2019年7月 私の学位論文 その2

20197月 私の学位論文(その2
 

アセトニトリルは沸点82℃で水を吸収しやすく,かつ気化しやすい液体で毒性があるため取り扱いに十分注意すること.試薬特級でもかなりの水を含んでいるので蒸留を何回も繰り返すことなど親切にいろいろご指導をいただいた.水を嫌う作業をするためにはグローブグボックス(水分をほとんど含まない気密性の高い容器)が必要であるが,ようやく,半導体工業でグローブボックスが使われ始めていたころで実験用グローブボックスなどどこにも売っていなかった.そこで,仙台市内にあった大友木工所に依頼し,幅90 cm, 高さ60cm, 奥行50cmくらいの木製の箱を作ってもらった.前面の上半分は蝶番を付け,折り畳み式で蓋を上部に開け閉めできるようにした.また,前面にガラス窓を付け中がのぞけるようにし,内面には厚さ3cmくらいの発砲スチロールを張り,少しでも湿気をよばないようにした.前面にはゴム製の手袋を取り付け蓋をしたままで内部での操作ができるようにした.さらに電気化学計測用の±のターミナルも取り付け,測定セルを中に設置したまま,外部の計測機器と連結できるようにした.今から思えば,いわゆるグローブボックスとは程遠く,気休め程度の乾燥箱といった程度のものであった.問題はアセトニトリルの蒸留だった.無機化学講座に所属していたから有機溶媒の精製,蒸留など全く経験がない.有機化学専攻の友人に蒸留器の選択,蒸留のやり方など一から教わった.乾燥剤として五酸化リン(P2O5)を蒸留器に添加し蒸留するのであるが,教わった通りにやってもなかなか水分が抜けなかった.カールフィッシャー法で水分の定量をするといつも100 ppm近くあったのではなかろうか.当時のアセトニトリルには試薬特級と言えども不純物として水の他にアンモニア,酢酸,アクリロニトリルが含まれていた.これらがなかなか除去できなかった.これは精製したつもりのアセトニトリルに支持電解質(電流を流れやすくするために加える塩で直接電気化学反応には関与しない)としてテトラエチルアンモニウム過塩素酸塩*1.これは形式的には鉄(II)→鉄(I)→鉄(0)→鉄(-1)の還元に対応するもので,本来,鉄単独で原子価が1価や-1価は存在しないが,ビピリジン錯体のため,電子がこれら配位子の方に局在化し,錯イオン全体として本来あり得ない低原子価状態が存在し得るものと解釈した.これらはのちに後輩の尾形君(山形大学名誉教授)東工大の佐治博士(現名誉教授)ESRその他の測定法で証明してくださった.中心金属を他の遷移元素Cr,Mn,Co,Ni等に変え,それぞれ異常低原子価錯イオンがアセトニトリル中で存在することを初めて電気化学的に示すことができ,コースドクターの人達より2年半遅れようやく学位をいただくことができた.下図はクロム(III)錯体のポーラログラムで,4段波までは下記の反応式に対応する.5段目の還元波は水の存在量とともに増大するので錯体とは関係ない溶媒関連の反応である.なお,この図では現在の表記法とは異なり,還元電流を正に,電位も右側に行くほど負電位に取っている.

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今思えば3年近くもノーペーパーの私を田中先生はよくまあ辛抱強く黙っていてくださったものと感謝している.その後,東芝に移り,上司で大学の先輩でもあった高村勉博士(去る1月逝去)のもとで本務とは別に上記の研究を続けた.高村氏の開発された鏡面反射率法を併用し,上記低原子価錯体の可視,紫外部の吸収スペクトルを測定することが可能となり,これらが評価され,日本化学会の進歩賞を受賞することができた.その後,40数年間,リチウム電池等の研究開発に携わることになったが,きっかけはアセトニトリルの精製からだった.いま,これらリチウム電池に必要な有機溶媒,あるいは電解質の溶解した電解液を購入すれば,水の含有量はゼロに近く,精製する必要もなくそのまま使用可能で夢のようである.

