2024年3月 記憶その8

 大屋敷の家に移って早速、友達ができた。近くの朝日屋さんという大きな大工さんの家の確か5男でT君といって一歳年下だった。寺町のころも何人かの友達と遊んだが、T君と初めて心の通う友達ができたような気がした。朝日屋さんは寺町の家を建てた大工さんでもあった。工事現場でT君のお父さんの棟梁が家の建て初めの頃、あるいはもう家は建っていたから、後ろに増築する製糸工場建設の時だったかもしれないが、口に鉋屑を噛みながら柱を鉋で削っておられた様子を思い出す。薄い鉋屑がシュルシュルと鉋から吐き出される様子が面白く見飽きることがなかった。

 T君とは釣りをはじめいろんな遊びをしたが、今も鮮明に覚えているのは鈴虫捕りである。7月終りか8月初めの頃だった。家の前の県道を自転車で山屋の方に向かった。家から1kmくらい走っただろうか、山屋の外れ、小千谷の方向に向かって右側に杉の林があった。その中に幅1mくらい、深さ1mくらいの溝が数mにわたって掘られていた。何のために掘られたのだったのだろうか。この溝穴に入って、穴の壁面の窪んだ所や小さな穴に息を吹きかけると孵化したばかりの鈴虫が飛び出してくる。未だ、雄か雌かはわからない。これを両手でそっと抑え込むようにとらえて、紙袋に入れた。70年以上も前のこと、便利な薄いビーニル袋など未だ無かった。10匹くらい捕まえて家に持ち帰った。梅を漬けるのに使う直径20cmくらいの常滑焼の甕を母に借り、これに土を入れて鈴虫を放った。餌は削った鰹節、半分に切った茄子だった。時々新鮮なものに取り換えた。甕には隠れ家のつもりの枯れた木の根っこなども入れ、飛び出さないように亀の口をガーゼで覆った。1-2週間もすると幼虫も大きくなり、脱皮し雌か雄か分かるようになった。雄は確か、ペチャといった。背中に平らな、体以上に大きな白い半透明の羽を付けている。7月末か、8月初めには鳴き出した。鳴くときはこの羽をヨットのように垂直に立てて震わせる。この羽の擦りあう音が鳴き声となって聞こえるのである。数匹が同時に鳴くと夜中などうるさい位だった。9月も末になると、さすがに鳴き声も衰え、雄は一匹、一匹と雌に食われていなくなった。丸々肥えた雌たちは土中に産卵管を突き刺して卵を産むと息絶えた。甕はそのまま、部屋の隅の比較的暖かいところに放置し、時々乾燥を防ぐため霧吹きで土を湿らせた。翌春、4月頃恐る恐るガーゼの覆いを取ると卵から孵化した数mmの小さな幼虫が数十匹、むらむらうごめいている。無事、越冬してくれたと嬉しかった。早速、ゆで卵の黄身や細かく粉末のようにした煮干しを与えた。彼らはこれに群がり、食欲旺盛だった。土が乾燥しないよう時々霧吹きで水を吹きかけ、鳴くまで数か月間育てるのである。こんなことを毎年繰り返し、3年生になり受験勉強が忙しくなるころまで続けた。以下次号。

204年2月 記憶 その7

 浅田先生は好奇心の強い方だった。小学校は地山を切り崩した崖の際に東向きに建てられていた。地山を切り崩して校舎を建てる際に円筒型埴輪が出土したとか1)。校舎の後ろの崖にはようやく腰をかがめて入り込めるようなトンネルがくり抜かれていて、地下水が流れだしていた。子供たちが入り込まないよう柵などしてあったような記憶がある。ある日の昼休み、先生は我々数人を引き連れ、懐中電灯をつけながらこのトンネルに入って行かれたことがある。むろん口止めされた。30mくらい入ったところで行きどまりだったか。足元には冷たい水が流れ、時々首筋などにも水滴が滴り落ちた。いま、このトンネルはどうなっているだろうか。正月には数人で先生のお宅にお邪魔した。おせち料理をごちそうになった後で、百人一首をやった。先生は札を読みながら、自分でも絵札を取られたが、その手付きは速かった。私の持ち札は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」他数枚しかなかった。これだけは取られないようにと目を凝らしていたが、時々やられた。

