全く往生した.5人をAさん,Bさん,Cさん,Dさん,Eさんとしよう.Aさんは私の前の工学部長時代からの秘書として仕事の良くできる,工学部の状況に通じた非常に有能な方だった.工学部は他学部に比べて学性,教職員の数が多く,膨大な仕事量があるからと昔から他の学部にはない工学部長付きの専任の秘書が存在した.数年前,その方が定年退職後,人件費軽減の観点からと思われるが,秘書が派遣社員で充当されることになり,Aさんが赴任されたのである.そして,同一職場には5年までしか在任できないという雇用法(正式法律名は忘れた)とかいう法律のために私の学部長2年経過時の3月退職された.3年目の4月から人事部では工学部長秘書として2人目のBさんを採用してくれた.Bさんは長年,国立研究所で事務職を務められた方とか,大いに期待したがわずか3か月で退職されてしまった.次に人事部の斡旋で人材派遣会社から推薦の3名と面接し,Cさんに来てもらうことにした.工学部の仕事内容は多岐にわたるため,その中身を理解するための見習い期間としてBさんとCさんの間で6月中旬から2週間程度,すり合わせが行われた.Cさんは30代後半から40代前半の女性で,研究室の学生たちとのコンパにも参加され,なかなかやる気のある方だった.しかし,やはり3か月ほどで9月には退職されてしまった.次はDさんである.20代の若い女性でここで辞められてはと思い,私なりに丁寧に対応したつもりだったが,やはり,12月は退職されてしまった.私のBさん,Cさん,Dさんとの対応の仕方がまずかったためか.私はせっかちである.彼女たちが未だ仕事に慣れないうちから,あの書類はどうなった,この書類の完成は未だかなどと催促したのが原因かと反省もしたが,どうもそればかりではなさそうだということにようやく気が付いた.上記にも述べたように永年,秘書は工学部のみに配属された.しかし,他の学部長からの工学部のみが優遇され,不公平であるというもっともな主張で,この年から,他の学部にも専任の秘書が配属されることになった.ただし,仕事量の関係から,法学部と経済学,外国語学部と人間科学部の兼任(組み合わせは異なっていたかもしれない)担当で2名の秘書が工学部とは別に新たに採用された.しかし,実験を行うための物品購入等の予算管理がなく,予算規模も小さいそれら文系の学部で,彼女たちは仕事量が少なく暇なのである.他方,工学部秘書の仕事量は膨大である.5学科,4教室に属する数十の研究室の物品購入等の予算管理,毎月行われる工学部教授会の資料作り(1冊20-30ページにもなる配布資料を100数十部作製),主任会議資料の作製,人事委員会の資料作製,外部から舞い込んでくる多量の郵便物,書類の分類整理(もし,この分類を誤ると必要資料が見つからなくなる)等々,枚挙にいとまがない.不幸なことに,学部長室は人間科学部,工学部,経済学部,外国学部,法学部と同一階に並んでいる.各学部長室の扉は教職員が入りやすいようにと常に開かれているか,閉じられていても素通しのガラス越しに内部が,また,内から外の廊下もよく見える.工学部長秘書のB,C,Dさんが必死に仕事をしている中,上記2名の文系教授室の秘書さんたちは互いに行ったり来たりしておしゃべりしたり,お茶を飲んだりしているのである.昔からの習慣からか,工学部長以外の各学部長は自分の教授室にいることが多く,学部長室在室時間は非常に少ない.4時30分になれば,さっさと彼女たちは帰宅する.他方,工学部長秘書のみが山のような仕事を抱え,時には残業もしなければならない.これでは同一給料で,普通の感覚の女性ならば,長続きしないのは無理もないのではなかろうか.私にとって5人目のEさん採用の時は,学長に呼ばれ「佐藤さん,どうなっているんですか」と言われた.暗に私の秘書さんたちへの対応に問題があるといわんばかりの口ぶりだった.私は状況など説明せず「今後,気を付けます」と早々に学長室を退散した.Eさん採用の面接時には,このような状況を縷々説明し,それでも来ていただけるかと念を押した.ありがたいことにEさんは秘書としてのプロ意識に徹し,私の残りの任期1年3か月間,よく私に協力してくださった.退職時には,花束をいただいた.次の工学部長にもよく仕えられた.退職1年後の私の誕生日に,Eさんから招待を受け,懐かしい工学部長室に呼ばれ,現工学部長とともに私の誕生祝ということでケーキをいただいた.今もAさん,Eさんとは年賀状の交換をしている.
話は変わる.ある時から私の研究室配属学生に女子学生の応募のない年が数年間続いた.女子学生間に「佐藤先生は女子学生に厳しい」といううわさが立ったためらしい.私は男女平等であり,女子学生にも男子学生と同じように区別なく対応していたが,それが一部の女子学生には非常に厳しいと映り,そのため敬遠されたらしい.
また,別の話.私の郷里の小千谷市長を務められたY氏は退任後,農業に転じ,トマトの水耕栽培を始められ,農業協同組合にも加入された.その農協新聞に載っていたインタビュー記事である.「市長から農業に転じられ,最も困難に感じられることは何ですか」「農作業は一人ではできません.妻の協力が必要です.彼女が機嫌を損なわないよう,気持ちよく農作業に協力してくれるようにすることがもっとも難しいです」 これにはいずこも同じと思わず笑ってしまった.それにしても,妻を筆頭にして女性との対応は難しいものである.