2019年11月 化学者の資質について 

 かなり以前のことになるが,和田昭允著「物理学は越境する」(岩波書店)を読み,感銘を受けたことがある.著者は東京大学理学部化学科出身で触媒化学を研究されたのち,わが国の生物物理学創始者の一人として,同大学物理学科に転科され,そこに生物物理学講座を設立された.その著書には,世界一流の化学者になるためには,三つのM(3M),すなわち,Material (物質),Method (手法), Mechanism (反応機構) のうち,どれかで超一流でなければならないと説かれている.ちなみに我が国のノーベル賞受賞者について見てみよう.白川英樹教授は導電性高分子(ポリアセチレン)という非常に応用性のある新しい物質(Material) を合成された.今回ノーベル化学賞を受賞された吉野彰氏もリチウムイオン二次電池の研究初期にこのポリアセチレンを電極反応物質候補として検討されたようだ.福井謙一教授の受賞理由は化学反応過程の理論的研究・フロンテイア軌道理論の構築でこれは.Mechanismに分類されよう.野依良治教授も化学反応機構(Mechanism)を詳しく追及され,有機化合物の光学異性体を極めて高収率で得ることのできる新しい不斉合成法を見出された.田中耕一博士は,今多くの化学者が恩恵を受けている質量分析装置(Method)を開発された.そして,今後の化学者は一つのMでは不十分で二つ以上のMが必要であると強調されている.

 さて,これからが本題である.今回の吉野博士は三つのMのどれに当てはまるのか,ちょっと考えてみたがどれにも当てはまらないのである.リチウムイオン電池に必須の正極反応物質,コバルト酸リチウム(LiCoO2)は今回の受賞者であるGood Enough教授や水島公一博士がすでに合成されていた.

 この電池ではリチウムイオン(Li+)が正極と負極の間を充電,放電のとき,往復する,いわゆるインターカレーション現象がキーポイントであるが,もう一人の受賞者,Michael Stanley Whittingham 教授が初めて,この電池の原理を発明し,正極に二酸化チタン(TiS2)という層状化合物を使用し,その層間にLi+が出入りするインターカレーション現象が長寿命の充放電サイクルを可能にすることを見出している.吉野博士は正極に上記のコバルト酸リチウムを,負極に当初,ポリアセチレンを検討したがうまくいかず,旭化成の別の研究所で研究されていたVGCF(気相成長法炭素繊維)を採用することにより原型が完成したという.すなわち,吉野博士は既存の物質,知識(学問),情報を深く理解し,巧みに使いこなすことによって,世界をがらりと変えるようなタフな新しいシステムを創製された.リチウムイオン二次電池は正極,電解液,負極の巧みな組み合わせによって長期間,充放電が可能になった一つの新しいエネルギー変換システムである.
 このことは我々に大きな勇気を与えてくれる(もっとも,私には時すでに遅しであるが).すなわち,3 Mのどれかひとつで,これまで世の中に知られていなかった新しいことを発明,発見することはとても素晴らしいことであるが,目的さえ正しく,しっかりとしていれば,既存の3 Mを駆使しても新しいものが生み出せる可能性があるということである.最も大切なことは,新しい概念,イメージの構築であり,これを実現するための飽くことなき執念であろう.はたからは一所懸命に研究しているように見えても,漫然と実験を繰り返していては無駄なデータが蓄積されていくだけで,決して新しいことは生み出されないのである.