 家の近くにYさん一家が住んでおられた。次男で私より3年先輩のKさんは当時長岡高校生で、時々当時新潮社から出ていた「銀河」という月刊誌を貸してくださった。この雑誌を読むと少し大人になったような気がした。残念ながら、若くして亡くなられた。妹のTさんは同期だったが、彼女と遊んだ記憶がまったくない。当時はターザンごっこや魚釣り等、餓鬼どもとの遊びに夢中で女の子には未だ興味がなかったか。彼女はもっぱら、私の弟たちの相手をしてくれていたようだが、申し訳ないことに記憶がない。数十年もあとになってから聞かされた話である。

 6年生の春3月、5年間ほど住んだ思い出の多い寺町の家から、大屋敷(地名)の借家に引っ越すことになった。県道の一ノ町の外れ、清水橋から来迎寺の方に向かって4軒目、道路の西側の家だった。引っ越しは3月末の凍渡り(しみわたり)のできる冷え切った朝だった。未だ一面の雪の原を利用し、そりに荷物を積んで運んだ。一直線で7-800メートルくらいだっただろうか。近くのおばさんが二人助っ人に来てくださった。寺町の家から東の方に向かってなだらかな下り坂になっている雪野原をそりで荷物を運ぶのは、でこぼこ道を荷車やリヤカーで回り道して荷を運ぶよりはるかに労力が少なくて済んだ。

引っ越した家には未亡人のお婆さんが一人で住んでおられた。この家にしばらくの間同居した。一か月くらい後、息子さんを頼って上京された。帰省中だった息子さんは二十歳前後だったか、わずかな間だったが、いくつかの遊びを教わった。ある朝、そのお兄さんに連れられて、シャベルとバケツを持って未だ雪野原の田圃に向かった。雪に覆われていると言っても田の端の方にはところどころ、湧水があって雪が解けていた。そんなところを覗くと5ミリから1センチメートルの穴が数個ぽつぽつ開いていた。そこをめがけてシャベルを突き刺し、泥を救い上げ、雪面にほおりだすと茶色の泥の中に泥鰌が数匹居た。冬眠中なのかどうかはわからないがその動きは鈍く、容易に泥鰌は捕まえられた。こんなことを数回繰り返し数十匹の泥鰌を捕まえることが出きた。また、別の日には空気銃を持って小鳥撃ちにつれて行ってもらった。宙を飛んでいる雲雀や電線に泊まっている雀を狙ったが、たやすく撃ち落とせるものではなかった。直径数ミリメートルの鉛弾(ダムダム弾といったかと思う)を銃身の根元から折り曲げ、穴に詰め、撃たせてもらった。今は鉛弾など禁止されているのではないか。印象深い経験だった。

近所には80代の老夫婦が住んでおられた。通りに向いた部屋で、お祖父さんは小鳥を飼ったり、凧作りなどをしておられた。その様子が通りから窓ガラス越しによく見えた。何凧というのだろうか、横に長い鳥の形をした大きな凧だった。その凧作りの様子を長く眺めていたものである。

私はものつくりの様子を眺めるのが好きなようである。近くには靴屋さんがあった。また、寺町の家の近くには箪笥屋、彫刻士の店などもあって、次々新しいものが出来上がっていくのを眺めるのは楽しかった。 以下次号

  • 山口石根、東京片貝報、第108号(2023.12.25)

2024年1月 記憶 その6

 

 5年、6年の担任は浅田シズ先生、当時25歳前後だったのではなかろうか。結婚され、途中から安井姓に変わられた。第二次大戦中は20歳前で女子挺身隊の一員として学徒動員され、当時の逓信省でモールス信号を打つのが仕事だったと伺ったことがある。この辺、記憶があいまいであるが、ある年の町の文化祭で、理化学機械の展示品の中にモールス信号の発信機があり、「未だ打てるかしら」とつぶやきながら、トン、ツー、トンと懐かしそうにモールス信号を打っておられたのを目撃したのは確かである。毎日、絵日記を書くことが宿題だった。朝、提出すると赤ペンで何らかのコメントを書き、帰宅時時に返された。ある日の日記に少年雑誌の付録についてきた晴雨計のことを書いた。ボール紙細工で晴雨計らしきものを組み立てるとセロファン紙のぞき窓を通して天気の様子を示す表示面があった。そこが雨の日は桃色に、晴れの日は青色に変わった。コメントに「多分、塩化コバルトという薬が塗ってあると思います。この薬は湿気を帯びると赤味を帯び、乾燥すると青くなります」と書いてあった。その時はそんなものかと思っていたが、大学での無機化学の講義で金属錯体のことを教わった。塩化コバルト(II)は含む結晶水の数によって色が変化し、無水塩(淡青色)、一水塩(青紫色)、二水塩(バラ紫色)、六水塩(赤色)と多彩な色を示すのである。浅田先生はこのことを知識と知っておられたのか、私の日記のコメントを書くために調べられたのかは定かでないが、小学生に対してすごいことをなされたと後になって思うのである。乾燥剤のシリカゲルにもこの塩化コバルトが添加されており、赤味を帯びると青色になるまで乾燥器に入れ、再利用している。

