子供の四季  三月

子供の四季 三月
 
  凍み渡り(しみわたり)
2月までは絶えず、ちらちら降っていた雪も3月になると降りやむ。そして日射しも日に日に強まり、雪も解けていく。良く晴れた日の夜は厳しく冷え、翌朝には雪の表面が凍る。そして、小さな子が、時には大人が雪面で飛びあがってから体重をかけても、びくともしない。そんな日の朝は登校の時、普段の凸凹した雪道を通らなくても、朝日を浴びて掛けっこしながら雪野原を横切って学校に行けた。スキーでも行けた。春が来た春がきたとどんなにうれしかったことか。しかし、10時、11時ころになれば、雪の表面が溶けてしまう。朝はあんなに軽々雪面を歩けたのに、帰りはだめ、ずぶずぶ雪の中にもぐってしまった。明日また、凍み渡りができないかなーと願ったものである。
 
  コマ回し
家の近くの道路わきにコンクリート製の防火用水槽があった。周りは未だ雪だったが、3 m x 4 m位の用水槽の表面だけ早く雪を取り除き、このコンクリートの平面が子供たちの遊び場だった。ここで、男の子たちはコマ回し、女の子たちはままごと遊びをしたのではなかっただろうか。直径8 cmから10cmの鉄芯のコマで回りに真鍮の箍(たが)が巻いてあった。鉄は未だ、貴重品、戦後の復興のためにそちらに回されていたのであろう。戦前の古い鉄の箍の巻いてあるコマをもっていた子がうらやましかった。喧嘩ゴマをやっても強さが違うのである。数人の子が、あるいは二人で同時に回し、麻縄で自分のコマの芯を相手のコマに向かって引き寄せ、互いにぶつけ合うのであるが、真鍮製箍のコマは軽くて、すぐ弾き飛ばされた。また、回しっこと言ったと思うが、ぶっつけあわずにどちらが永く回っているかを競い合うこともあった。その場合も鉄箍のコマの方が強かったようだ。空中に回っているコマを放り投げ、それを綱で受けるなど高級な技術を要するコマ回しなどもあったが、誰もそんなことはできなかった。父が1, 2度やって見せてくれたようであるが、仕事に忙しかった父からその技術を伝授してもらうまでに至らなかった。プロ野球の巨人軍の川上哲冶監督がこのコマ回しの名手だった。
春の長い日差しを浴びながら、子供たちはこのようなコマ回しに余念がなかった。ようやく薄暗くなって体が冷えてきたころ、ぶるぶると体を震わせ、温かい家に走りもどったものである。
 
  凧揚げ
凍み渡りができるようになり、天候が安定してくるころになると少し冷たいが、南風が吹くようになり、凧揚げの季節となる。楠正成や源義経などの武者絵の描かれた六角凧が主だったが、小、中学生の子供の小遣いではなかなか買えず、買えたのはもっぱら、縦長の長方形の凧だった。うまく重心が取れていないとくるくる回った。これを防ぐために細長い紙を下部の中央に張り付けた。“おんべ”と言ったと思う。また、凧を手作りした。竹を割って、内側の肉を肥後守 (折りたたみ式ナイフで当時の子供たちの大切な愛用品だった) で削って皮側をのこした細い竹を縦を長めとして文字に組んで支えとし、これに和紙を張って縦長のひし形の凧とした。うまく重心がとれたときには良く揚がった。あるとき、父が六角凧を作ってくれ嬉しかったものである。手先が器用で絵も割にうまかった父は、それに那須野与一の絵を書いてくれた。凧揚げは雪が消え、雪野原を自由にかけ回れなくなるころまで続いた。