2018年2月 ささやかなよろこびと楽しみ

 子供のころ,母が弁当のおかずがないとき,ときどき作ってくれたのがごはんと海苔と鰹節が交互に重なり醤油味のついた弁当だった.海苔弁当といったか鰹節弁当といったか,名称は忘れてしまったが,大好きな弁当だった.時々,この弁当を作ってとねだったものである.冬,冷たい弁当を食べるのは子供たちがかわいそうとでも判断されたのか,当時,暖飯器(だんぱんき,たぶんこの漢字だっと思う)というものがあった.縦横90 cm,高さ15 cmくらいの木製の正方形の枠で底に格子状に細い鉄棒が張ってあった.上は何もなし,筒抜けで,この箱に生徒たちは朝登校したら,自分の弁当を入れて並べた.授業が始まった頃,小使さんが数段重ねたこの木箱を炭火のおこった鉄製の火鉢の上に乗せ,箱の上に木の蓋を乗せた.おかずに沢庵付けでも入っていたのか,暖められた弁当からその強烈な臭いのする日もあった.昼食時,程よく温まったこの海苔弁当は香ばしくておいしかった.炭火が強すぎて運悪く一番下の箱に入った弁当のごはんの焦げていることがたまにあった.先日,ふと思い立ってこの弁当を作ってみようとした.鰹節もすでに花弁のように削ってあり袋詰めになっているのをそのまま使うのは安直で面白くない.もう十年以上も戸棚の上に眠っていた鰹節削り器を取り出した.鰹節削り器の箱の中に残っていた固い鰹節は神社に嫁いだ義妹がお供え物として上がったのをいただいたものである.この鰹節を削ってみると細かい粉末にしかならなかった.花弁のように薄く削るのにどうするか.まず,削り器の鉋の刃が切れなくなっているだろうと鉋台から,刃を取り出し砥石で研いだ.包丁やナイフ研ぎは趣味の一つである.しかし,やはり削った鰹節は粉末のまま.鰹節が乾きすぎているのかもしれないと考え,濡れた布巾に包み一昼夜寝かせ,湿り気を与えたのち削ったらどうやら不満足ながらも薄い鉋屑状のものが得られた.当時の弁当箱はほとんどがアルマイト製だったがこんなものはもうないからプラスチックのタッパーで代用した.初めに炊き立ての飯を薄く敷き,その上に削った鰹節をふりかけ,醤油をたらし,次にまた飯を薄く敷き,その上を海苔で覆った.また,飯を薄く敷き醤油を少しふりかけ出来あがった.鰹節と海苔の重ねる順序はどちらが先だった思い出せなかった.早速食べてみた.昔の味と少し違うような気もしたが,まあ,おいしかった.作り手も違うし,あのころは食料も不足していていつも空腹状態で今とまったく状況が異なる.味覚も変化しているだろうし仕方があるまい. 
作家の阿川弘之がこの弁当がやはり大好きだった.晩年まで娘の佐和子氏に作ってくれるよう時々依頼したとか,彼女のエッセイに出てきた.密かに愛好者が未だ,どこかに生き残っているかもしれない.
 歯ブラシがそろそろくたびれてきたから,今日は午後からこれを買いに行って,明朝から使い始めとしようとか,20数年以上も前に教え子からいただいたシンビジウムの花芽が大きくなってき,間もなく咲きそうだとか,今朝のお茶はお湯が適温だったのか香りがよい,電車の中できれいな人を見かけた等々,日々の幸せはこのようなささやかな楽しみ,喜びの積み重ね,これらを見出す能力を培うことが突然やってくるかもしれない不幸に耐える力になるのではないのかなど愚考している.今朝の朝日新聞俳壇に次のような一句があった.
  春めくというよろこびのありにけり  長野県 縣 展子