  ある時の算数のテスト結果は50点以下だった。浅田先生に職員室に呼び出され、「あなたはこんな力ではないはずだ。手を抜きましたね」と厳しく叱られ身に浸みた。また、毎日給食後、シャーロックホームズや三銃士などの小説を読んでくださったのを懐かしく思いだす。先に述べた藤塚先生が博多に帰えられてから、両親を亡くした教え子を支えた事が美談として『主婦の友』か何かの婦人雑誌に載った記事を紹介してくださったこともあった。ある時、浅田先生の都合が悪かったのか、理科の時間を隣のクラスの本田一郎先生が代わりに受け持たれた。突然、水に釘を入れるとどうなるかといった錆に係るテストがあった。皆、出来が悪かったが運よく、私だけが100点だった。本田先生は「少しは祐一の真似をしろ」などと説教された。隣のひょうきんな男の子 (名前は憶えていない) が私をじっと眺めて「俺も明日から頭を虎刈りにしてもらおう」と言った。その頃、私の散髪は床屋に行かず母にしてもらっていたが、髪の毛の刈残しがあったのである。猛烈に恥ずかしく、帰宅後母に文句を言った。以下次号

2003年12月 記憶 その5

 これまで子供時代の遊び頰けた思い出ばかり述べてきた。でもこのことが私の人生をどれだけ豊かにしてくれたことか。子供は遊びが仕事である。そろそろ学校時代のことに話を進める。45年4月脇野町小学校に入学した時の先生を全く覚えていないことはすでに述べた。記憶がはっきりしているのは5月片貝小学校に転入してからである。国民学校と行ったかもしれない。1学年、160名くらい、東組、中組、西組に分かれていた。私は中組に転入、どういうわけか、この組は人数が少なく30名ちょっとだった。体の弱い、あるいはちょっと訳ありの子が集まっているとのうわさがあった。担任は藤塚初枝先生、40歳少し前位の私より2歳年上の男のいる戦争未亡人だった。福岡のご出身だったが、ご主人の郷里の片貝に疎開しておられた。きれいで物静か、包容力のある優しい先生だった。疎開っこといじめられ、泣き虫だった私をよく陰でかばい、励ましてくださった。3年生まで担任だったが、長期間同じ先生の受け持ちは良くないと4年生の組み換えの時、男の野中先生に変わった。あとでそんなことを母から聞いた。先生のことで妙なことを覚えている。先生の足の親指は内側に向いていて人差し指とぴったりついていた。われわれ子供たちの足の親指と人差し指の間は開いていたから、気になったのであろう。このことを不思議に思ったので訊ねたのであろうか。先生は子供の頃から靴を履いていたからだと言われ、子供心に納得した。我々は下駄や草履履きが普通でどうしても親指や人差し指に力がはいり指の間が広くなってしまうのである。昨今の子供たちはどうだろうか。藤塚先生は4年生の頃福岡に帰省され、その後も教師を続けられた。4年生の担任の中先生、多分20歳代後半から30年代前半の眼鏡をかけた男の先生だった。演劇に情熱を燃やしておられたようで、学芸会の折、職員で演ずる劇中でどんな筋だったかは覚えていないが、大きな声で叫び熱演されていたのを覚えている。

 2月25日は学問の神様、菅原道真公の命日、毎年この日小学校の学芸会が行われた。娯楽設備などなかった当時、この学芸会と運動会は父兄たちも参加する一日がかりの大イヴェントだった。学芸会には昼食持参で参加する親もあった。劇や踊り、合唱などが繰り広げられた。各学年からは演劇が披露された。私は1年生のとき、“舌切り雀”のお祖父さん役、二年生では“浦島太郎”、三年生の時は“ヘンデルとグレーテル”での父親役を振り当てられた。不思議なことにいずれの役も気の弱い、優しい性格の男性の役だった。今でも幕が開くときのドキドキ感、幕が下りた時の安堵感を思い出す。出演するのが恥ずかしく、逃げ回っていたが先生の説得でやらざるを得なかった。音響設備などもなく、手回し蓄音機で、静かな雰囲気を表す場面ではよく、“白鳥の湖” のレコードが演奏された。