*1:C2H5)4NClO4)を添加し,ポーラログラム(電流電位曲線)を測定すると何も電流が流れないはずの電位領域に得体のしれない電流が流れた.除去しきれない不純物の酸化や還元に基づくものである.本来の業務である学生実験の指導や受け持ちの卒研生の研究指導の合間に今度こそはと期待しながら何十回も蒸留を繰り返した.大手の化学メーカーに就職した友人になかなか水が抜けないとこぼすとその会社ではJIS規格をはるかに超える高純度の物ができるので規制値以内で水を少し加えていると聞き,頭にきたものである.たまに田中先生から「調子はどうですか」と聞かれたが,なかなか歯切れのよい答えができなかった.同じ研究室の同期3名が博士課程に進学したが,彼らは着実に成果を上げ,論文を投稿,学位論文作成に励んでいた.もう今ではそれぞれ,奈良女子大学・名誉教授,岩手大学・名誉教授で,あと一人は残念ながら宮城教育大学助教授のとき夭折した.そのころの化学教室の廊下は確かコンクリートだった.田中先生の靴には鋲が打ってあったのか,少し速足のせわしない足音がコツコツ聞こえると,別に悪いことをしているわけではないが,顔を合わせないようにと部屋を出るのを避けたものである.2年目も過ぎるころ,ようやく不純物が除去されたのか,ノイズの少ない電流電位曲線が採れるようになった.そこで,ある日思い切って,還元物質としてトリス(ビピリジン)鉄(II)過塩素酸塩([Fe(bipy)3(ClO4)3])を加え,ポーラログラムを測定すると電流比1:1:1のきれいな3段の還元波が現れたではないか.早速,田中先生に報告すると非常に喜ばれ,すぐLetterとして投稿しましょうと言ってくださった(N.Tanaka, Y.Sato,Inorg. Nucl. Chem. Lett. 2, 359-362(1966

2019年6月 私の学位論文

20196月 私の学位論文
 
 今から56年ほど前,修士課程(博士前期課程) 2年の頃,父に博士課程に進学したい希望を告げ,ようやく了解を得た.その旨,指導教官の田中信行先生(東北大学理学部化学科教授) に恐る恐る申し出ると先生から「助手にならないか」と言われた.指導教授の命令は絶対である.我が家の経済状態も厳しかったのでありがたくこれに従った.「学位も取りたいのですが」と申し出ると「それでは研究テーマは“非水溶液のポーラログラフィー”にしたまえ」と言われた.
 ここで,ポーラログラフィーについて少し説明する.ポーラログラフィーとは電気化学計測法のひとつで,ボルタンメトリーとしてチェコJaroslav Heyrovsky (ヤロスラフ ヘイロフスキー, 1890-1967)と当時,彼のもとに留学していた志方益三(京都大学教授,1895-1965) によって考案された.作用電極として滴下水銀電極を用いることが特徴で,直線的に電極電位を連続的に変化させて応答電流を測定するもので(電位走査法ともいう),彼らは電流と電位の関係を自動的に計測する装置を完成させた.ガラスキャピラリの先端から数秒間隔で落下する水銀滴が落下するまでの間にその水銀表面で起こる電気化学反応によって流れる電流を測定するのである.水銀滴は次々更新されるから,常に清浄な電極表面での電流を再現性良く採取できる特長がある.1959年,Heyrovskyはこの功績でノーベル賞を受賞している.1950年代から1990年代にかけ,この学問はチェッコスロバキヤと,わが国,および米国が世界の最先端を走っていた.田中先生も助教授の玉虫怜太先生と“田中・玉虫の式”と言われる電極反応の解析式を提案され,Natureに論文なども掲載され,研究室は意気が上がっていた.
当時は水溶液中での電気化学反応を研究することが主体で水以外の溶媒を使う研究はほとんど知られていなかった.その時は面目ないことに「どのような意図で,なぜ,非水溶液なのですか」と問いただしもしなかったし,先生も何も説明されなかった.勘の良い先生だったから,水溶液中では知られていない新しい現象でも見つかるかもしれないと予想しておられたのかもしれない.水溶液中では電位を負側にしていくと水の電気分解で水素が,正電位側では酸素が発生するため,それ以上負,および正電位側での電極反応が起こっても観測できない.分解しにくい有機溶媒(プロトン性溶媒)を用いれば,より広い電位範囲での電気化学反応を観測することができる.水と激しく反応するため水溶液を用いては不可能なリチウム電池が成り立つ所以である.恥ずかしながら,このようなことを当初,明確に意識していたわけではなく実験しながら徐々に会得していった.当時は非水溶液の電気化学などという言葉すらなかったし,文献も見当たらなかった.どのように研究を始めてよいか,全く見当もつかない.困ったなと思いながら,あちこち当たってみたら,化学教室の近くにあった“東北大学金属材料研究所”通称“金研”に,Minesota大学のI. M. Kolthoff教授 (分析化学分野の世界的権威) のところに留学されていた池田重良先生(大阪大学名誉教授) が帰国されたばかりで,向こうでアセトニトリ(CH3CN) 溶液中のポーラログラフィーの研究をされてきたらしいとのうわさを聞きこんだ.早速,先生のところに伺い,アセトニトリルの取り扱い方などを教わってきた.池田先生は親切に細かいところまで教えてくださった.(以下次号)

