2020年9月 「・・・さん」

 

 昨今,気になる言葉づかいの一つに職業名にやたらに“さん”付けをすることがある.多くの人は気にならないかもしれないが,私は気になって仕方がない.新聞や書籍などで,一般的な職業内容の描写の中で,例えば,保育士さん,

農家さん,小説家さんなどと表現されているのである.未だ,見聞きしたことはないが,そのうち,政治家さん,先生さん,主婦さん(職業ではないが)などが飛び出してくるかもしれない.下記はある出版社のPR誌で,ある新人作家(さんではない) が自著を語るというエッセイの中で書いている文章の一部である.

 「・・・・本書によって,自分はこういう小説も書けるのだと発見できたこと.もう一つは,一部の書評家さんや他社の編集者さんが本書を気に入ってくれたおかげで,自分の方から「何か書かせてもらえませんか」という手紙を新刊本を添えてあちこちの出版社に送ったりしなくても執筆依頼の連絡をもらえるようになったことだった.」

 何故,書評家や編集者でなく,それぞれに“さん”を付けるのだろうか.自分は未だ新人であるから,これかからお世話になるこれらの人たちに“さん”を付けないと失礼に当たると思ったのだろうか.この作家が彼等におもねっているように思えて仕方がない.次も数日前の新聞で見かけた記事である.

 ある新人女優 (この女優という言葉も差別用語らしく,これからは俳優としなければならないらしい.女優は女性俳優とでもいうのだろうか) がインタビューで「今後の目標は?」と聞かれたのに答えて,彼女は「女優さんとして,もっと幅のある人間になりたいです」と答えていた.答える際,先輩の顔でも浮かんだのだろうか.瞬間的に女優さんと言葉に出たのかもしれない.あるいは確信して女優さんと言ったのだろうか.彼女の発言はその通りだったのかもしれないが,文章にする際,何故記者(この記事は,署名入り) はさんを取らなかったのだろうか.ジャーナリズムの世界ではさん付けが当たり前になっているのだろうか.言葉は,はじめ違和感を覚えても,徐々に受け入れられていくうちに当然な使い方になっていくものではあるけれど.やたらにさん付けされると

反って慇懃無礼の感がする.

 ある職業の人を直接呼び掛けるのに,その人の名前がわからないとき,例えば「郵便屋さん」とか,「看護師さん」(昨今は看護婦さんというのも差別用語になるそうな,後述)というのは“さん付け”で納得できる.その人の人格に呼び掛けるのであるから.ただし,人格のない一般的な表現の中で,職業にさんを付けるのにはどうしても抵抗を感じるのである.

 何故,このように“さん付け”が流行るようになったのだろうか.私はポリテカル・コレクトネス(PC) 1) に対する過剰反応のためではないかと考えている.ポリテカル・コレクトネスとは西洋的な白人男性中心主義とマイノリティの価値観が衝突し,さまざまな社会的問題が露呈したアメリカでうまれた概念だが,1980年代以後に一般化し,今日では世界各国に広まっている.日常的に使われている言葉には,現代の人権感覚や歴史認識を基準にすると不適切なニュアンスを持つものが数多く存在しており,PCはそうした言葉の使用によって人種・民族・ジェンダー・職業・宗教・ハンディキャップなどに対する差別意識を助長することを防ぐ立場である.「インディアン」と呼ばれていたアメリカの先住民を「ネイティヴ・アメリカン」と表記することや,肌の色による呼称である「ブラック(黒人)」を「アフロ・アメリカン」と改めることなどは,PCに基づく言葉の是正の代表的な事例である.我が国における具体例としては,「保母」や「看護婦」という名称が,対象を女性のみに限定するような印象を与えてしまう可能性を考慮して男女の別なく用いることのできる「保育士」や「看護士」に変更されたことなどが挙げられる.“さん付け”もこのような世の中の流れの中で,職業名の“さん付け”を行うことで差別しているという印象を与えるかもしれないことから逃れるための誰かが考え出した姑息なやり方だったと思われる.だいたい,職業名の後の“さん”の有無によってその職業を尊重したり,あるいは卑しめたりすることになるのだろうか.

一方で,PCの追求が逆差別や度の過ぎた自主規制や,表面的な「言葉狩り」のような事態を引き起こすこともある.とりわけ文学・映画・漫画などにおいては,古い作品に含まれている差別的な用語や表現が無闇に害のないものに置き換えられる場合があり,その際に作品が本来有していた内容や文脈が損なわれることが問題視されている.最近,TVでよく放映される,私の大好きな寅さん映画ではこの懸念を払拭するために,映画の冒頭に「本作品の原作の趣旨を尊重するため,現在では使うことを禁止されている差別用語も原作のまま用いていますのでご了承ください」と字幕が現れる.寅さんが口癖の「労働者諸君!」とやるところを「労働者さん諸君!」とやってもしまらない話である.

それにしても言葉使いは難しい.人それぞれ,その言葉に対する語感,思い入れが異なるのであるから.