2020年11月 Go to トラベル

 コロナ禍が未だ第三波の始まる前の少し安定していた去る10月下旬,久しぶりに近畿日本ツーリスト企画のツアーに妻と参加し,二泊三日の奥能登方面の旅をしてきた.行きは富山まで,帰りは高岡からの北陸新幹線でその間はバスツアーだった.北陸新幹線には初めて乗ったが,全席指定で快適だった.コロナ禍で外出を控えていた人たちが満を持してGo to トラベル企画に参加したという感じで,2台のバスは満員であった.奥能登はほぼ60年前の学生時代,学会の夏の学校に参加した折,あちこち廻った思い出があるが,それ以来である.以下に印象に残ったことを述べる

 初日,のと鉄道七尾線能登中島―穴水間を観光列車に乗った.新型コロナ菌感染予防のためか,飲食類の販売はなく,地酒も飲めず少し残念だったが,紅葉にはまだ早い沿線の風景を楽しんだ.天候は時々雨だった.中島町(七尾市)には俳優の仲代達矢氏が主宰する無名塾が1985年から毎年合宿していたことが縁で開館した劇場・能登演劇堂(のとえんげきどう)があり,毎年,演劇が行われているという.ホテルは2泊とも志賀町にあるローヤルホテル能登だった.

 二日目,鴨ヶ浦,輪島朝市,白米(しらよね)千枚田,揚げ浜塩田,聖域の岬(珠洲岬),真脇遺跡などを巡って,ホテルに戻った.鴨ヶ浦では遊覧船に乗る予定だったが,波が高く欠航だった.行きかえりに白米千枚田を通った.千枚田は耕運機も入れず,耕作者が老齢化して耕作できなくなったが,オーナー制度を取り入れることによって見事に復活し,今では世界農業遺産に登録されている.この制度は2007年に千枚田の景観を守るためスタート,稲作体験を通じて先人の苦労,生産の喜び,米一粒の大切さを理解するとともに会員(200名に限定)と地元農家の人々の交流を大切にする制度である.

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白米枚田

 水田一面当たりの面積は18 平方メートルと狭小で約4ヘクタールの範囲に1004枚の田があり,「田植えしたのが999枚,あとの1枚蓑の下」と古謡にうたわれているとか.帰りに通ったときはLEDで美しくライトアップされていた.

夕方,能登半島の東側の真脇海岸に近い縄文遺跡に立ち寄った.何の信仰のためか大きな栗の樹が並んで掘りだされたという跡に高さ5mくらいの太い柱が5本立っていた.また,直径7mくらいの環状木柱列もあった.放射性炭素年代測定から約2,800年ほど前の縄文時代晩期に作られたものという.もっとあちこち見て回りたかったが,薄暗くなってき,他の人たちはバスに引き上げたのでやむなく後を追いかけた.

三日目は雨の宮古墳,御手洗池(聖武天皇の皇太子の眼病治療に使われたでいう伝説),青林寺,のとじま水族館,コスモファイル羽咋(はくい),雨晴れ海岸等を巡り,新高岡から北陸新幹線で東京経由で帰宅した.

まず,雨の宮古墳群を見学,ここには4世紀から5世紀にかけて創られた36基の古墳が連なっているとか.発掘されて露になった1号墳に登ってみた.発掘された遺物の展示館は時間がなく見られなかった.足元が不如意の妻のみ案内付きで見学した.

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            雨の宮古墳群1号墳 

いつもこのような遺跡を訪れるとき思うのだが,当時の人々はどんな日々を送っていたのだろうか.大部分の時間は食料確保に費やされたであろうが,それでもお祭りがあったり,人が生まれたり,死んだりと日々の喜怒哀楽に富んだ生活があったことであろう.タイムスリップしてみたい.特に私が気になるのは,当時の人々がどんな言葉で話していたのだろうかということである.今の私たちが話す日本語とはかなり異なっていたであろうことは想像できるが,それにしても当時,テープレコーダーがあったらなと思うのである.

圧巻だったのはコスモファイル羽咋(はくい)(宇宙科学博物館)で,本物の宇宙船の展示がある.どういうわけか,羽咋市には昔から,UFOを見た人が多く(3人に1人とか),数えきれないほどのUFOの写真展示や記録資料のファイルがあった.UFOによる町おこしとなった博物館建設を推進したのは,市の職員だった高野誠鮮氏の型破りの発想と行動力である.日本で初めてのUFO国際シンポジウムを開催し,アメリカや旧ソ連の本物の宇宙船をここに持ち込んだ.その資金集めや宇宙船入手過程の苦労などは (http://www.hakui.ne.jp/ufo/01_02story.html) を参照されたい.説明員に「よく,ソ連が実物を手放しましたね」と尋ねたら,実際に宇宙を飛んだ宇宙船が5機あって,ガガーリンの載った1号機はモスクワの国立博物館に保存されているが,その他はソ連崩壊時,財政難で手放したのだとか.それにしても一人の人間の情熱と型破りの行動力が町おこしとなり,周囲の雰囲気をがらりと前向きに変えることができたことに深い感銘を受けた.

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宇宙船ボストーク1号