2019年5月 烏との攻防

20195月 烏との攻防
 
     ごみ漁る烏を叱る冬の朝   祐
 この数年,烏に悩まされている.我が家の地区の生ごみの収集は毎週,火曜日と土曜日である.この日の朝,あるいは不心得ものは前日の夜のうちにビニール袋等に入れた生ごみを定められた場所に出しておく.それを午前8時ころ,市のごみ収集車が持っていくのである.朝,ラジオ体操に行く前にこの収集場所を見ると,必ず烏が数羽,くちばしでごみ袋を破って中から,生ごみを引っ張り出し食い散らかしている.周囲はごみだらけ,これを掃除してからラジオ体操に行くことを数年間続けている.ラジオ体操から戻ると,また,散らかっていることも多い.私は未だ経験がないが,烏は人の顔を覚え,強く叱るとその人を襲ってくるとか,昨年のことなのに覚えていて今年もまたやられたとラジオ体操仲間の一人が言っていた.烏は賢いとはよく聞く話である.クルミを車に轢かせて.殻を割ってから中身を食べる習慣(知恵)仙台市の川内地区の道路から始まったと数十年前の「科学朝日」で読んだことがある.私も学生時代よく通った東北大学教養部のあるところである.
以下はかって,津波でやられる前の岩手県大槌町に職場のあった息子から聞いた話である.車通勤していた彼が海際の道路に通りかかると道路の真ん中に居座る烏をしばしば目にしたとか.近づく車に慌てる様子もなく,烏はくわえていた貝を道に置き,ピョンピョンと道端に移動してから,期待のこもった視線を送ってくる.烏の狙いを知っている彼はひょいと貝殻を避けてやり過ごしてからバックミラーで確認すると,烏は恨めしそうにこちらをにらみつけていたとか.この辺,少し嘘っぽいが,烏が車に貝殻を轢かせてから中の身を食べるのは確かなようである.例の東日本大震災のために彼の勤務先の建物は津波にやられ,長い間無人になっていた.春になると烏は建物内のパイプ周りの断熱材をくちばしでむしり取り,巣作りのために持っていった.周りは散らかるし,困った彼は知人の宇都宮大学の「カラスの専門家」に相談したところ,“警告文”を出してみてはとのアドバイスを受けた.冗談だろうと思ったもののほかに良い知恵もなく,試しに「カラスの進入禁止」と書いたビラを何枚か,ガラスの割れた窓やその辺につるしたところ,果たしてカラスが建物内に入ってこなくなったという.烏は文字が読めるのではなく,警告文を目にした通りがかりの人たちが,不思議に思って,その辺の頭上を飛びかう烏を見上げたり,指さしたりすることに警戒して寄り付かなくなるらしいとのことである.この効果はここ数年続いているとか.新聞にも取り上げられた*1
 さて,こちらの生ごみ対策の方である.まさか,警告文を出すものはばかられたので,マンションの管理人さんにお願いして,出されたごみ袋類を覆いかぶせるためのネットを購入してもらった.言い出した建前上,私が朝,ごみ袋の上にネットをかぶせ,収集車がごみを持ち去ったあとはそれを撤去している.さすがに細かいネットの穴からごみを取り出すのは烏には無理のようで,今のところ効果が出ている.ただし,困るのは,ネットを持ち上げ中にごみ袋を押し込めばよいのに無精をし,ネットの上にそのままごみ袋を置いていく不心得もののいることである.これには往生である.烏がこれをつついてまた散らかしている.
 この辺に烏が非常に増えたのはこの生ごみと鳩等への撒き餌のためであろう.烏が撒き餌のおこぼれを頂戴しているのである.毎朝ラジオ体操でお世話になっている阪東橋公園と我が家の近くから関内まで続いている大通公園には“鳩や野鳥に餌を与えないで下さい”と書いた看板があちこちに立っている.しかし,これを無視して餌を与える人が絶えない.通りがかりにこれを見つけると妻はよく看板を指さしながら注意しているが,効き目はない.「だって,鳩がかわいそうでしょう」と言い合いになっている.このような人はきっと寂しいのであろう.掌に鳩を止まらせて得意げな人もいる.
ハンガーの透けて見えるや烏の巣   祐
この頃の烏の鳴き声は「あー,あー」と聞こえる.妻がよく「へたくそだね」と言う.親も生活に追われ,子烏に正しく鳴くことを教える余裕がないのかもしれない.それともウグイスのように「キョ,キョ,キョ」と初鳴きは下手でもだんだん上手になっていくのだろうか.ある時,烏が9階の我が家のベランダの植木鉢に罪滅ぼしのつもりかソウセージを置いていった.
 
