2024年7月 記憶 その10

  3年生の担任は数学が担当の川内泰若先生だった。口癖で、話の初めや終わりによく、「・・・ね。・・・・ね。」と頻発された。ホームルームの時だったか、出船の構えの話をされた。日露戦争の時、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎旅順港に日本軍の戦艦を停泊させたとき、いざ敵艦に向かって出陣しようとする際、岸壁に向かって停泊しているとそれから向きを変え、出航となるので遅くなってしまう。いつも、停泊するときは船の舳先を沖に向かって停泊するようにと部下に教えたとか。「これを出船の構え」というと先生は言われた。家のトイレのスリッパの向きも、玄関の下駄の向き(当時、未だ靴などは一般化していなかった)も出船の構えでなければならない。いろんな家を訪問した時、玄関を見れば、その家庭のしつけの様子がよく解ると言われた。妙にこのことが頭に残っており、成人し家庭を持ってからは子供たちに、そして孫たちにこのことを口を酸っぱくして注意したが、残念ながらあまりよく守られたとは言えない。車の停車時も同じである。しかし、私は運転が下手で、バックで止めるのに何度も舵をきって向きをかえ止めるので時間がかかる。後に他の車がいるときはいつも警笛を発せられ迷惑をかけてしまう。そのため、停車はもっぱら突っ込み専門である。他の車が一発でバックで停車するのを見るとつい見ほれ感心してしまう。先生はいくつかの小学校、中学校の教頭、校長を務められ、退職された後は掛け軸等の表装の技術を身に付けられ、趣味の世界に生きられたようだ。

 水島敏先生はクラス担任ではなかったが、国語、社会の先生で大きな影響を受けた。社会ではゲマインシャフト(農村型社会)とゲゼルシャフト(都市型社会)といった大学で教わるような高度のことを習った。当時、男性の先生には宿直という制度があって、順番に一夜、学校の宿直室に泊まることになっていた。水島先生の当番の夜は宿直室に伺って、将来のことなど悩みの相談に乗ってもらったこともあった。越路町、神谷に立派なお屋敷があって井上円了(東洋大学創立者)と血縁関係があると伺ったが、詳しいことは忘れてしまった。ある時、早く亡くなったYと一緒にお宅に伺い、井上円了勝海舟の墨蹟を見せていただいたことがあった。その際伺った話をメモしておけば貴重な記録になったであろうが、すべて忘れてしまった。晩年、家をたたんで娘さんのおられる東京に出てこられ、ご夫妻で介護施設に入られ、残念ながら、数年前に亡くなられた。

 音楽と女子の体育担当はは川上文子先生、新潟大学教育学部を2年で終え、赴任してこられた。当時は先生の数が払底しており、2年修了でも先生になれたのである。私の好きな女優の黒木華に似たきれいな先生だった。我々と年齢も5,6際しか違わないお姉さんの感じだった。音楽の時間に女性特有のきれいな文字で島崎藤村千曲川旅情の唄「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ・・」を板書された。これまでこんな詩など知らなったが、これに目を覚まされ私の青春時代が始まったようだ。男子生徒の一部の悪は先生の気を引こうとわざと反抗的態度を取り、授業中に騒ぎ先生を泣かせたようだ。後で男性の先生からきついお叱りを受けた。             以下次号