2022年4月 命拾いをした話 その2

 

 次は爆発事故の体験である。私の卒業研究テーマは「アコペンタアンミンクロム(III)錯イオン([Cr(H2O)(NH3)5]3+)の電極反応機構」だった。そのころ、先輩のEさんのヘキサアンミンクロム(III)錯イオン([Cr(NH3)6]3+)の電極反応機構の論文がNature誌に掲載され、研究室の士気が上がっている頃であった。指導教官の田中信行先生はクロム原子に配意しているアンモニア分子6個の内、1個を水分子に置き換えた[Cr(H2O)(NH3)5]3+では反応機構がどのように変化すかと考えられたようである。これらの錯イオンを含む塩には塩化物、硝酸塩、過塩素酸塩などが存在するが、塩化物イオン(Cl)などの水銀電極(電極反応は滴下水銀電極を使用するポーラログラフィで検討) への吸着を避けるため、最も水銀電極への吸着が少ない過塩素酸イオン(ClO4)との錯塩である

[Cr(H2O)(NH3)5](ClO4)3を合成し、検討することになった。この物質が正しく合成されているかを同定することは、現在では多くの分析機器が存在し、いとも容易であろうが、今から60年ほど前は重量分析法が主な手段であった。そこで、合成したつもりの[Cr(H2O)(NH3)5](ClO4)3が果たしてこの組成通りに合成されているかを確かめるため、重量分析を行うことにした。クロムの分析は、一般に目的物を高温で焼き、酸化クロム(Cr2O3)に変えて、その重量を秤量すると分析化学の本にあったので、そのようにすることにした。教授室の金庫に厳重に保管されている白金るつぼを借りだし、これに合成した上記錯塩を10mgほど正確に秤量して入れ、電気炉で加熱していった。当時は現在のような電子天秤もなく、いまでは骨董品としてどこかに眠っている弥次郎兵衛式の化学天秤で目的物を秤量するのに数分かかった。

 電気炉に接続していたパイロメーター(高温温度計)の針が300℃くらいを示したとき、「ピョン」と爆鳴気を点火した時のような破裂音がした。電気炉の素焼きの蓋を取ってみたら、白金るつぼに被せた蓋が裏返しになっていた。錯塩が分解し、放出されたアンモニアガスでるつぼ内の圧力が急に高まり、そのために蓋がひっくり返ったのだろうと考えて、もう一度、錯塩を秤量し、加熱を始めた。パイロメーターの針が300℃くらいになったとき、先ほどはこの温度付近で音がしたんだったなと思ったとたん「ドカーン」と大きな音を立て爆発が起こった。しばらくは茫然自失の状態だったようだ。この時、実験室には自分ひとり、隣室におられた助教授の玉虫怜太先生と助手の佐藤弦先生が、学生実験室の方で何かあったかと廊下をものすごい勢いで走って行かれた。私は気を取り直し、爆発によって周囲に飛び散った白金るつぼの白金片を床を這いずり回ってピンセットで集めた。直径20cmくらいの円筒形の電気炉は周りに鉄の箍(たが)がはめられ、ニクロム線が埋め込まれているので周囲にはじけるように割れることはなかったが、底が抜けるとともに、素焼きの蓋が砕けて飛び散り、一部は天井に突き刺さっていた。灰色の破片は天井の壁の色に紛れてよく見なければわからないが、今も残っているのではないか。あるいは改装されているか。当時の赤レンガで覆われた化学教室の建物は今は東北大学本部として使われている。3g近くあった白金るつぼは破片を集めても2gくらいしかなかった。佐藤先生がうまくとりなしてくださったのだろう。田中先生かは何のお咎めもなかった。るつぼは国家財産であるから、多分始末書を書かれたはずである。過塩素酸塩や塩素酸塩が有機物などとともに加熱され、還元性雰囲気になると爆発することは薄々知っていたが、アンモニアが還元性雰囲気をつくりだし、有機物と同じように爆発するということは知らなかった。もし、あの時、電気炉の方に身を乗り出していたら、顔面に素焼きの破片が突き刺さり、多分命はなかったのではないかと思ったら、震えが止まらなかった。