*1) 朝日新聞2017516日付け夕刊
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年4月 俳句講座

20194月 俳句講座
 
 昨年夏より俳句を始めたことは前に述べたが1), 一人よがりでは上達しないと考え,去る10月から神奈川大学生涯学習・エクステンション講座「入門俳句実践講座・新初歩の初歩」を受講している.講師は本学名誉教授・復本一郎先生である.先生は国文学者として著名な方で,神奈川大学が主催する,もう21年も続いている“神奈川大学全国高校生俳句大賞”の企画発起人でもある.講座は月2回開かれ,190分で講義と句会が交互に行われる.受講生は25人,男性12面,女性13名で後者の方が多い.第1回目の開講日に恐る恐る出席したところ,新人は私1人,あとは1年以上,中には7,-8年続いているベテランもおられた.受講希望者が多く,なかなか空きがないのだそうな.私は本学OBということで情状酌量されたのかもしれない.講義の方は正岡子規著「獺祭書屋俳話,芭蕉雑談」(岩波文庫) をテキストに先生が解説される.このテキストには復本先生の詳細な注解・解説が付いている.句会の方は前回最高得票者の指定する季語を使用するか自由題で3句提出し,その後無記名にした75句から,各人が良いと思う句3句を投票,票数を数えるのである.これとは別に先生が“師選”として数句を選定され〇印が,最も優れた句には◎印が付く.このあと,それぞれの句の作者が名乗りを上げる.この後,先生や出席者の辛口の批評が行われる.第1回目の句会の時,自作3句の内,師選に2句,2句に得票が各1票づつ入って少し安心した.中には同一句に8票も得票する人がいる.3月に修了したこの下期の句会の内,私の最高得票句は4票だった.興味深いのは最高得票句でも師選の〇印の付かない句のあることである.それだけ,俳句には多様性があり,各人の感度が異なるということか.3月末,有志の方の好意で1年間の成果をまとめる俳句集が作られた.これには各人が自信作18句を提出した.句集の1ページ目には復本一郎選・優秀作品,一席から三席までと佳作10句が印刷されていた.大変うれしいことに,ビギナーズラックか,私の句,“八月はさびしき月ぞ西瓜食ふ”が一席だった.
 俳句に関わる別の話,去る310神奈川大学で“第二十一回神奈川大学全国高校生俳句大賞”授賞式が行われた.応募作品数は万を超えた.選者は復本先生の他,宇多喜代子(読売俳壇選者),大串 章(朝日俳壇選者)長谷川櫂(朝日俳壇選者),黛 まどか(俳人)6人,現在の我が国を代表するそうそうたる先生方である.表彰式に引き続き,シンポジウム“俳句と虚構-―文学としての俳句”が行われた.小説は大部分がフィクション,虚構である.俳句が文学として成り立つために虚構は是か非かという面白いパネルデイスカッションが行われた.結論は4人が虚構を是,1人は非というものだった.蕪村の有名な句に“身にしむやなき妻の櫛(くし)を閨(ねや)に踏む”があり,蕪村が亡くなった妻を悲しんでいるように見える句であるが,実際は妻のともの方が31年も長生きし,臨終の際,自分を蕪村墓所に葬るよう遺言したという.写生句を唱えた子規も空想を大いに推奨している.非常に愉快なことがあった.最優秀受賞作品に選ばれた和歌山県の某高校の女生徒作の3句のうち1句目は父親が重い病気にかかり話もできなくなった.メールの文字も打てない,会話はスマホの絵文字のみである.2句目は父はやせ細り,その手が白くなって母の手に似てきた.3句目は父の湯灌(ゆかん)も終わり,父が丹精して栽培したりんごを食べるというもので5人の選者は絶賛した.ところが父親は元気でピンピンしていることが判明し,見事に選者たちは騙された.恐るべき女性が現れたものである.俳句でもあるいは作家などでもよいが,大成してほしいものである.
 俳句を始めて変わったのは,季節の移り変わりに敏感になったこと,言葉使いの細かいところまで気になるようになったことである.いつまで続くか,佳句がなかなか作れない.上記の句会などで他人の句の選句や師選の句などはかなり自分の判断と一致するのだが,自作となるといいのか悪いのか判断できない.自信作と思ったのに一票も入らなかったり,期待しなかった句が思いがけず選ばれたりする.自分自身を客観的に評価するのは難しいものである.
 1)201810

