2017年8月 テレビに出演した話

20179月 テレビに出演した話
 
 最近は感度も鈍くなってあまり目新しいことにも気づかなくなったので,昔話で勘弁してほしい.
これまで数回テレビに出演したことがある.その体験のいくつかを述べよう.かってNHKテレビの教育放送番組の一つとして高校生向けに“スクール五輪の書 科学の巻 発想ミュージアム”という30分番組があった.これに出演し,電池の起源,原理,当時,これから間もなく流布しようとしていた薄型リチウムイオン電池の話などをした(録画のDVDを見ると19989月だった)
まず,NHKのスタジオに着くと化粧室に案内され,美容師さんから生まれて初めて顔にドーランを塗られ,その後スタジオに入った.デレクターから,番組の流れと司会の久保恵子さんとのやり取りの会話内容の説明があった.あらかじめ,当日のシナリオの分厚い台本が送られてきていたが覚えきれるものではなかった.何とかなるさとほとんどぶっつけ本番で録画に臨んだ.人気タレントの久保さんは当時,NHK Eテレの司会を務めていた.偶然にも私の勤務していた神奈川大学の近くにある,名門の捜真(そうしん)学院(1886(明治19)創立,現在は女子のみの小,中,高一貫校,小学校には若干男子もいるようである) の出身である.その後,彼女は上智大学 理工学部(ミス上智)明治薬科大学 薬学部を卒業し,薬剤師の資格も持つ才媛で,前者では当時,世界の最先端の高分子電解質の研究が進行中の緒方研の出身であった.卒論はリチウム二次電池の研究だったとか.私が電池の起源の話や,ボルタの電堆のモデル実験をする際,久保さんが時々高校生の立場から質問をし,これに私が説明するのである.しかし,幸か,不幸か彼女の高い専門知識のゆえに,質問内容が専門的になりすぎたり,私が質問の回答をする前に,彼女が先回りして答えたりして,何回かNGを繰り返した.もっとも,お相子で,私も例によってどもったり,適切な言葉が直ちに口から出ず,言い直したりして彼女やスタッフの皆さんに迷惑をかけた.30分番組の,私の出演部分はほんの15分位なのに,録画は午後1時ころから始まって,夕方までかかった.NHKの建物を出るときにはぐったり疲れたのを思い出す.番組では,ほかにコメデイアンのIKKAN氏がキットを用いて乾電池を自作し,豆電球を灯したり,秦野南が丘高校の久保田宏先生が行った,カエルの足を使って,電解液にこれを浸すとブルブル震えるガルバーニ動物電気のモデル実験などからなりたっていた.
ある時,講義の合間にこのTV録画を学生諸君に見せた.私の下手な講義では笑いを取ることはまずないが,この時ばかりは,私が登場するとドッと教室が沸いた.別の時,“伊藤家の食卓”の録画を見せたら(詳細次回),ある学生の授業の感想メモに,「先生はちょっと不謹慎です」と書いたものがあった.きっと,冗談の通じない,まじめな学生なのだろう.
話は変わる.私が小学校低学年のころ,夕方のNHKのラジオ放送に“坂西志保のアメリカだよりという15分番組があった.もう,70年も前のことである.タッタターン,タッタターン・・・ という番組の開始を知らせる軽快なメロデイが流れるとラジオに耳を傾けたものである.今でも最後まで口ずさむことができるが,その素養がないため,メロデイを音符に書き表せないのが残念である.70代後半以上の方でこのメロデイを覚えていらっしゃる方もおられるのではないだろうか.戦後間もないころ,ほとんどその様子の解らなかったアメリカの普通の市民の生活の様子などが中西氏の声で聞けたのである.今ではもうその内容をすっかり忘れているが,興味深く,大好きな番組だった.普通の家庭にも自家用車が2台以上もあり,電気冷蔵庫があるなど,当時の我が国の貧しい状況と比べ,夢のようだったことだけは覚えている.
長々とわき道にそれたのは,この坂西氏(1896(明治29) - 1976(昭和51) が上記の捜真学院の古い卒業生なのである.その後,坂西氏は日本女子大(中退)関東学院中学校高等学校教師を経て,アメリカに留学,ミシガン大学大学院で哲学博士の学位を取得した.アメリカ議会図書館日本課長に就任し,日本文化に関する書籍・資料の収に収集に当たったが,太平洋戦争のため1942年,日本に強制送還された.帰国後は外務省の嘱託やNHKの解説委員等を務め,アメリカの国情についての解説や分析に当たった.
また,外務省をはじめとする国の各種委員会委員を務め,立法,行政,教育分野について積極的に発言した.神奈川県大磯町立図書館に蔵書が寄贈され,「坂西文庫」と名付けられている.(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%A5%BF%E5%BF%97%E4%BF%9D)による.
以下次号.