2020年5月 サピエンス日本上陸 3万年前の大航海, その3

  出発に先立ち,コンパス等のない古代の航海術を学ぶ必要があった.それは今でもミクロネシアの一部の島々に伝わっている,陸・太陽・月・星・風・波・雲・鳥など,自然を読み取って針路を定める航海術(古代ナビゲーション術)で後期旧石器時代の航海者も同様のことをしていたと考えられるからである.与那国島を目指すうえで最も重要なことは東西南北を見失わないことであるが,具体的なことは省く.出発地は台湾から与那国島に直近の蘇澳(すおう,東へ約110キロメートル)ではなく,沖を流れる北向きの海流(黒潮)に流されることを考慮に入れ,はるか南の烏石鼻(うしび,北東へ206キロメートル)とした.出発日の決定も重要事項である.凪で,風が弱く,視界が良いという3条件が揃っていて,かつ両地点をカバーする200キロメートル四方ほどの広域わたって,2〜3日間この条件が続いていてくれないと舟を出せない.過去の気象データとこれまでの経験から,例年7月に訪れる,夏型の気圧配置が整った直後の台風さえなければ,海が落ち着き日照時間の長い2019年6月25日〜7月13日間を本番の挑戦期間とした.丸木舟スギメは5人乗りで,舟漕ぎのエキスパートやシーカヤックの職業的漕ぎ手のなかから男4人,女1人が決まった.
 実行に際しては4つの超えるべき壁があった.まず,黒潮を超えるための出発点の決定,これについては上に述べた.2番目は島を見つけることで,与那国島は50キロメートルまで近づかないと海上からは見えないので,それまでの目標の見えない150キロメートルをどうするか.ここに自然を読み取る古代ナビゲーション術を実践する.3番目は暑さ,疲れ,眠気と闘いつつ,2日間ほど漕ぎ続ける体力と精神力を如何に保つか,休まなければ身体が持たないが,しっかり休めば舟は流されてしまう.4番目は出発日の決定である.漕ぎ手チームは砂浜に張ったテントで寝泊まりし,現地の気候に身体を慣らすとともに,毎日海を眺め,出港のタイミングを計っていた.この年は梅雨が長引き,その後も夏至南風(かーちばい)が長引き,台湾の東海岸では風速10メートルを超える強い南風が吹き続けていた.この風の風向きが南西に変われば,台湾の巨大な陸塊がそれを遮って,北東側に無風地帯が現れる.これが与那国島西表島を覆ってくれればチャンスである.予報なども参考にし,キャプテンは7月7日を出航と決断した.漕ぎ手たちは,食料の準備や装備の最終点検.著者ら伴走船乗船スタッフは荷物をまとめて港へ,他の事務局スタッフは,丸木舟を送り出した後に撤収を完了して,空路で与那国島へ先回りした.その日,烏石鼻の浜辺は出航予定の正午頃,波が高かった.しかし,ここ数日間,昼の波のうねりは夕方には落ちるパターン,沖の白波も無くなっていた14時38分ついに出航した.伴走船はあくまでも万一の時の安全確保のためで,基本的には居ない存在なのであり,3万年まえの祖先たちと同じように針路は丸木舟自身が決める,針路を誤っても何も言わないルールだった.こうして,与那国島を目指す大航海が始まった.出航2時間後には,周囲の海はかなり落ち着きを取り戻し,北東からの風も風速3メートルで,水面上を波高0.5メートルほどのうねりが主に舟の右前方(南東方向)から繰り返しやってきて,そのたびにスギメは波間に隠れたり出たりした.5人の漕ぎ手の中,4人が漕ぎ,最後尾(女性)が舵を取る.舟が効率よく進むように4人は息を合わせ,1, 3番が右側を漕いでいるときは2, 4番が左側を漕ぎ,適度な間隔で左右を入れ替える,これの連続である.漕ぎ手はボートとは異なり,進行方向に向かって座っている.目指す与那国島は北東(左前方)にあるが,この先で出会う黒潮によって北に流されることを考慮し,東南東に向かって漕いだ.台湾の東岸には標高3000メートル級中央山脈(北北東から南南西に伸びている)が控えているので,これを背負う形で陸から離れていけば,それが東南東である.実際には丸木舟は直進性に乏しくどうしても蛇行してしまう.その具合を調整しながら進む,かじ取りの役目が非常に重要だった.出航後1時間20分経過した14時頃(烏石鼻から6.1キロメートル)のこと,丸木舟の航跡が変化し,水温が温かくなり,北に押し流され始めた.