1年から4年まで、どんなことを勉強したのだろうか。成績はまあまあだったようだが、具体的な内容は記憶にない。 以下次号

 

 

2023年11月 記憶 その4

  何十年も気が付かなかった俳句の顕額に気づいたのも78歳の頃から俳句を始めた影響であろう。毎日、2、3句を作ることを目標にしているが、駄句ばかり溜まっていく。最近嬉しかったことは、朝日俳壇に高山れおな選(朝日新聞10月29日付け)で下記の句が採られたことである。きちきちとはばったのことである。

  きちきちの緑色の眼空虚なり

いつか、句集をと願っているが、時間との競争である。

 近所の桐箪笥屋のお祖父さんが大菊作りを趣味にしておられた。桐箪笥と言えば、片貝には桐の木が多かった。女の子が生まれると親は敷地内に桐の苗を植えた。それが育って、女の子が結婚する頃、その桐を切り倒して箪笥を作り嫁入り衣装として持たせたとか。小学4年生ころだっただろうか、6月初めのある日、学校帰りだったかどうかは覚えていないが、そのお祖父さんが玄関先で菊の苗を植木鉢に植え替え作業をしておられるところに行き当たった。お前さんもやってみるかと菊苗を3本ほど分けてくださった。早速、家にもって帰り、父の持っていた素焼きの植木鉢に腐葉土とともに植えた。初めは直径15 cmくらいの鉢に、7月初め、背丈も大分伸びたころ、直径30 cmの10号鉢に植え替えた。肥料は油粕、脇芽は摘み取って一本立ちにした。倒れないように細い竹の支柱を立て茎を結び付けた。今はもう専用のプラスチック製の支柱が販売されているが当時、そんなものはなかった。8月末から9月初め頃になると数個の蕾を付けた。これを見つけたときは嬉しかった。数週間たち蕾が1,2cmになったころ、2個だけ残し、あとは摘み取った。さらに大きくなり、花びらの色が見えるころ、これを本仕立てにするため、より大きな方を一個だけにした。細い針金で直径15 cmくらいの渦巻き型のリングを作り、蕾の下側から注意中心部に水平に入れ支柱に括り付けた。花が開いたとき花びらが下に垂れないように支えるのである。この作業は最新の注意が必要だった。その頃は台風の季節でもある。大風のに日は鉢を玄関に入れ雨風から守った。直径15 cmから20 cmくらいの見事な大輪が開くと嬉しかった。玄関先に出して通りを行く人に見てもらった。ある年、今にも咲きそうな蕾が折られているのに気づいた。犯人は次弟だった。好奇心に駆られ、いじっているうちの蕾が取れてしまったのであろう。つい、こちらもかっとなって彼の頭に思い切り拳骨をくれた。彼は今もそのことを覚えていて、事あるごとに、あの時の拳骨は痛かったと言っている。この菊つくりは中学生になったころから、勉強その他で忙しくなり止めてしまった。家が二之町の街中に引っ越し、腐葉土入手が困難になったことも理由だった。