2018年1月 データを読み取る力

20181月 データを読み取る力
 
 昨年12月初旬,胃がんの手術をした顛末は先月号に述べた.退院後2週間ほどして,手術の経過を伺いに病院へ行き,Y医師の説明を聞いた.手術前後の胃カメラ撮影による患部の映像を見せられた.手術前の写真で「ここが患部です」と色素で染められた部分を示されたが,言われてみれば,正常な部分に比べて若干皮膚の色が赤いかなと思われるくらいで,私にはよくわからなかった.手術後の写真には長径約3 cmくらいの楕円形の赤く皮膚表面をはぎ取られた部分が見えた.「幸い深部までがん細胞は及んでいませんでした.完全にこの部分が新しい皮膚で覆われるまでに約2か月はかかります.それまでアルコールは控えたほうが良いでしょう」と言われた.痛みも自覚症状もないのに我慢,我慢である.正月,息子の所に行ったら,「折角,いい日本酒を見つけたし,海外出張でちょっと良いウイスキーも買ってきたのに残念だね」と言われた.前に戻る.「このくらいのがんに成長するのにどのくらいの期間がかかりますか」と尋ねたら,「二,三年でしょうね」と言われ,3年前の定期健康診断時に同病院に保管されていた患部付近の写真も見せられた.「そのつもりになってよく見れば,この付近ですかね.少し赤くなっています」と言われたが,私にはほとんど同じ色に見えた.その時は異状なしと判断されたのである.また,手術時に喉部分を胃カメラが通過するとき,見つかったのだが,Y医師から「喉に何かありますね.一度,耳鼻咽喉科で検査をされたほうがいいでしょう」と言われたので,数日後,おなじ港赤十字病院耳鼻咽喉科で診察を受けた.カメラで探ると2か所にポリーブがあるとのことだった.その部分の皮膚組織を採取,すぐ検査に回すとのことだった.「検査を急がせますので1228日に来てください」と言われた.喉頭がんの場合は進行が速いのだそうな.約束の28日の午後5時まで待った時点でY医師(消化器内科のY医師とは別人)に呼ばれ,「検査担当には頑張ってもらっていますが,今の時点ではダーク,どちらとも言い切れません.すみませんが,さらに詳しい検査を進めるため少し時間を下さい.1415:30ではいかがですか」と言われ,そのようにお願いした.二度あることは!と覚悟して14日来院した.新年初日の病院は非常に込み合っており,約束時間から30分近くも待たされた.名前を呼ばれたので,おそるおそる診察室に入るとY医師から快活な声で「おめでとうございます.まったく異状ありません」と言われ,“扁平上皮,リンパ球とも異型を認めない”と記された診断書を渡された.喉頭がん手術で声の出ない人や放射線治療中の知人を何人も知っているのでその人たちには申し訳ないがうれしかった.今年は春から縁起がいいぞと心中でつぶやきながら帰宅し,妻や電話で早速子供たちにその旨伝えた.娘や孫娘は私以上に心配していたようで非常に喜んでくれた.それにしても消化器内科のY医師による喉の部分の異状の発見はとてもありがたかった.
 昨今は画像処理技術やAI(人口知能)の進歩により,医師の判断によらない自動判定で90%以上の正答率とか,正確な値を忘れてしまったが,もっと高い値だったようだ.しかし,最後はやはり,医師の判断によるとその新聞記事には書いてあった.
 データの判定は難しいものである.必ずあいまい領域のある場合が多い.もう,40年以上も前のことになろうか.そのころは今のように,電子顕微鏡,原子間力顕微鏡,その他の画像撮影技術も物質構造の解析技術も発達しておらず,物理化学実験や電気化学実験といえばグラフを作成することが主な作業だった.縦軸の観測値を横軸の変化量,例えば温度や,物質の濃度,材料の組成割合や変化等に対してプロットするのである.グラフの単調な変化,直線的な増加や減少は予想どおりでつまらない.大きな変曲点が現れたり,直線でも少し勾配の異なる折れ線となったときは「しめた!」と思ったものである.その変曲点の前後で何か現象や物質の構造等に変化や異状が生じているのである.新発見かとわくわくした.たいていはぬか喜びに終わったけれど.ある時,グラフ上で10点くらいの少しばらついた測定点に対して何気なく直線を引いていたところ,これを見た上司のT氏が「佐藤,何を見ている!そこに変曲点があるぞ」と指摘された.それから「曲がっている」,「曲がっていない」としばらく議論した.結末はもう忘れてしまったが,当時は企業の研究所にもそのようなのどかな時代があったのである.今,懐かしく思い出している.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年12月 当たり年