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年3月 大学入試の頃

20193月 大学入試の頃
 
受験シーズンもほぼ終わった.
    サクラサク六十年も前のこと    祐
 この句の意味が分かるのはかなり年配の方であろう.「サクラサク」は大学入学試験の合格を受験生に知らせる電報文である.不幸にして不合格の場合は「サクラチル」であった.生協だったか任意の学生団体かは不確かであるが,彼らの重要な収入を得る機会であった.まだ,インターネットもスマホもないころである.合否を早く知りたい受験生は受験の時,あらかじめ住所,氏名,受験番号を知らせ,料金を支払っておく.金額は忘れてしまったが現在の感覚で1000円くらいでなかったかと思う.掲示板に合格者の受験番号が張り出されると担当者はその番号を記録し,合否に応じて,受験生に上記の電文を送るのである.地元なら大学に直接,合否確認のため赴けばよいが,大学と遠く離れた受験生には合否電報は便利で広く利用されていたようである.だが,私はこの電報を申し込まなかった.もし,合格すれば,翌日の朝刊に氏名が載るだろし,いずれ大学から知らせが来るだろうからと考えたのである.もともとけちな性分なのであろう.電報料金がもったいなかった.でも,もう結果がわかっているのに翌朝までわからないのがじれったかった.申し込んでおけばよかったと後悔したがあとの祭り,母に「なんで申し込んでこなかった」と叱られた.翌朝早々,近所に住む友人のFが「合格したぞ」と私が新聞を見るより先に知らせに来てくれた.彼は家庭の都合で上京後,新聞社に働きながら大学夜間部に通うことになっていた.その彼の親切がありがたくうれしかった.例年,今頃になるとこの場面を思い出す.個人情報保護といった概念の薄かった当時は,おおらかなもので読者へのサービスからなのであろう,受験シーズンになると新聞の地方版にその地域に住む国立大学合格者氏名を掲載していたのである.
 今の受験生はよほど経済的に困窮していないかぎり,複数大学,あるいは複数学部を受験するのが常態のようである.友人たちに確かめたことはないが,私たちの頃はそうでなかったのではないか.少なくとも私の場合は1校のみであった.私はもともと考古学をやりたかった.高校2年のころ,このことを父に話したら,技術者の父からは「文学部を出ても就職口はないぞ,理系にしろ」と言われていた.あとに弟,妹達が3人もおり,経済的にもゆとりのなかった我が家では「私学はダメ,受験は国立1校のみ,落ちたら浪人もダメ,丁稚奉公だぞ」とも厳しく言われていた.落ちた場合は就職しろということである.父は工学部に行かせたかったらしいが,私は数学,物理が苦手で国語の方が成績が良かった.運が良ければ受かるかもしれないとターゲットにした大学は工学部の方が理学部に比べ,受験時の数学の配点が高かった.そこで,配点の少ない理学部に焦点を絞り,必死に数学の勉強をした.幸い合格したからよかったもののもし不合格だったら浪人できたのだろうか.父に尋ねたことはないが,しぶしぶ許してくれたのではないか,現に弟たちはいずれも浪人しているのである.遠い昔の話である.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年2月 東京片貝会・母校を励ます会

