2022年2月 図書館

 現役の頃は毎月本代として一万円ほど使っていた。本棚に入りきらない本が部屋中に溢れ、妻からは「地震で本棚が倒れ下敷きになっても知りませんよ」などと脅かされていた。定年を機に少し倹約し、どうしても欲しい本以外は図書館を利用しようと考えた。横浜市立中央図書館は拙宅から徒歩で往復、約8,000歩、散歩にも程よい距離の野毛山にある。動物園にも近い緑に囲まれた丘の中腹に煉瓦で覆われたどっしりと建つ落ち着きのある建物である。市民なら1回6冊まで本を借りることができる。妻名義の図書カードと2枚発行してもらった。これで12冊まで、2週間借用できる。リュックサックを背負って1か月1、2回通っている。これまでどのくらい借りていたのであろうか。借りだした書籍名をもとにざっと数えてみると12年間に1400冊以上になっていた。下種な話であるが、文庫本も単行本も均して1冊1000円とすると140万円にも達する。文庫本書下ろしが専門の有名な某時代小説作家は本が売れなくなったと嘆いていた。そうであろう。スマホ、ゲームに夢中の若者は本を読まなくなったし、老人も年金を書籍代に廻すほどの余裕も無くなり図書館の利用者が多くなった。昨今の住宅事情で自宅に本棚などを置くスペースもなくなった。図書館は小説類の購入冊数を制限すべきであるといった意見をどこかで見たことがある。作家にとって、本が売れないのは死活問題であろう。

 目的の本が貸し出し中の場合は予約でき、返却されるとメールで知らせが来る。ある時、書名は忘れたが、10人以上の先約があり半年以上待たされ,予約したのを忘れたころに知らせがあった。一冊の本が何十人もの人に読まれるのはその本にとっては幸せであろうが、これでは本が売れないわけである。

 市町村の財政がひっ迫し、図書館が廃統合されたり、図書関係予算が削減されていることも大きな原因であろう。神奈川県立高校の年間図書費はいくら位と思われるであろうか。少し古いデータであるが、2019年時点でなんと1校当たり、たった14万円である。その後少しは増額されたとのことであるが、それにしても少なすぎる*)

5、6年前、4人の孫たちに、1人、毎月3000円以内で、マンガ本と勉強関係の本以外、どんな本を買ってもよいという条件で、レシートと引き換えに本代を与えることにした。後者は親の責任であると思うからである。その孫たちも大学生や受験生となり、こちらの年金も年々心細くなってきたので昨年あたりから自然消滅した。

 少し自慢話になるが、私の母校、片貝小学校、中学校(新潟県小千谷市)には毎年、東京片貝会(郷土出身者の関東近辺在住者の会)から、それぞれに10万円づつ図書費を贈っている。この慣習はもう40年近く続いており、拠金は会員たちの寄付により賄われている。親子でその文庫を利用させていただいているなどという便りの届くことがある。寄付金で購われた小学校の図書には、校歌 ”洋々として流れ行く、大河信濃の水清く・・・“ に因み「洋々文庫」と名付けられた。他校から転任してこられた先生方は両校の図書館に図書の多いことに驚かれるという。毎年、東京片貝会総会の折に図書費贈呈を行っており、その際、両校の校長が上京され、母校の子供たちの様子を話される。

 図書館から借りる本はほとんどが小説、それも芥川賞作家の書くような純文学ではなく直木賞作家系統に代表されるエンターテイメント小説である。図書館の入口には、昨日返却された図書がそのまま借りられるような棚が設けてあり、ここから見つけた本にはあたりが多い。中には哲学や宗教関係の本なども見かけるが、このような書を借りるのはどんな人か、偉いもんだと思う。

 頻繁に借りる好きな作家を順不同に挙げると大沢在昌今野敏東野圭吾佐々木譲澤田ふじ子宇江佐真理逢坂剛、高田郁、五木寛之山本一力乃南アサ佐伯泰英堂場瞬一中島京子あさのあつこ池井戸潤恩田陸浅田次郎川上弘美等々、きりがない。少し硬い作家、エッセイストでは須賀敦子藤原正彦塩野七生、内田洋子、佐藤優藤原正彦磯田道史等。プレデイみかこは非常に賢い、感度の高い人だ。武田百合子の「富士日記」は何度読んでも面白い。70代、80代の人達にはどうか長生きして書き続けて欲しいと思う。外国の作家がないのは、カタカナ表現の人名を覚えられないこと、昨今はそれほどでもなくなったが翻訳文に特有のぎこちない文章表現が肌になじまないからである。若いころはむしろ、日本の作家は無視し、欧米の小説類に夢中になった。著名な海外作家の推理小説類もずいぶん読んだ。若さの勢いか、硬直な文章表現も気にならなかった。それが年とともに感情移入が困難になり、避けるようになったのである。

 最近は記憶力も衰え、登場人物が5人以上の小説はその名前、役わり等覚えきれず、読むのが億劫になってきた。本の初めに登場人物の名前、位置づけ等のリストの載っているのは非常にありがたい。同一の本を2回借りてくることも時々ある。ページも残り少なくなってから、なんだか既視感があって、話の展開が予想着くようになり、慌てて既読書名のリストを見ると載っているのである。段々その頻度も多くなることであろう。年を取るとはこういうことか。それでも、未だ巡り合えていない面白い小説に出会いたいと思う。

*大山奈々子、「阿」、第3号、p.16 (2019).