201712 当たり年
 
 高校3年の時,蓄膿症の手術で1週間ほど入院して以来,60年間,幸運なことに手術も入院もすることなく過ごしてきたのに,この秋から2回もの手術とそれぞれ,7日間,9日間の入院生活を送るはめになった.以下にその顛末を述べよう.去る7月,横浜市の健康診断を受けた所,便に血液がわずかに認められたので精密検査を受けた.大腸がんの疑いということで内視鏡検査を受けたところ,大腸に3cmほどのポリーブが見つかり,内視鏡による粘膜下層剥離の手術を勧められた.手術前に念のためにと胃カメラMRI検査を受けたところ,前者で胃内にも2㎝ほどのポリーブが見つかった.その際採取された細胞検査の結果,初期の胃がんだということが分かった.こちらも手術を要するが,先に見つかった大腸のポリーブ切除を先にすることになった.そのため,1025日,中区にある赤十字病院に入院,翌日手術が行われた.肛門から内視鏡を挿入,レーザーメスによる患部の除去に3時間ほどかかった.しかし,全身麻酔のため手術中は痛みもなく夢見心地であっという間に終わった感じだった.麻酔が抜けても痛みは全くなかった.そして点滴がはじまった.手術2日目は点滴のみ,3日目から重湯,三分粥,五分粥,ごはんと徐々に主食が重くなり,入院7日目にめでたく退院した.この間,時々妻が新聞等を持って見舞いに来てくれた.とにかく,どこも痛いところはなく普段の健康時と変わりがないのにやることもないから退屈なのである.新聞を隅々まで読み,持ち込んだ文庫本を数冊読んだ.パソコンを持ち込んだのは正解,メールやネットサーフィンに時間をつぶし,病院を隅々まで歩き回った.数年前に購入したものの,ほとんど見ることもなく放っておいた西部劇映画名作集のDVD(10)2回目の入院で見終わった.テレビカー(1000)も購入.これで800分間見られる.日中,やっている古い推理物の再放送ドラマを楽しんだ.もう亡くなっている俳優や今は名優と言われる大物俳優のかっての若々しい様子を見ることができた.結局,2回の入院で各2,4枚のカードを購入,前回見切れなかったカードは残り時間分を返金可能であった.毎日,担当の看護師さんが変わった.その人柄はさまざまであったが,彼女達は皆,献身的だった.朝,昼,晩と1日3回,血圧,体温の測定があった.担当のY医師は朝晩,「調子はどうですか」と病室に訪ねてこられた.医師の許可を得て退院1週間後からラジオ体操を開始,アルコール解禁は3週間後くらいからだっただろうか.手術時に採取した細胞検査の結果,やはり大腸がん,幹部はきれいに除去されていますから,1年後また検査しますとのことだった.
 そして,去る125日,また入院,偶然にも病室は前回と同じ7階のカーテンで仕切られた4人部屋の一つだった.翌6日,胃がんの手術,こんどは喉から内視鏡を挿入,やはりレーザーメスによる患部の剥離が行われた.喉を麻酔しているとは言うもののカメラが喉を通過するときは痛かった.手術は1時間くらいか,術中は前回より痛かった.大腸がん手術より大事(おおごと)なのだろうか,前回と同じY医師の言動,手術前後の処置の様子からそのように感じられた.術後2日目に行われた胃内の様子を確認するための内視鏡検査も痛かった.わずかに見られた出血個所はレーザーで焼き,処置したとのことだった.術後は絶食,重湯と水を飲むことを許可されたのは3日目からだった.点滴が取れたのは6日目で,点滴中はトイレ等への移動も薬液入りの袋を吊るしたスタンドと一緒のでまったく不便である.これが不要になっただけでホッとした.点滴が取れた時,シャワーを許可されさっぱりした.入院期間は前回より2日多い9日間,この間の過ごし方は前回とほぼ同じ,退屈なのは回復が順調の証拠か,去る1213日無事退院した.本日(20)からラジオ体操を開始,残念ながら,正月はノンアルコールである.解禁日が待ち遠しい.
手術前は太り気味だったが,2回の入院で手術後の絶食,重湯,三分粥等の病院食により体重は4 kgほど減り,身体が軽くなったようで快調である.でも,食欲があるのでリバウンドが恐ろしい.“欲すれども法を超えず”からは程遠い状況である.ダイエットを望まれる方にはポリーブの除去をお勧めしますというのは悪い冗談であるが,それにしても,手術2回,今年は当たり年だった.来年はもっと良い年になりますように.対外的な活動も少なくなるので何か新しいことを始めようと考えている.