20192 東京片貝会・母校を励ます会
 
 関東地方には多くの県人会や郷里出身者の親睦団体がある.私の出身地新潟県小千谷(おじや)市片貝町 (2004年の中越地震震源地に近く,四尺玉で有名な花火気違いの町である) にも東京片貝会(会員約350)があり,今年,創立60周年を迎える.その昔は農村で兄弟が多かったから,長男以外はほとんど地元を離れた.江戸に出た男性には風呂屋や米屋に奉公したものが多かった.つい60年ほど前まで,女性は女工として関西方面まで紡績工場等に,また集団就職で関東方面に来る人たちも多かった.郷里を想う心は人一倍強くても新幹線で日帰りが可能な現在とは違って簡単には帰省できなかった.江戸時代にも多分,関東地区に存在するそんな人たちが懇親会に集まっては故郷を懐かしんだことであろう.東京片貝会が戦前にもあったことが記録に残っているが戦争で途絶えてしまった.戦後,新たに発足した会が現在まで続いているのである.
今から37年ほど前,当時の会長・佐藤量八氏の“今,我々が元気でそれぞれの分野で働けるのは小学校,中学校でお世話になったおかげである.その感謝の気持ちを形で表そうではないか”との 提唱で“母校を励ます会”が発足した.当時,40台前半だった私は佐藤氏の命令で“母校を励ます会”会長にさせられてしまった.勤務先ではプロジェクトチームを抱え,時間的にも気持ちの上でも余裕がなかったが,清水の舞台から飛び降りる気持ちで(少し大げさだが)お引き受けした.会の運営資金は会員の寄付金で賄い,毎年,母校の片貝小学校,片貝中学校に図書費として10万円づつ贈るとともに,中学校で講演会を開くことを決めた.小学校にはこの図書費で賄う文庫が作られた.相馬御風作詞になる校歌“洋々として流れゆく大河信濃の水清く・・・”からいただき,私が「洋々文庫」と名付けさせていただいた.毎年,6月開催の総会には,小,中学校の校長が上京され,贈呈式が行われている.近隣の小,中学校から転籍してこられる教員は前任校に比べ,図書の多いことに驚かれるという.毎年「世界児童文学全集を購入しました,とか動物,植物図鑑を購入しました」などと担当教員からの手紙や生徒たちからの感謝の作文が送られてくる.生徒たちの読書感想文コンクール等で多くの入賞歴がある.こんなことが37年も続いており,地元の“新潟日報”にも取り上げられたことがある.もう,親子2代でそれらの図書を読むような年月が経過した.
講演会の方は毎年,10月から11月にかけ,講師が中学校に赴く.小学5年以上の生徒たちが講演を聴講することになっており,中学校では教育活動の重要な行事の一つとして組み込まれている.父兄の希望者も参加する.高名な人を呼ぶほどの資金もないから,講師は母校のOBの誰かが勤める.はじめのころはどこかの分野で成功され,功成り名を遂げられた方が選ばれたが,そんな方はたいてい70歳以上であるから,生徒たちとの年齢に差がありすぎ,講師が熱弁を奮っても言葉使いや自慢話など話の内容についていけず居眠りする生徒が続出した.幹事会で相談の結果,ある時から,その年,50歳の同期生の中から活躍中の誰かを選ぶことにした.それが功を奏したようで,自分たちの父親や母親よりわずかに年上の講師の話に生徒たちは熱心に耳を傾け,講演後の質問も活発になった.昨年は第37回講演会が実施された.会報によれば,自分達の先輩が世の中で活躍中と知った生徒達は非常に感動したようである.長く続いて欲しいと願っている.
 