 酒座川を2-3 km下ると鴻巣の方から流れてくる川(清水川といったような気がするが定かでない)と合流し、須川と名前が変わった。川幅も5、6 mとなり、田圃で灌漑用水の役割も担っていた。さらに北の方、数km先は来迎寺駅近く、信越線の列車の走っているのが見えた、この川によく釣りに出かけた。4月の末になると雪解け水も暖かになり、魚の動きも活発になった。餌は蚯蚓でハヤやジンケン(うぐいのこと。肌がピカピカ光って人絹のようにみえたからだろううか)がよく釣れた。たまに鮒や鯉、鯰も釣れた。7月には日照りが続く。田に水を引き入れるためか、川がせき止められた。急に堰の下流の水深が浅くなり、溜まっていた小魚があちこちでぴちぴち跳ねた。ある時、運よくこの場面に行き合わせ、手掴みで沢山のハヤ、ジンケン、タナゴ、鮒等の小魚を捕まえることができた。ふと脇を見ると川の隅に潜んで、背中を半分ほど水面から出した数十cmの大きな鯉に気づいた。誰にも気づかれぬようにそっと近づき、ズボンの濡れるのも構わず、鯉の頭を自分の方にむくよう座り込み、鯉を両手で股に引き寄せ捕まえることができた。意気揚々と家に持ち帰り、母の裁縫箱から物差しを引っ張り出し、鯉の体長を測ったら7寸あった。1寸は約3cmであるから21cmである。しかし、私の感覚ではもっと大きかった感覚があり、長くそのことが気になっていた。大人になってから、本か、新聞かは忘れたが、「鯨尺」という言葉を知ってハッと気が付いた。鯨尺とは呉服、反物などを取り扱う際の単位で同じ1寸でも約1.79 cmである。あの時の物差しは母が裁縫をするとき使用するのものだったから鯨尺に違いない。するとあの時の7寸は約26.5 cmになり、21 cmよりかなり大きくなった。それでも、私の記憶ではもっと大きかったような気が今もしているのである。 以下次号

 

 

2023年10月 記憶、その3

 酒座川の上には両岸から栗の木、藤ノ木、その他の雑木が川を覆うように茂っていた。子供たちはそれらの木に登り、木の枝から枝へ渡り継いだり、藤の弦にぶら下がって、揺すっては対岸の木に乗り移って得意になっていた。ちょうどその頃はやっていた映画、「ターザン」の真似をしていたのである。当時のターザン役はワイズミューラー、オリンピックの100メートル自由形競泳の金メダリストだった。ターザン役は数代続いたが、ワイズミューラーが最も恰好がよかった。ある時、小学校の講堂(当時は運動場と呼んでいた)で、そのターザン映画の映写会があった。児童たちが板の間に座って鑑賞するのである。映写機を操作するのは男の先生。映画の途中で突然画面が暗くなり、何も見えなくなった。先生が教育上好ましくないと判断されたのであろう。ターザンと妻のジェーンのラブシーンの場面で投影機のレンズの前を手で覆ったのである。ところが、手を離すのが少し早すぎて、二人が離れるあたりから、画面が映った。何もわからない、まだ幼い悪ガキたちはなんだ、なんだと騒いでいた。

 川の対岸の雑木の後ろには樹齢数十年の杉の木が数本並んで生えていた。父の子供の頃から有ったとか。高さは20メートル以上あっただろうか。今も同じようにそこにあるから、もう樹齢は100年以上になろう。枝おろしなどの手入れはされていないから、次々と枝に手を掛けると、子供でも容易に上に登っていけた。また周りにも枝が繁茂し、下の方が見えないから怖くはなかった。杉の天辺近くから眺めた景色は爽快だった。今も帰省するたびにその杉の木を眺めるとあの頃のことが懐かしく思い出される。

 家の近くには、山口姓が氏子の神明社があった。周りは鬱蒼とした杉の大木に囲まれていて、境内に100坪にも満たない平地があった。ここで、三角ベースの野球をした。夏休みの始まる8月1日からは毎朝、8時ころここに近所の子供たちが7-8人集まって夏休み学習帖を持ち寄って宿題をやった。その時使った花御座が数年前まで物置に残っていたがどうなったか。一週間くらいで天気予報とか、読書感想文、自由研究を残して宿題は終わってしまうのでそのまま朝の集いは終りになった。神社の建物は高床式で、素通しだったから床下に潜り込めた。地面には蟻地獄が住んでいて小さな穴をいくつも開けていた。蟻を捕まえてきてはこの穴に落として蟻地獄が食いつくのを見守って遊んだ。

 数年前、帰省した折に俳句の顕額が2面神社の軒に打ち付けられているのに初めて気が付いた。長く風雨に曝されて文字は残念ながらほとんど読み取れないがかろうじて末尾の明治4年明治22年が読み取れる程度である。最新の機器、例えば赤外線カメラなどを使えば俳句やその作者なども読み取れるのであろうが。片貝の俳句は江戸時代から盛んで、明治42年「時雨会」が始まって現在まで続いている1)芭蕉肖像画と俳句の書かれた脇に代々の時雨会会長名が記された掛け軸と40センチくらいの芭蕉の木彫りの像を飾って句会が開催されている。江戸時代中期には会津方面まで募集した俳句を北信濃の一茶のところまで持ち込み、筆の柄の捺印(五点法)で評価し三点以上評価を得た一万句を超える句が一ノ町の観音様収められているとか。以下次号