2017年11月 散歩

201711月 散歩
 
 定年後,外出の日以外はできるだけ歩くようにしている.週3, 4日になろうか,一日一万歩前後を目標にし,横浜市内を歩き回っている.デイジタルカメラを持ち歩き,気に入った場面があれば撮影している.外出の日も列車や地下鉄の乗り換え時のホーム間の距離が結構あり,一万歩近くになることが多い.姿勢よくと心がけるのだが,いつの間にか何か考え事をしており,背中が丸くなっていることが多い.これを越後の方言で“せぼんこ”という.散歩時はできるだけ同じ道を歩かないように心掛けているが,定年後8年目も半ばを過ぎるとマンションを起点とした半径6-7 km範囲内の道路はほとんど歩きつくしてしまった.少し,大げさか..地図は持たず,周りをきょろきょろ見回しながら行き当たりばったりで歩いている.地図を持つとそれに気を取られ周りを見なくなるからである.その際,いつも困るのが,地図を持たないためであるのだが,今,自分のいるところがどこかわからなくなることである.道路標識が少ないとつくづく思う.また,電柱や主な建物の入口などに地名表記があればと思う.バス通りなどの少し広い道ではバス停留所を見つけると安心する.この道を行けばどこにたどり着けるかなども確認できる.しかし,そこに何年も何十年も住み続けている地元の人には地名番地,道路名などは熟知しているから,その表記がないことなど気づくはずもない.市役所のしかるべき部署が一定の基準を設け,市内の道路に表記があるか,地名,所番地の表記があるかをチェックし,ないところには外国語表記も含めて,その処置をしてほしいものである.道がわからない時,傍らのスーパーとかコンビニに立ち寄り,従業員に尋ねてもわからないことが多い.なぜなら,彼らは地元出身でなく,外国人を含め他所からのアルバイトや派遣社員の場合がほとんどであるからである.
 散歩していてうれしいのは,思いがけなく神社やお寺に出会うことである.その際は,10円,50円,もしくは少し弾んで100円のお賽銭を賽銭箱に入れ,お参りするようにしている.現役時代には考えられなかったことだが,年を取った証拠か.その際は月並みだが,家内安全,子供,孫たちの健康と後者の学力増進,時にはよからぬことも思い浮かべながら参拝している.ここでも気になるのはその神社や寺の縁起を記した案内板等のない場合が多いことで.つくづく惜しいと思う.旅行のおりなどは,有名な神社,仏閣に参拝したとき,孫たちにとお守りを求めていたが,娘から3個も4個もたまっているからもう結構ですといわれてしまった.来春,4人の孫のうち,1人が大学,2人が高校受験であるが,もうお守りは結構などと言ってもいいのか.
前にも述べたように,家の近辺はほとんど歩きつくしたから,これからどうしようかと考えたとき,いいことを思いついた.行き当たりばったりで未だ乗ったことのないバスに乗り,終点,もしくは気になった名称の停留所に途中下車して,そこを起点に5 - 6,000歩ほど歩き,また,バス停留所まで戻ってくることである.これで行けるところが大幅に広がった.すでに,大船,戸塚,その他いくつかの所に行った.途中で乗り合わせる小,中,高校生たちの会話を聞いているのも楽しい.彼らの興味,話題などが伺われるからである.幸い横浜市では9,000円の初期投資をすれば敬老特別乗車証が得られ,市内なら,市営バス,相鉄バス神奈中バス,および地下鉄は1年間無料で乗り放題である.ありがたいことである.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年10月 5人の秘書

