子供の四季  六月

子供の四季 六月
 
  田植え休み
 今では及びもつかないが、昭和20年代には子供も貴重な労働力で、六月の初めの一週間は田植え休みと称し学校は休みになった。農家でない我が家では、生き生きと働く小学生たちをみるとうらやましく、かつ肩身が狭かった。小学1, 2年生(昭和21, 2)のころの宿題には“桑の皮集め”が課された。繊維が不足していた当時は、乾燥した桑の皮を細く裂き、麻のように布に織られたとか。集まった乾燥された桑の葉はどこへ行ったのだろうか。まだ、当時は養蚕も盛んだった。疎開ものといわれ、そのような養蚕農家とも伝手が無かった我が家で、私は桑の皮集めには苦労した。父が川の土手や田んぼのあぜ道に生えている野生化した桑を見つけてはそこに私を連れて行き、枝を折ってくれた。機械と称し、皮むき機を作った。桑の皮は木質部から離れやすいが、それでも皮を剥くのに手間がかかった。そこで、直径1 cm位の皮を剥いたあとの白い2本の30 cm位の桑の枝の先端を桑の皮で結び、下端は自由に開閉できるような仕掛けを作った。これに剥くべき未だ皮の付いた枝を挟んでしごくのである。すると中ほどにいくつかあるちいさなこぶ状のでっぱり(そこから小枝が出る予定の芽か) が刃の役目をし、皮の付いた枝に沿って数本の溝が出来るのでこれを手掛かりにするするとおもしろいように皮がむけた。剥いた皮は新聞紙に並べ、乾燥させて提出した。ちょうどそのころは桑の実も熟するころで、赤黒く熟した実を数粒口に頬張るのは甘くておいしかった。
 
  ちまき
 五月五日は端午の節句で、昔からちまきが作られてきた。しかし、春の遅い越後では六月五日が節句、かつ、わが片貝ではそのころはちょうど田植え時期のため、十五日が節句だった。どこの家庭でもちまきを作った。あんこ入りの小さな米俵状のちまきと蒸したもち米入りの三角ちまきだった。これには大量の笹が必要である。雪解けが遅いため、笹の葉が十分大きくなるのを待つためにもこの地方の節句は十五日になったのだろうか。笹を集めるのは子供の役目だった。近くの里山に入り、百枚、二百枚と集めた。あんこ入りのには二、三枚、三角のには二枚の笹の葉が必要だった。あんこ入りの方の衣は米粉に薄緑色をつけるのに牛蒡の葉やモチクサの葉が練りこまれた。中に入れるあんこ玉つくりは子供の役目、こし餡と粒餡があった。母が立膝になって米粉を両手で力強く練る脇であんこ球を作るのはうれしかった。三角ちまきは砂糖入りの黄粉を付けて食べる。その黄粉も家で作った。直径40 cm位、厚さ15 cm位の二個の円筒状の石が合わさって、それぞれの内面には中心から外側に向け斜めに溝が切ってある。上の石面の端には小さな穴があって、対面には木の取っ手が付いていた。穴から炒った大豆をすこしづつ落しながら、取っ手を持ち、ゆっくりと上面の石を回すと下面との合わせ目で大豆が砕かれて、溝の隙間から黄粉が落ちてくるのである。石臼を回すのは母、石臼が動かないようしっかりと押さえるのは私の役目だった。その役目もおわった石臼は今も我が家の軒下で雨に打たれている。十五日には近所の友達とそれぞれの自家製のちまきを持ち寄って山に遊びに行ったり、魚釣りに行ったりした。お互いにうちの方がうまいと自慢しながら、交換した。
 
  ホタル
今はもう数軒の家と杉林になっていしまったけれど、当時住んでいた
我が家の前は広々とした田んぼだった。数十メートル先には幅2-3メートルの酒座側が流れている。六月ともなると夜にはホタルが乱舞した。竹ぼうきや笹竹を振り回すと数匹のホタルが獲れた。弟などは野球帽を振り回していたが、それにもホタルが引っ掛かった。数十匹のホタルを紙袋入れて家に持ち帰り、寝る前に蚊帳の中に放ち、電燈を消すとそれらが瞬いてきれいだった。翌朝には外に逃がしてやった。数年前帰省した折、思いついて酒座川の上流に行ってみたら、数匹が光っていてうれしかった。今年も会えるかと行ってみたが、時期が悪かったのか、消滅したのか、だめだった。来年こそはと期待している。