2020年4月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海, その2

 草束舟に失敗した後,次のターゲットを竹筏(いかだ)舟とした.竹は東南アジア,中国南部,台湾などに豊富に見られ,じっさい,台湾のアミ族の間では古くから竹筏が運搬や漁に使われていた.確証はないが,この竹筏舟で古代人も海を渡ったのではないかと考えたのである.アミ族の長老からその作り方をいろいろ教わった.竹筏の材料は麻竹(まちく)と呼ばれる太く長い竹でメンマの材料として我々も知らぬ間に食べている竹である.台湾の台東県旧石器時代の遺跡から何か大きなものを切断するのに使ったらしい薄い円盤状の石器が多数発掘されていた.これを模擬した石器を作り,竹が切れないか実験したところ,20分で切れることが判った.彼らが使っていたのは絨毯型の筏であるが,これでは舳(へさき)で波を切らずに受けてしまうのでスピードも出ず,海洋の長距離航海には無理と判断し,別のデザインの舟をつくることにした.3万年前の竹筏舟など想像できないので,“最良の竹素材で最良のデザインの筏を作ったら,黒潮を乗り越えられるか”を試すことにした.作り方の詳細は省くが,出来上がった舟は全長10.5メートル(イラ1号,5人乗り),使った麻竹は11本,先端は火であぶって曲げられている.竹同志は籐(とう)の皮で縛り上げた.台湾から与那国島へ行くためには間に横たわる黒潮(台湾沖で秒速1〜2メートル,幅は最大で100キロメートルにおよぶ)を横断しなければならない.竹筏舟でこの黒潮を乗り切れるかを確かめるため,テスト航海として台湾の大武から70キロメートル離れた緑島を目指すことにした.黒潮に突入してからの潮の流れは速く,秒速2.2メートルに達し,舟は北北東に流され,出港後約13時間30分で緑島沖十数キロで日没を迎えたためテスト航海を終えた.検討の結果,スピードがないと黒潮の中でコントロールができない,そのためにはもっと軽量化が課題ということになり,最終的には竹9本の竹筏舟(イラ2号)とし,舟形にも工夫を加えた.しかし,スピードが思うように出ず,航海中竹も割れ,浸水した.竹筏舟で黒潮を乗り越えるのは困難という結論になった.こうして,3万年の航海を再現するプロジェクトの中,二つのモデルが脱落し,残るは一つ,丸木舟となった.
新たな実験が始まった.まず,3万年前の道具(石器など)で巨木を切り倒し,丸木舟が作れることを確かめ,出来上がったこの舟の特性を確かめることが目標となった.丸木舟の遺物は縄文時代の遺跡から全国で160も見つかっており,その最古のものは約7500年前(縄文時代早期末)のもので,千葉県市川市で発掘された.縄文時代の丸木舟は,湖や河川のほとりに限らず,海辺でも発見されており,様々な水環境で利用されていた.縄文人八丈島に到達し,九州から沖縄へ土器を運んだことも判っているが,丸木舟はそれらに使われた可能性が高い.中国,朝鮮半島,ヨーロッパなどで発見されている1万〜7000年前頃の世界最古級の舟はどれも丸木舟なのである.これらから類推して,3万年前の航海にも丸木舟が使われた可能性が高いと判断したのである.
 それでは丸木舟の素材となった巨木を石器で切り倒せるのか.38000年前にさかのぼる後期旧石器時代は主に打製石器が主流であるが,例外的に刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)と呼ばれる石の斧が見つかっている.縄文時代磨製石器のように全面を磨いてあるわけではないが,刃先の部分だけが磨いてある.硬質で比重の大きな石材を調達するため,旧石器人は数十キロメートル先まで採取に出かけた.例えば野尻湖周辺で活躍していた旧石器人は約60キロメートル離れた白馬村の姫川まで透閃石岩という石を拾いに出かけた.これを割って形を整えたのち,砂岩を砥石として刃先部分を磨き,木製の柄に装着したと推定される.台湾から日本に航海するのであるから,素材の巨木は台湾で入手するのが望ましいが,直径1メートル以上の巨木は日本の統治時代に伐採してしまっており,原生林も保護のため入手できないことが判った.そこで日本産の素材として,多くの候補材料の中から能登地方の直径1メートルの杉を選び,石斧で伐採可能かの実験を行った.石斧の石材は実際,旧石器人が使ったとされる糸魚川産の蛇紋岩を用い,石斧を作製,柄はサカキ製でイヌビワの添え木を使って麻縄で縛って固定した.この斧を杉の木に打ち込むと刃部磨製石斧が杉の木肌に食い込んでいく.切るというより,小さな薄片を連続的に削り落とし,結果として大きく開いた切れ目を作っていく感じだ.6日目についに巨木は倒れた.これを1年間自然乾燥後,くり抜く工程に入った.舟の長さは縄文丸木舟を超えないという条件で7.5メートルとなった.誰も経験のない,石器による丸木舟の制作,研究者・作り手・使い手(漕ぎ手)が意見をぶっつけ合いながら,形を整えていった.丸木舟表面を滑らかにするために縄文舟で例のあることから火であぶった.時々海に浮かべては安定性,復元力等を確かめながら,細部を調整していった.漕ぎ手が舟になれるための合宿も行われ,舟名はスギメと名付けられた.館山沖での試走では黒潮分流(幅13キロメートル)を横断できることが判った.その流速は1.0〜1.7メートルと台湾〜与那国島間の黒潮本流と同等であった.ただし,その幅は7倍以上と大きな壁があるもののプロジェクトの可能性が見いだせた.さらにいくつかの改良がくわえられ,漕ぎ手も舟に馴れる練習を重ねた.こうして舟の準備が完了,実験航海に備えるだけとなった.
 目指す与那国島から台湾はよく見える.しかし,台湾から与那国島は平地からは見えない.地球が丸いためである.標高1200メートルほどのポイントからは140キロメートル離れた与那国島は見えるはずだが,容易には見えなかった.3日間ほど粘った晴れた夕方,ようやく標高231メートルの与那国島が見えた.
遭難し,漂流中ならともかく,見えない島に向かって当てもなく航海はできない.しかし,高地から与那国島を見ていた旧石器人は自信をもって台湾から出航したのであろう.
以下次号