黒潮に入ったのだ.16時半になると,微風だった北東の風が強くなり,風速5メートルで吹きつけるようになった.風と潮がぶつかり合ってできる三角波が次第に大きくなり,白波が立ち始めた.北〜北東から1メートルほどの波が繰返し入ってくるようになり,恐れていたことだが,丸木船の周囲は荒れ模様になってきた.練習段階では,もう避難するタイミングであるが,本番では2回転覆した場合に中止することを約束していた.これまでの安全訓練で,丸木舟を転覆させ,起こして再び乗り込んだり,レスキューしたりを幾度となく練習してきた.夕方の荒れた海上で,スギメは転覆することなく進んだが,2番手と3番手の漕ぎ手が,ほぼ交互に漕ぐ手を止めては舟内の海水を排水した.航行距離が10.7キロメートルに達した16時40分以降の対地速度は時速7.5キロメートル前後,出発時の2倍近くになっていた.黒潮本流に入ったのだ.風に揺さぶられながら,スギメは不意に襲ってくる大波と懸命に戦った.特に北から迫ってくる波を左舷にまともに食らったら,一発で浸水してしまう.これを避けるため,かじ取りと4番手が,まず,危険な波を早く見つけ,それが来る前に,船首を北に回し,波に乗り上げかわした.その動作がおわるとすぐに,また船首を東に戻すのである.一方で前方の3人は,進路の操作を後部の2人に任せて全力で漕ぐことに集中した.緊張の時間が続き,舟は上下に揺れ,左右に振れたがそれでも計画通りにほぼ東に進んだ.この時点での方向を知る方法は間もなく山脈の向こうに沈もうとする太陽だった.17時30分頃,右後方に見えていた台湾の三仙岩が見えなくなり,19時45分日没を迎えたとき,風はやや弱まったものの止む気配を見せない.海上は時化たまま舟は夜の世界へ入っていった.西の空は未だぼんやり明るく,上空に上弦の月が出ていた.月が沈むまでの3時間ほどはそれが方角の頼りだった.20時半,天頂の雲の間にアルクトウルス,南西の空には一瞬木星が見えた.21時半頃北極星が,その後次々星が見えだし,空は賑やかに,風も弱まってきた.未だ,白波が残っており予断を許さないが,波は目に見えて穏やかになってきた.出航から8時間,時化始めてから6時間が経過,漕ぎ手たちはようやく休憩を入れるようになった.ただし,未だ黒潮の上にいるので漕ぎ進める手を止めるわけにはいかない.各自の判断で休憩はできるだけ短時間にし,一息入れたらまた漕ぎの戦列に復帰することを繰り返した.日付が変わった深夜1時過ぎ雲が空を覆って,星による方角が判らなくなった.それでもスギメは方向を誤らずに与那国島に向かって進んだ.アクシデントが起きたのは午前3時40分,スギメが真北に向かって進み始めた.方向を間違っても教えない約束だったので伴走船は黙って後を追った.スギメは不可解な北への航海を30分間続け,それから突然,本来の東への航路に変更した.あとで分かったことは,かじ取りが台北の街の明かりを見てしまい,それを夜明けの薄明かりと勘違い,そちらに舵向けてしまったのだ.4時10分,この間休息を取っていた2番手が起き上がって戦列に復帰したところ,進行方向の目の前にカシオペア座が見え,誤りに気づき針路を変更したのである.午前4時頃,ようやく雲が晴れ,全天に星空が広がった.日付の変わった5時40分になると東の空がわずかに明るくなり,じわじわとその明るさが広がり本当の夜明けがやってきた.大きな陸が見えた.しかし,それは与那国島があるべき北東(丸木舟の左前)ではなく,北西(左後ろ)で台湾の花蓮だと漕ぎ手たちは悟った.黒潮にかなり流されているのでもっと東に進まなければならない.午前7時頃にはついに黒潮を超えた.しかし,漕ぎ手たちはこのことを知らない.このまま,流れの弱まった海上を丸木舟が突き進めば与那国島を外して南方の海を迷走することになる.そんな中,漕ぎ手たちは交代で,一人ずつ10分程度休憩を繰り返していた.排泄は小は用意した容器に入れて海に放り,大は海に飛び込んで済ませた.食料は本来ならば古代人と同じようなものにしたかったが,今回は食べやすいものをということでおにぎりを主体に各自好みの甘味料等を用意した.水は2リットルのペットボトルを用意し,不足分は伴走船からの補給を受けた.丸木舟のスペースがないための止む負えない処置だった.結局,各人の飲み量は最大12リットル,最低6リットルだった.
