2022年5月 命拾いをした話 その3

  学生時代のことである。当時所属した化学教室の廊下には薬品棚が数個並んでいた。木製の戸棚で全面はガラス窓、中の薬品瓶のラベルもよく見えた。今と違って、おおらかな時代だった。戸棚には鍵もかかっていなかった。ある時、興味本位に眺めていたら、シアン化カリウム(青酸カリ、KCN)の瓶が目についた。好奇心に駆られ、引き戸を開けてこの瓶を取り出し、あてがわれていた研究室に持ち帰った。蓋を開けてスパチュラ(試薬を測り取るのに使用する金属製の耳かきのような匙)で猛毒といわれるこの白い粉末をほんの少し(多分1mgもなかったのでないか)掬い取り、舌先でなめてみた。粉が舌先に触れたとたん、「ガーン」と頭を殴られたような衝撃が走り、口の中は無論、体中が猛烈に焼けるように暑くなった感じがした。慌てて水道の蛇口を全開にし、口中を水で洗った。何回も口を漱ぎようやく人心地がつき事なきを得たが、その日は一日中、頭がボーとしていた記憶がある。好奇心に駆られて馬鹿なことをしたものだ。現役時代、講義時の雑談によくこの話をし、絶対にこんな馬鹿な真似はしないようにと話したものである。

 シアン化カリウムの経口致死量は成人の場合200 - 300mg /人といわれ、猛毒な化学物質であるが、分析試薬として、あるいは、金めっき等には必要不可欠の薬品である。水に溶けるとCNとKイオンに解離し、前者は金イオンと強く結合して非常に安定な金錯イオン、[Au(CN)2]を形成し、安定な金めっき浴となる。このめっき浴に代わるノーシアンめっき浴の開発研究もおこなわれているが、シアン浴に完全に置き換わるまでには至っていないようである。現役時代、私たちもこの研究に取り組み、チオ尿素金錯体を用いるめっき浴である程度の成果を得たが実用化にまでは残念ながら至らなった。