               201710月 5人の秘書


 私は定年前の4年間,工学部長を務めた.この間,5人の秘書の方々と一緒に仕事をした.その工学部長に就任して2年目の終わりから3年目にかけての約9か月のわずかな期間に5人の秘書が代わった顛末を述べよう.この時には全く往生した.5人をAさん,Bさん,Cさん,Dさん,Eさんとしよう.Aさんは私の前の工学部長時代からの秘書として仕事の良くできる,工学部の状況に通じた非常に有能な方だった.工学部は他学部に比べて学性,教職員の数が多く,膨大な仕事量があるからと昔から他の学部にはない工学部長付きの専任の秘書が存在した.数年前,その方が定年退職後,人件費軽減の観点からと思われるが,秘書が派遣社員で充当されることになり,Aさんが赴任されたのである.そして,同一職場には5年までしか在任できないという雇用法(正式法律名は忘れた)とかいう法律のために私の学部長2年経過時の3月退職された.3年目の4月から人事部では工学部長秘書として2人目のBさんを採用してくれた.Bさんは長年,国立研究所で事務職を務められた方とか,大いに期待したがわずか3か月で退職されてしまった.次に人事部の斡旋で人材派遣会社から推薦の3名と面接し,Cさんに来てもらうことにした.工学部の仕事内容は多岐にわたるため,その中身を理解するための見習い期間としてBさんとCさんの間で6月中旬から2週間程度,すり合わせが行われた.Cさんは30代後半から40代前半の女性で,研究室の学生たちとのコンパにも参加され,なかなかやる気のある方だった.しかし,やはり3か月ほどで9月には退職されてしまった.次はDさんである.20代の若い女性でここで辞められてはと思い,私なりに丁寧に対応したつもりだったが,やはり,12月は退職されてしまった.私のBさん,Cさん,Dさんとの対応の仕方がまずかったためか.私はせっかちである.彼女たちが未だ仕事に慣れないうちから,あの書類はどうなった,この書類の完成は未だかなどと催促したのが原因かと反省もしたが,どうもそればかりではなさそうだということにようやく気が付いた.上記にも述べたように永年,秘書は工学部のみに配属された.しかし,他の学部長からの工学部のみが優遇され,不公平であるというもっともな主張で,この年から,他の学部にも専任の秘書が配属されることになった.ただし,仕事量の関係から,法学部と経済学,外国語学部と人間科学部の兼任(組み合わせは異なっていたかもしれない)担当で2名の秘書が工学部とは別に新たに採用された.しかし,実験を行うための物品購入等の予算管理がなく,予算規模も小さいそれら文系の学部で,彼女たちは仕事量が少なく暇なのである.他方,工学部秘書の仕事量は膨大である.5学科,4教室に属する数十の研究室の物品購入等の予算管理,毎月行われる工学部教授会の資料作り(120-30ページにもなる配布資料を100数十部作製),主任会議資料の作製,人事委員会の資料作製,外部から舞い込んでくる多量の郵便物,書類の分類整理(もし,この分類を誤ると必要資料が見つからなくなる)等々,枚挙にいとまがない.不幸なことに,学部長室は人間科学部,工学部,経済学部,外国学部,法学部と同一階に並んでいる.各学部長室の扉は教職員が入りやすいようにと常に開かれているか,閉じられていても素通しのガラス越しに内部が,また,内から外の廊下もよく見える.工学部長秘書のBCDさんが必死に仕事をしている中,上記2名の文系教授室の秘書さんたちは互いに行ったり来たりしておしゃべりしたり,お茶を飲んだりしているのである.昔からの習慣からか,工学部長以外の各学部長は自分の教授室にいることが多く,学部長室在室時間は非常に少ない.4時30分になれば,さっさと彼女たちは帰宅する.他方,工学部長秘書のみが山のような仕事を抱え,時には残業もしなければならない.これでは同一給料で,普通の感覚の女性ならば,長続きしないのは無理もないのではなかろうか.私にとって5人目のEさん採用の時は,学長に呼ばれ「佐藤さん,どうなっているんですか」と言われた.暗に私の秘書さんたちへの対応に問題があるといわんばかりの口ぶりだった.私は状況など説明せず「今後,気を付けます」と早々に学長室を退散した.Eさん採用の面接時には,このような状況を縷々説明し,それでも来ていただけるかと念を押した.ありがたいことにEさんは秘書としてのプロ意識に徹し,私の残りの任期1年3か月間,よく私に協力してくださった.退職時には,花束をいただいた.次の工学部長にもよく仕えられた.退職1年後の私の誕生日に,Eさんから招待を受け,懐かしい工学部長室に呼ばれ,現工学部長とともに私の誕生祝ということでケーキをいただいた.今もAさん,Eさんとは年賀状の交換をしている.
 話は変わる.ある時から私の研究室配属学生に女子学生の応募のない年が数年間続いた.女子学生間に「佐藤先生は女子学生に厳しい」といううわさが立ったためらしい.私は男女平等であり,女子学生にも男子学生と同じように区別なく対応していたが,それが一部の女子学生には非常に厳しいと映り,そのため敬遠されたらしい. 
また,別の話.私の郷里の小千谷市長を務められたY氏は退任後,農業に転じ,トマトの水耕栽培を始められ,農業協同組合にも加入された.その農協新聞に載っていたインタビュー記事である.「市長から農業に転じられ,最も困難に感じられることは何ですか」「農作業は一人ではできません.妻の協力が必要です.彼女が機嫌を損なわないよう,気持ちよく農作業に協力してくれるようにすることがもっとも難しいです」 これにはいずこも同じと思わず笑ってしまった.それにしても,妻を筆頭にして女性との対応は難しいものである.


