子供の四季  十月

                  子供の四季  十月
 
  初卵(はつたまご)
 我が家では昭和20年代から、30年代のはじめにかけ3~5羽の鶏を飼っていた。春、3月末から4月の初めになると父は孵化したばかりのヒヨコをどこからか仕入れてきた。ふる里の春はまだ寒く、ヒヨコにも暖房が必要だった。気のきいた暖房器具などなかった当時は、60 Wの電球を灯し、それが熱源だった。段ボール箱1カ月ほど飼育し、もう大丈夫となったころ飼育小屋に移した。1 m x 2 m、高さ1.5 mくらい、周囲は金網張りの小屋で父の手作りだった。冬は家の中、夏は外に出し、トタン張りの屋根を乗せた。このトタンは空襲で焼けた長岡の我が家のもので、コールタールを塗って使用した。床には近くの山道の切りとおしのところにあった茶色の山砂を敷いた。二、三週間経つと糞で砂が汚れてくるので目の粗い篩で砂をろ過し、糞を取り除いた。小学校高学年ころから、餌やりとトリ小屋の管理は私の仕事になった。餌はその時々の菜っ葉、ときには草を包丁で細かく刻み、これに麩(ふすま)やこぬか、それに動物性蛋白質として、近くの田圃で獲ってきたタニシをつぶして、水を少し加えて、これらを混ぜ合わせて作った。家の引っ越しで田螺が容易に手に入らなくなったころからは近所の魚屋さんから魚の粗をもらってきて与えた。時々、砕いた牡蠣の貝殻も食べさせた。夏には蚊が鶏たちを刺さないよう殺虫剤を噴霧したり、今では考えられないが、トリジラミを退治するために白いDDT粉末を鶏の羽の中に摺り込んだ。時々、日光浴をさせるため、トリ小屋から外に放った。彼女たちは土の中からミミズを見つけ、上手についばんでいた。このようにして、徐々にトサカも伸び、雌どりらしくなってきた10月のある日、卵を産む。これを見つけた朝はうれしかった。早速、みかん箱で巣箱を作り、藁を敷き、ここに産卵させるようにした。地面に産み落とした卵が糞などで汚れないようにするためである。はじめのうちはこの巣箱に卵そっくりの白い素焼きの偽卵を入れておいた。45日続けて卵を産むと1日休む。そこで、彼女たちにABCと名付け、卵を産んだ日には○、休んだ日には×をつけた。ノートに各月ごとに日付と○、×を記入する欄をつくった。ノートの表紙に養鶏日誌と父がペンで書いてくれた。月末になると産卵数を調べ、どの鶏の成績がよかったかが分かるようにした。当時、1日も休まず、365日生み続ける鶏が話題になっていたが、我が家の白色レグホンは最高、連続6日でなかったか。この養鶏日誌は中学2年生ころまで続いた。数年たち、産卵率が悪くなるとつぶして正月のお雑煮などに入った。この鶏を料理するのは父の役目だったが、後には母がするようになった。殺す時期が早すぎて、裂いた腹の中に大きなのから、小さなのまで連続して、数粒の卵黄が続いていて、あと二、三日すれば卵を産みそうな時もあった。殺すときは残酷のようだが、首を一気に折るのである。ある時、殺し損ねて少し首の曲がった鶏が数m走った時はこわかったと母は後々まで言っていた。私にはとても鶏を料理できないが、当時の田舎では、飼っていた鶏や兎を自宅で処分し、食用にするのは普通のことだった。
 ヒヨコを入手する時期が遅れ、5月ころから飼い始めた年は産卵時期も遅れた。春から夏にかけ、一気に生育することが大切で、産卵まで6カ月くらい必要のようである。生育期が秋にずれ込むと気温の低いふる里では産卵開始は次の年の春になってからだった。父はよく「夏児(なつご)」はダメだと言っていた。私の誕生日は7月である。人間も夏生まれはだめだと言われているようで、永い間、劣等感が抜けなかった。息子が野球やサッカーの有名選手の生まれ月の統計をとったら、4月生まれが最も多かった。そこで、彼は自分の子供もサッカー選手にしようと考えたが、計算違いで1カ月早く、3月末に長男が生まれてしまった。4月生まれと学年的にはほぼ1年遅れで同期生であるから体育などで苦労しているようである。
 
  いっちょ投げ(銀杏投げ)
 当時、町のあちこちには大きな銀杏の木があった。朝早く、あるいは大風の日には黄色の実をたくさん拾うことができた。一週間くらい水に浸してから、果肉を洗い落とし、中の白い実を取り出して筵や新聞紙に広げて乾かした。これを子どもたちは持ち寄って、いっちょ投げをした。塀の下などの地面に直径20 cmくらいの半円を掘り、45 mくらい離れた所に線を引く。時にはそこから前の方に30 cmくらいの間隔で前の方に小刻みに線を引いた。数人で各自、10粒から20粒くらい、平等に出し合って、じゃんけんで投げる順番を決める。最初の子は両手に持ち切れないほどの山盛り銀杏を穴に向かって投げ、穴に入った銀杏が自分の取り分になる。穴のふちにに引っかかった銀杏が入った、入らないで判定にもめて大騒ぎした。次の子は穴に入り損ねた銀杏を集めて、30 cm穴に近づいた線のところから、同じように投げ、穴に入った分だけ自分のものになる。だんだん穴に近づいて投げるのであるが、すっかり投げる銀杏がなくなったら、また、銀杏を出し合い、2回戦が始まる。今度は前の回、銀杏が無くなって投げられなかった子が最初に投げた。投げるとき、塀にぶつけるように投げて穴に落とすか、直接穴に狙って投げるかなど、いろいろコツがあった。最後には家から持ってきた銀杏がすっからかんになってしょんぼりする子、袋に入りきれないほど多くして意気揚々と帰る子など様々だった。自分はたぶん前者だったように思うが覚えていない。こんなことを繰り返し、夕暮れになって肌寒くなるころまで遊び呆けた。女の子が混じっていたかどうかは定かでない。
 
 
  イナゴ捕り
10月の初めにはイナゴ捕りが行われた。朝6時か7時ころだっただろうか
長さ15 cmくらいの竹の筒をさらし手拭いや木綿生地で縫った袋の口に紐でくくりつけたものを持ち寄って小学校のグランドに集まった。そこから、沼田方面の田んぼに向かった。稲刈りの済んだそこでイナゴとりをするのである。朝露に羽が濡れて良く飛べないイナゴが面白いように捕れた。そのころはまだそれほど強力な農薬は使われていなかったからたくさんにイナゴがいた。捕ったイナゴは竹の口から袋の中に入れた。日が昇り、気温が高くなって羽の乾いたイナゴが飛んで逃げるようになるともう小学生にはなかなか捕れない。その頃には袋も捕ったイナゴで一杯になってふくらんでいる。小学校に戻るとグランドにはむしろが敷かれており、ドラム缶にはお湯が沸いていた。捕ってきたイナゴをこのドラム缶のお湯の中にほおりこみ茹で上げた。そして竹のざるか篩ですくい上げたイナゴはむしろに干された。秋の日を浴びて、赤いじゅうたんが敷き詰められたようだった。こんなことが数日続いたようだった。干し上げられたイナゴは醤油とともに煎り給食でのおかずになったり、どこかに売られドッジボール等の購入資金に充てられた。