 

  • 阿部修司「東京片貝会会報」第92号、平成7年12月25日。

2023年9月 記憶 その2

 片貝町は南北に伸びる県道に沿った約3kmほどの、北は来迎寺(越路町)、南は小千谷市につながる、いわゆる褌町で、この大通りに南の方から一之町から五之町までの町名が付けられている。両側に人家が並び、その東側の奥の方にはには清水町、町浦、屋敷などの地名とそれぞれに人家があり、西側には末広町、寺町、茶畑、稲葉などと続いている人口約4,000人の町である。石上建具店のある寺町は大通りの一ノ町の藤床さんの前から直角に西の方に向かう幅3 mくらいの緩やかな坂道道路で、石上さんはその200 mくらいの右側にある。

 この石上建具店に近接して仏教会館と称して地区の町内会の人たちの集まる二階建ての建物があった。浅原神社の秋祭り(9月9日、10日)が近づく8月下旬になると地区の子供たちが集まり、しゃぎりの練習をした。ここは江戸時代から明治初期にかけて寺子屋「朝陽館・講読堂」のあったところで、今は仏教会館の建物も無くなり、小さな公園となり「朝陽館・講読堂」の跡地を示す石碑があるのみである。1946年12月、この寺町通りのさらに500 mくらい上の左が池の平、右が片貝城跡の方に二股に分かれるY字型の道の突き当りの股のところに建った新築の借家に移った。ここで末弟の篤司が生まれた。父の姉の嫁ぎ先の島屋さんが建てられた平屋の粋な作りの家だった(今は二階建てに改築されている)。このおばさんの夫である安達鉄太郎氏はなかなかの事業家で、この家の上流に製糸工場を経営しておられた。数人の女工さん達が大きな鉄鍋に谷川から引き入れた水でお湯を沸かし、繭を茹でながら繭の取っ掛かりから糸を引き出し、数本の糸を捩りながら糸巻に巻き取っていくのである。鍋の中でポコポコ踊る繭や女工さんたちの巧みな糸を引き出す動作を見ていると飽きることがなかった。後に残った蛹(さなぎ)は集めて乾燥し、鯉の餌になったようだ。時々、その数十粒を分けてもらい、フライパンで炒って塩で味付けし食べた。おいしかった。新築の家の玄関と居間の間には厚い松板の廊下があった。母は子供たちにこの廊下を傷つけないように注意し、大切に扱った。炒った米糠を入れた木綿袋で板の表面を磨くのをよく手伝わされた。居間とその東側にある座敷の堺は衾で仕切られ、衾の上の欄間には松や鷹の彫刻が施されていた。座敷に面して、東側に縁側があってその真下には今はもうなくなっているが、当時は池があって絶えず小川の水が出入りしていた。縁側に腰かけ、足をぶらぶらさせているうちに未だ小さかった弟たちはよくこの池に落ちた。池には釣ってきた鯉や鮒などを放った。池の先は小さな庭で東端にはシンボルツリーのように赤松が一本あった。この家に6年生の3月まで住み、その後、大屋敷の方に引っ越した(後述)。この家は代々住人が変わったが、今は小、中、高校で後輩だった徳永君兄弟の母上が住んでおられる。もう、築77年になるが未だしっかりしているようである。家の南側には田圃あって、その50 mほど先には東西に酒座がうねりながら流れていた。幅3 mくらいの水の少ない谷川で沢蟹、鰍(かじか)、あぶらはやなどがいた。7月から8月にかけ、この川でよく、ヤスで鰍を突いた。割り箸の先をカミソリで少し割って、この隙間に木綿針を2、3本挟み、木綿糸でしっかり箸を縛ればヤスの出来上がり。水深5-10cmくらいのところに横たわっている比較的平らな石をそっと持ち上げると鰍が潜んでいる。その頭を狙って、ヤスで突くのである。10匹も捕れれば大漁、意気揚々と家に持ち帰り、母に七輪に炭火を起こしてもらい、焼いて食べた。醤油の香ばしい香りがあたりに漂った。当時は食料難、魚釣りにせよ、里山に行き栗採りをするにせよ遊びが食べ物獲得と結びつくことが多かった。

以下次号