2016年9月 テレビに出演した話 その2

20179月 テレビに出演した話 その2
 
 先月の話から,しばらくしてまたNHK TVに出演した.今度は“なるほど経済:あなたの知らない電池の秘密”と題する経済番組で,電池が如何に人々の生活に入り込み役立っているかという内容だった.中央線のある駅に下車,女性アナウンサー(名前は失念) と徒歩10分くらいの家にお邪魔した.夫婦と小学生以下の子供3人のお宅だった.あらかじめ連絡してあったのか,おもちゃや時計など,その家で使われている電池をそれぞれの器具から取り出し,山のように並べてあった.さらに私が気づきにくいガスコンロ,電気釜などからアルカリ乾電池やボタン形リチウム電池を取り出した.数えてみたら,6種類,105個もあった.複数個の電池を使用する場合は入れ方を間違えないこと(例えば4個のうち1個だけ入れ方を間違えても懐中電灯は少し暗くなるが点灯する.その場合,放電時も1個だけが充電されることになり,水が電気分解され,ガスが発生して漏液し,運が悪ければ破裂する),複数個の電池を取り換えるときは同時に新品とし,使用時間の異なる新旧の電池を混入して使用しないこと,その他いくつかの注意点を話したことを覚えている.帰り道で,アナウンサーに「毎日,まったく異なる内容でそれぞれの分野の専門家と接触し,その対応のために専門知識を仕入れなければならず,よくそんなことができますね」と尊敬の念を込め,以前からの疑問をぶっつけると彼女は「慣れですよ.さっきまでのことはすぐ忘れ,これからのことに集中するんです」とこともなげに答えた.
 ある時,日本テレビから電話がかかってきた.当時の人気番組“伊東家の食卓”に出演してほしいとのことであった.この番組は父親役の伊東四朗氏,母親役の五月みどりさんと子供たちが生活に役立つ,思いもかけない“裏ワザ”を披露する内容だった.私への依頼内容は,停電時,懐中電灯を点けようとしたが単1乾電池が手元になく,あるのは単3乾電池だけである.電池の背丈が足りないので長さが単1形になるよう10円硬貨を何枚か挿入して調節し,電池の周りを紙で巻いて太くして間に合わせた.これで懐中電灯は点くが問題ないかというものだった.硬貨間の接触抵抗が増加し,少し暗くなり,熱も発生するかもしれないが,長時間使用しなければ問題なしと答えたが,その辺のことを詳しく説明してほしいので,研究室を訪問したいとのことであった.約束の日時に一人の30代の男性が撮影用の大型カメラを持って研究室に現れた.彼がいろいろ質問し,それに私が答える場面を彼は撮影した.質問内容は的確であった.私が「一人で司会役から撮影まで大変ですね.失礼ですが,大学でどのような勉強をされたんですか」と質問すると「なーに,工業高校卒ですよ.専攻は応用化学.アルバイトでTV局に出入りしているうちに見様見真似で技術を身に着け,採用され,今日までやってきました」と答えた.すごい努力をされたのであろう.私はとても感動した.一人二役,それに比べ,先月で述べたNHKTV撮影のなんと豪華なこと.ディレクターと助手,カメラマンとその補助者,司会者,美容師等6人,あるいはそれ以上の人が撮影にかかわったと思われる.NHKTV聴取料を取っている.番組製作費も人件費も潤沢なのであろう.どうか,良い番組を作り続けてほしいものである.それにしても貧乏根性が身に着いた私には時々,無駄でないかと思われる場面もある.例えば毎日,夕方の1時間に満たないニュース番組に男性アナウンサー2名,女性アナウンサー2名,4名ものアナウンサーが出演するのである.それに女性レポーター,天気予報士等々.きれいな若い女性が次々現れるのは楽しいが,それにしても・・・・.