 
 
 
 
 
                            
 

2019年1月 調査しました

20191月 調査しました
 
 新年早々,老人の小言で申し訳ないが,まあ聞いてください.ここ,数年気になっていたが,昨年秋の学会に出席,その想いを一層強くした.発表者が頻繁に「・・・・・について調査しました」と発言するのである.私なら状況に応じて「・・・・について研究しました」とか「・・・・・について検討しました」,「究明しました」あるいは「解明しました」いうところである.未知の現象の原因を究明するのに,あるいは画期的な効果が期待される新物質の合成法を検討するのに,“調査する”という言葉を使うだろうか.大学院クラスの若い発表者のみならず,中堅の教授クラスの発表者も,“究明する”とか“検討する”,あるいは“解明する”と言わずにすべて“調査する”という表現で済ませているのである.これが,私には気になって仕方がなかった.試みに和英辞典,国語辞典でそれぞれの言葉の表現,意味を調べてみた(調査した!)
調査するinvestigate , 研究するstudy, research, 検討するexamine, investigate, study, 究明するstudy, investigate, inquire, 解明するelucidate
このように,日本語表現に対応する英単語もinvestigate が共通する部分もあるが英単語もそれぞれ異なっている.次に国語辞典(新明解国語辞典三省堂)で日本語表現の意味を調べてみた.
 調査する:ある事情を明らかにすること.研究する:問題になる事柄についてよく調べて事実を明らかにしたり,理論を打ち立てたりすること,検討する:問題となる事柄について,いろんな面からよく調べ,それがいいかどうかを考えること.究明する:本質・原因などつきつめて明らかにすること.解明する:不明な点を調べたり,研究したりしてはっきりさせること.
このように日本語では(英語もそうであるが) “調査する”が他の単語の意味と共通する部分も多いが,微妙に意味が異なっているのである.これを“調査する”だけですべて済ませてしまうのは,間違いとは言わないが乱暴である.まさか理論を打ち立てたり,仮説の信憑性を検討することを,“調査する”とは言わないであろう.“研究する”である.
 もう一つ気になった表現は上記ほど頻繁ではないが,“成功した”である.
研究者や技術者が自分のやってきた結果について“成功した”と言えるのは一生に1回あるかないかであろう.あれば非常に幸運であったといえよう.それが,学会の講演でかなり耳にするのである.現役時代の頃,卒業研究発表会で,有機化合物の置換基を一つ,二つ付け加えただけで,あるいは無機化合物の合成で別の元素を一部新たに導入したくらいで「世界で初めての新規化合物の合成に成功しました」と表現する学生がかなりいた.確かに事実であり,彼らの高揚した気持ちは尊重したいがいくら何でも大げさすぎる. せめて「新規化合物を合成することができました」とか,「これまで知られていない事実を見出しました」くらいにしておきなさいと私の研究室の学生には指導した.彼らは少々不満そうな顔つきをしたが.
 研究助成金の申請書などにも自分のこれまでの成果を強調するあまり“成功した”という表現が頻発するものが見られる.審査員によって異なるとは思うがへそ曲がりの私はこれを見ると眉に唾を付け,内容を厳しく吟味したくなる.損な表現であると思う.
 このように年々,使用する単語の数,語彙が少なくなって表現が単調化し,言葉の意味が軽くなっていくのは何故であろうか.それはひとえに読書量が減り,新聞を読まなくなるとともにメールやラインが汎用される昨今のどうしようもない風潮のためである.手紙やはがきも書かなくなった.そのうち,自分の考えや微妙な感情を適切な言葉で表現できなくなる時がやってくるのか.自分ではできなくて代わりにAI (人工知能) がやってくれるのだろうか. 
昨年末の新聞記事1) である.俳句イベントで愛媛の俳人チームと約7万句を学習させた北大チームが俳句を5句ずつ読み合った結果,AIチームは俳人チームに敗れたが,AIの句 「かなしみの片手ひらいて渡り鳥」が最高点を得たという.唯一の慰めというか開き直りは,この句はどのような情景を読んでいるのか,どのような思いが込められているのか作者に聞くすべがないことである.読み手が勝手に想像するのである.そのうち,AIから多くの人々が共感するような句も生まれてくるのであろうか.
     ひしひしとAI迫る年の暮れ  ()


1)朝日新聞2018125日付け夕刊