 12時40分頃,突然舟は東から北東の与那国島に向かった.ところが30分後に北西(台湾の方向に)に向きを変えて.また,40分後には北東に,そのあと少し,南へ進んだ.舟が迷走を始めたのである.あとで分かったのであるが,この時5人は目的の島を探していたのである.順調に進めば出航24間後くらいで与那国島が見える圏内に入る予定だったから,迷走はそのためだったのである.しかし,“迷走”1時間半経過後,島影は見えないと判断し,当初の計画通り北東を目指した.この時太陽は西に傾きかけていた.もう24時間以上漕ぎ,体力も気力も限界に近かった.15時を過ぎたころ,全員で海に飛び込み,リフレッシュした.20時25分,最初の夜よりも厚い雲が立ち込め,一瞬だけ月が見えた.リーダーの決断で全員,休憩に入った.ひとりだけは起きて周囲を見張りあとは横になって眠った.2時間後には満天の星空になった.この間舟は幸運にもじわじわと与那国島に向かって流されていた.22時頃,スギメは与那国島まで50キロメートル,日中であれば島が見える圏内に入った.見張りが灯台の点滅する白い光を見た.しかし,多くの漕ぎ手は疲れており,そのまま眠ってしまった.8時間ほど休むことができた5時前,舟が動きだした.この時,与那国島までは28キロメートル,灯台の明かりはより鮮明になっていた.5時15分頃から太陽の気配がしはじめ,その10分後,上空に何本も長い尾を引く不思議な雲が見えた.その左右では普通の積雲が海上の低いところまで覆っていた.そこに島があるに違いない.6時45分,不思議な雲は消滅していたが,前方のモヤの奥を注視しているとうっすらと島影が見えてきた.20キロメートルを切った地点だった.「島は見えてからが遠い」.島の周囲には浅く入り組んだ海底地形の影響で複雑に変動する潮の流れが発生する.それらを注意深く乗り越えながら,ついに到着予定地,島の西端の久部良(くぶら)のナーマ浜に到着した.2019年7月9日11時48分だった.当初想定した30〜40時間を大幅に上回る出発後45時間10分の大航海がついに終わった.外国からの帰国であるから,直ちに上陸というわけにはいかず,待機してくれていた厚生労働省財務省法務省の職員にパスポートやらサインの入った書類を渡し,検疫と税関と入国審査を受け,上陸を許可された.こうして,準備期間も入れて6年間にも及ぶ大プロジェクトが無事終わった.
 この大プロジェクト成功の要因はなんだろか.まず,その目的が壮大でロマン,魅力があり,多くの人たちの賛同を得たことであろう.そしてPJリーダーの優れた企画能力,協力者を呼び込む説得力と度量,参加した漕ぎ手他多くの参加者の私心のない強い絆が原因であると思われる.
 3か月に渡って本文をお読みいただいた読者の皆さんもお疲れさまでした.