2017年8月 テレビに出演した話

20179月 テレビに出演した話
 
 最近は感度も鈍くなってあまり目新しいことにも気づかなくなったので,昔話で勘弁してほしい.
これまで数回テレビに出演したことがある.その体験のいくつかを述べよう.かってNHKテレビの教育放送番組の一つとして高校生向けに“スクール五輪の書 科学の巻 発想ミュージアム”という30分番組があった.これに出演し,電池の起源,原理,当時,これから間もなく流布しようとしていた薄型リチウムイオン電池の話などをした(録画のDVDを見ると19989月だった)
まず,NHKのスタジオに着くと化粧室に案内され,美容師さんから生まれて初めて顔にドーランを塗られ,その後スタジオに入った.デレクターから,番組の流れと司会の久保恵子さんとのやり取りの会話内容の説明があった.あらかじめ,当日のシナリオの分厚い台本が送られてきていたが覚えきれるものではなかった.何とかなるさとほとんどぶっつけ本番で録画に臨んだ.人気タレントの久保さんは当時,NHK Eテレの司会を務めていた.偶然にも私の勤務していた神奈川大学の近くにある,名門の捜真(そうしん)学院(1886(明治19)創立,現在は女子のみの小,中,高一貫校,小学校には若干男子もいるようである) の出身である.その後,彼女は上智大学 理工学部(ミス上智)明治薬科大学 薬学部を卒業し,薬剤師の資格も持つ才媛で,前者では当時,世界の最先端の高分子電解質の研究が進行中の緒方研の出身であった.卒論はリチウム二次電池の研究だったとか.私が電池の起源の話や,ボルタの電堆のモデル実験をする際,久保さんが時々高校生の立場から質問をし,これに私が説明するのである.しかし,幸か,不幸か彼女の高い専門知識のゆえに,質問内容が専門的になりすぎたり,私が質問の回答をする前に,彼女が先回りして答えたりして,何回かNGを繰り返した.もっとも,お相子で,私も例によってどもったり,適切な言葉が直ちに口から出ず,言い直したりして彼女やスタッフの皆さんに迷惑をかけた.30分番組の,私の出演部分はほんの15分位なのに,録画は午後1時ころから始まって,夕方までかかった.NHKの建物を出るときにはぐったり疲れたのを思い出す.番組では,ほかにコメデイアンのIKKAN氏がキットを用いて乾電池を自作し,豆電球を灯したり,秦野南が丘高校の久保田宏先生が行った,カエルの足を使って,電解液にこれを浸すとブルブル震えるガルバーニ動物電気のモデル実験などからなりたっていた.
ある時,講義の合間にこのTV録画を学生諸君に見せた.私の下手な講義では笑いを取ることはまずないが,この時ばかりは,私が登場するとドッと教室が沸いた.別の時,“伊藤家の食卓”の録画を見せたら(詳細次回),ある学生の授業の感想メモに,「先生はちょっと不謹慎です」と書いたものがあった.きっと,冗談の通じない,まじめな学生なのだろう.
話は変わる.私が小学校低学年のころ,夕方のNHKのラジオ放送に“坂西志保のアメリカだよりという15分番組があった.もう,70年も前のことである.タッタターン,タッタターン・・・ という番組の開始を知らせる軽快なメロデイが流れるとラジオに耳を傾けたものである.今でも最後まで口ずさむことができるが,その素養がないため,メロデイを音符に書き表せないのが残念である.70代後半以上の方でこのメロデイを覚えていらっしゃる方もおられるのではないだろうか.戦後間もないころ,ほとんどその様子の解らなかったアメリカの普通の市民の生活の様子などが中西氏の声で聞けたのである.今ではもうその内容をすっかり忘れているが,興味深く,大好きな番組だった.普通の家庭にも自家用車が2台以上もあり,電気冷蔵庫があるなど,当時の我が国の貧しい状況と比べ,夢のようだったことだけは覚えている.
長々とわき道にそれたのは,この坂西氏(1896(明治29) - 1976(昭和51) が上記の捜真学院の古い卒業生なのである.その後,坂西氏は日本女子大(中退)関東学院中学校高等学校教師を経て,アメリカに留学,ミシガン大学大学院で哲学博士の学位を取得した.アメリカ議会図書館日本課長に就任し,日本文化に関する書籍・資料の収に収集に当たったが,太平洋戦争のため1942年,日本に強制送還された.帰国後は外務省の嘱託やNHKの解説委員等を務め,アメリカの国情についての解説や分析に当たった.
また,外務省をはじめとする国の各種委員会委員を務め,立法,行政,教育分野について積極的に発言した.神奈川県大磯町立図書館に蔵書が寄贈され,「坂西文庫」と名付けられている.(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%A5%BF%E5%BF%97%E4%BF%9D)による.
以下次号.